第一話 沈黙に言葉を重ねたこと
① 名取俊子
ウチの娘が赤羽先生に担任していただいたのは、小学校三年生のときです。ひかるという名前です。
先生のことは、今では、よう分からんところがあります。全然、ひとっことも口きかへんし……でも、ああなる前は、子供たちには、人気の先生でした。ひかるも、ほかの子も、「恭介先生」「恭介くん」って呼ぶ人もおってね。優しいねんけど、子供と友達になって甘やかすわけではないという。ひとりひとりちゃんと見てくれる方で……熱血ちゅうのとは違います。でも、ああいう人が、先生になるために生まれてきたって言うんちゃうかなと。
だからかなあ、「かみさまの席を作った」「かみさまがお願いを聞いてくれる目安箱のようなものを作った」って言われても、あんまりおかしいとか、嫌やなあとは思わんくて。
なんかね、道徳の授業の一環言うてましたね。ほら、あるでしょう、失敗例みたいな文章を読んで、どう思ったか、どうすればもっと良い行動ができたか、みたいなんをみんなで話すという……それで、優しさや、思いやりについて考えた結果、「神様がいつも見ていると考えれば、自分の行動に少し気を付けようという気持ちになる」ということになったらしいんです。子供は、ごっこ遊びみたいなの好きやないですか。だから、本当にあっちゅーまに流行ったらしいんですよね。
神様の席というのは、幼稚園の子が座るようなちっちゃい椅子で、教室の隅においてありました。「きいてくれるよ こえなきかみさま」という、画用紙に大きく書かれた標語みたいなもんの下に、天使の絵が印刷された紙が貼ってあって、かわいらしいなと思っていました。
私も、ほかのお母さんたちも、にこにこしてましたよ。子供たちは本当に、お手伝いとかお勉強とかお片付けとかするようになったし、「悪口言うたら神様に嫌われてしまうよ」みたいなことも、お互い注意しあってて、ありがたいねっていうか、そんな感じでした。
ただ、軽率でしたよね。先生もですけど、ウチらもです。だって、直くんがいましたからね。
ああ、そうなんですか。ここ、初めてですか。じゃあ、知らないのも無理ないか。
声無き神、って呼ばれてます。昔からの言い伝えみたいな。神様やけど、声がない。声がないから、名前も分からん。ひとことも話さない。けど、聞いてはる。全部見てはる。
「伝承」とかいうと、伝説いうか、ファンタジーみたいに思われるかもしれんけど……要は、「いてる」っていう感覚です。「おわす」「いらっしゃる」言うほうが正しいんかな。熱心に、どっぷり宗教にハマってるって感じの人はいませんよ。でも、みんな、ここの人たちは「いてる」ことは分かってるんです。なんとなくですけどね。お年寄りとかは、わざわざ「神様が見てるよ」とか叱るときに言うもんですから、ひねくれた子なんかは「神様なんておらんわ」とか言うんですけど……でも、そういうときに、何か起こるわけではなくても、「いてる」と思わされるんです。そういう空気が、ずっとある場所なんです。
声がない、何も言わないって、けっこう、怖いんですよね。どうしたら怒るのか、喜ぶのか、わからないでしょう……すみません、長くなってしもて。
それでね、直くん。直くんは、転校生でした。
あの子が来た日のことは覚えてます。ひかるが、帰ってくるなり、
「お母さん、神さまっておるんやね」
と言ったんです。
どうしてそんなことを言うのかって聞いたら、直くんのことを話しました。
「直くんは神さまなんよ」
きらきらした目でそう言うひかるに、私はほほえましいなって思いました。これは、ずいぶん美少年が入ってきたんやろな、と。でも、違いました。
ひかるだけやなかった。他の子らも、なんだか、直くんが来てからは様子が違うんです、うまく説明できやんのですけど。
直くん、きれいな子ですよ。でも、見た目にああだこうだ言うの、なんか失礼な気がして。姿勢がぴっとしてて、おとなしくて、でも引っ込み思案というわけでもなくて……高貴? 神聖? ただの子供じゃないっていうのは、見たらわかりましたね。
