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 話は一通り終わった。終わった、と本人が言ったわけではないが、あの人の口の中で同じ言葉が何度も裏返って、もうこれ以上は出てこないのだと分かった。

 エアコンの風が一度止まり、蛍光灯の白が紙に反射する。私は録音機の赤い点を見て、停止ボタンを押した。ピッという短い音。会議室は静かになった。静かになってみれば、残っていたのは、恐怖ではなく、単純な苛立ちだった。

「それ、本当の話じゃないですよね?」

 自分の声が思ったより大きく、よく通った。

「もし本当のことなら、とっくにニュースになってます。警察も動くはず。一ヵ月はトップに君臨し続ける大ニュースですよ。でも私、そんな報道は一度も見ていません。それに、そんな曰くつきのドラマだって、もっと有名になってないと筋が通らない。つまり」

 私はペン先でノートの端をとん、と叩いた。

「全部、あなたの脳内の話です」

 加納は、こちらを見た。目のふちが濡れている。笑っているのか怒っているのか判断がつかない顔。

「……金栗さんを呼んでくれ」

「来ません」

「俺は話した。あんたは呼んでくれ。金栗さんなら、なんとかしてくれる」

 繰り返すうちに、声が擦れていく。私はため息を飲み込み、椅子の背にもたれた。

「今日は来ません」

「呼んでくれ」

「だから、来ませんって。仮に来たとしても、あなたの話なんて聞かないでしょうね。私は聞きましたけど、記録する気はありません。これは全部妄想ですよ。病院へ行ってください」

 自分で言いながら、少し気分が良くなる。曖昧なものを曖昧に残すのは、仕事ではない。私はノートを閉じ、表紙の角を揃え、録音機をポーチに戻した。

「記録係ですから、不正確なものを記録することはありません」

 念のため、もう一度釘を刺す。

「すべてフィクションとして扱います。以上です」

 加納はうつむき、指で机の木目をなぞった。小さな音が、