さっき、声無き神の話しましたよね。
私は正直、言い伝えとか、そういうのは少し馬鹿にしていたくらいなんですけど、だってね、本当に年寄りは厳しく言うんですよ。
何かお願いをしようとしたら、それはそういうもんと違うって。「しゃべらん神さまにしゃべらせたらいかん」「名前をつけるな」「名前を呼ぶな」「形を作るな」「見返りを求めるな」本当に、うっといなあって。
でも、直くんを見て、思ってしまったんです。
「ほんまにおるんやな」って。
ウチらとは全く違う、ものすごい上から来たもの、そういうふうに思いました。
空気が変わるんです、直くんが喋ると、全員が黙ります。そんで、黙ってることを不自然に思わんの。
一回ね、ひかるが泣いて帰ってきたことがあって、どうしたのか聞いたら、
「直くんにノートを見せた」ってそれだけなんです。何を泣くことがあるのか、と聞いたら、
「今までにやったズルや意地悪を、全部見てるみたいやった」って。
ひかるは、気の強いところがあって、友達も多いんですけど、けっこう、ほかの子を泣かすようなところもあって。でも、その日は一日中泣いて、それからはずいぶんおしとやかになりました。
こうなったのは、ひかるだけやないんです。他の子も、距離を置くというのとは違うけど、恐れ多くて近付けないみたいな、そんな感じになってしまったんですけど、いじめ、とは思われなかったですね。だって、そんなんやのに、みんな直くんの言うことを聞くんですよ。
それで、その、かみさまごっこの話です。
クラスのみんなは、「かみさまの席」にお供えとか、絵とか、そういうもんを置くようになって、順番で、かみさまへのお供えを用意する係までできたと聞いています。
直くんは、その係は一度もやらんかったみたいですけど、その席をじっと見ていたようです。
そしたら、子供らの中には、
「あの席は、直くんの席なんやない?」
とか言う子も出てきて。
直くんは違う、と言ったみたいなんですけどね。
大変なことが起こったのは、ひかるのせい、かもしれません。
ひかるが、クラスのみんなで観察するから、言うて、お兄ちゃんととってきたメダカを水槽に入れて、教室に持って行ったんです。
でもね、持って行って一週間も経たんうちに、バカな男子がそこにザリガニ入れて、メダカは全部死んでしまったみたいなんです。
当然、大騒ぎになりました。でも、その子は名乗らんで、知らんふりした。
赤羽先生が言うたらしいんです。
「皆さん、目を瞑って。先生が良いというまで決して開けないように。誰にも言わないから、水槽にザリガニを入れた子は、手を挙げなさい」
誰も手を挙げなかったけど、すぐに犯人は分かったらしいんです。
ぼっ、て音がした、てひかるは言いました。
それで、そのあとすぐに、ぎゃあって、ものすごい悲鳴が聞こえて。
ザリガニを入れた男の子が、逆向きに曲がった腕を押さえて、転げまわってたって。
なぜか、パニックにはならんかったようなんです。理由は、よう分からんのですけど、
「直くんがふって息を吐いた」ってひかるが。それでみんな、「神さまを怒らせてしまったんや」と理解してしまったそうなんです。
それで、次の日から、男の子は登校拒否——いうか、家から出られなくなってしまったようなんです。今、どうなっているかというと、もうここにはいません。みんな、引っ越しました。
それがきっかけで、先生はちょっと、言い方悪いけど、病んでる? みたいになってしまったんです。
突然、「かみさまの席」とか、とにかくそのかみさまごっこに関するもんを全部撤去して、
「今日でこれはおしまいにします。ごめんなさい、あそびはあそびで、本気にしちゃだめだったんだよ」
みたいに。何か、触れられたくないことに触れられたようやった、って言ってました。
「神さまはいると思いますけど」みたいなこと子供らは言ったらしいんですけど、「あそびはあそび」って繰り返されるだけやったとか。
でも、それで終わりませんよね。実際、天罰をくらった子がいてるわけやし。
なんかね、みんな、誰かが毎日、ケガしたりで……本当に怖くて。ひかるも、泣きながら学校に行くみたいな感じになって。
でも、ある日、赤羽先生が、頭を下げたらしいんです。それで、何も起こらなくなった。
それから、先生は、ひとことも話しません。
ほんまに一切です。保護者会にも出て来やん。保護者とか、校長先生とかの偉い人が言うても、何も。給食の時間、お通夜みたいやったって。
ずっと、机に座ったまま黙ってはった。指示もなし、返事もせん。
先生は、結局、辞めてしまいました。奥様や、お子さんは故郷に帰ったそうですね。先生だけ、一人で、あの家に住んでます。会釈くらいはしてくれますよ。にこにこしてて、やさしい感じのおじさんです。口をきかないだけです。
直くんが、先生に言うたこと、ひかるから聞いて、ずっと覚えてます。
「先生も言ったじゃないですか。あれは、いつも見ていますよ」
そのあれ、っていう言い方……怖くないですか。神さまとかでなく、あれ。
私は、勝手な想像ですけど、先生は本当に見てしまったんやと思います。
それで、責任感の強い方やったから、自分のせいで、呼び込んだというか……そんなふうに思って、それで、話さないようになったのかなと。そう思います。
② 大石喜和子
記録の人ね。遠いところからよういらっしゃいました。大したものも出せないですけど……。先生の話ですね。
赤羽恭介先生は、ウチのすぐ裏手に住んでますよ。
娘さんがまだ小さいときに引っ越してきて、家族三人。ほんまに、仲のええ家族やった。絵に描いたような幸せな家庭、ちゅう感じで。
直くんが来てからですね、先生の様子がおかしくなったのは。
あの子は、挨拶もしない子やから、最初は、いくら姿がきれいでも、どうなんかなあと思ってましたけど……あなたは、信じないかもしれないですけどね、そんなことは、どうでもええことなんよね。
あの子を見たとき、鳥肌が立った。明らかに、ふつうの子供とは違う。怖いねんけど、それ以上に、惹きつけられるというか、ねえ。あなたも、きっと見れば分かると思います。
小学校で何かがあったんは知ってます。それが、どうも直くんがなんかやったようやっていうのも。でもね、仕方がないでしょう。直くんは直くんやもん、人とは違うし……。
とにかく、先生のことね。丁寧な人やったね。学校でも評判もすごくよろしいみたいでしたし。あの人が、悪いことをするっていう想像は、つかないですね。でも、あんなふうになってしまったからには、何かしてしまったのかもしれないと思っています。
奥さんも、優しそうな、清潔な、ふつうのお母さんでしたよ。「さすが先生のお嫁さんやね」って、評判も良かったです。ええ噂しかなかった。基本的には、挨拶をするだけの仲でしたけど、人の好さが顔に出ているというのかな。でも、なんや、だんだん、変になってきてしまって。
まず、服が変になってくるんですよ。同じ服をずっと着ているように思いました。味噌汁かなんかがこぼれたようなシミがついとるのに、それが乾いてもそのまま。髪もね、べたべたしていて、お風呂に入ってないんやないか、とそんなふうに言われとりました。
それで、私が郵便を取りに外に出たときな、道の真ん中に立っているんよ。空を見上げて、ただ、立っている。
何してるんですか、って声をかけたら、声を聴いてると言うんです。声ってなんの? と聞いても、笑うばかりでした。
なんもせんと、空見上げてることが、本当に増えていったんです。
そのたびに、誰かが声かけるんやけど、やっぱり、意味の分からないことを言われてしまって。
しばらくすると、家から出てこなくなった。
お嬢さんだけ一人で買い物なんかしていることもありまして。でも、そのお嬢さんも、すぐに様子がおかしくなってしまったんですよね。
私の夫が、
「あの子、なんもない方向見てるで」
っていうから、見てみたら……先生の家は裏が空き地になっていたんですけどね、その空いたところをぼうっと眺めているんですよ。手を振ったり、呼んでみても、なんの反応もせん。笑顔のかわいい子やったんやけど、本当に、別人のようでした。
それである日ね、勝手口から、奥さんがなだれ込んできて、そのときは正気いうか、そういう感じで、
「娘は、寝てるときだけ口を動かすんです! 起きてるときは、ひとことも話さないのに!」
って大声で。
宥めすかしたんですけど、そのまま顔を伏せてわっと泣いて、どうしようもなくてね。それで、泣き止んだかと思ったら、そのままぼうっと出て行ってしまいました。
そのころには、近所のもんはみんなみんな、心配して、どうにかしないといけないと話していましたけど、なんも答えないようになってしまったんです。何を話しても、何もかえってこないんです。もう誰も、どないしたらええのか分からんかった。
先生も、やるだけのことはやってたように思います。学校のことやりながら、奥さんやお嬢さんを懸命に支えておられたように見えます。
それでもね、二人とも、ひっとことも話さんのですよ。
話さん代わりに、手を小さく、ちょこちょこっと動かして、あれはなんの真似やったんですかね。だから、どうしようもないでしょう。
それで同じくらいに、直くんが学校でなんか起こした、というのは噂になりました。天罰、与えたって。
それで、先生も話さないようになってしまった。全く話さないんです。
一度お見かけしたとき、
「奥さんとお嬢さん、どうしてますか」
と聞いたらね、目だけこちらに向けて、頭を下げてくれましたが……口は真一文字に結んで、何もお話しせえへんのですよ。
直くんとは、当たり前やけど、関わってると思いますよ。何かしたんやと思う。でもね、何かしたというのは、当然の報いということもあるでしょう。
神様に顔向けできんようなことをしたか、言ったか、どっちかやと思うんです。
直くんは怒ったりせんからね、ただ、なるようになった。そういうものやと、こちらに分からせにきたっちゅうことではないかと思います。
先生は今も、なんにもお話しにならないと思いますよ。
いつの間にか奥さんもお嬢さんも、奥さんのご実家に帰ったと聞いてます。
それでひとり、玄関先に座って、にっこり、ここの人間を見ていますね。ええ人やと思う。でも、ええ人だということが、必ずしも神様に伝わるわけではないですね。
なんやろな。人が、じわじわと、向こうの世界に近付いてしまうときって、こんな感じなんやな、と思ってしまって。ほんま、恐ろしいことですよ。
どうしてそんなことが分かるのかってそれは……一度、直くんがこちらに来てね。
先生の家の前で、じっと見とるんですよ。先生は直くんのことを見ていなかったんですけどね、直くんはじーっと見とって。
かなり日差しの強いときやったから、
「直くん、そこに立ってたらしんどくなってしまうんじゃない?」
と声をかけたんですよ。
そしたらね、
「悲しいことですね。しんどいことですね」
みたいなことを、悲しそうでも、しんどそうでもない顔でぼそぼそっと。
「こっちにお入りになったら?」
とまた言ったんですけどね、
「一度言ってしまったことはなかったことにはならない。もうどうしようもできない。あれは、戻すことを知らない。でもあの人は、偶然にも、あれの思う通りのことをしているようだ」
そんな感じやったかな。
「はい?」
意味が分からないので聞き返したら、直くんは私の方に顔を向けて、
「ある言うてしまったら、ないことにはならんのよ」
私たちとおんなし言葉で、そう言いました。
それで、そのまま……それで、分かったんです。
先生がああなったんは、神様のご意志なんやなって。触れてはならんもんはあるんやなって。
直くんですか? どこにでもいらっしゃいますよ。あなたもどこからでも見えると思います。会う……会うのは、まあ、会うべきときが来たら、向こうからいらっしゃるんちゃうかな。
私も、また会えることもあるかもしれんからね、毎日、ここね、ここに神棚作ったので、こちらにお酒、一口だけ入れて、おいてるんです。
なんやろなあ、こういうことは、昔から、決まっとるんやと思います。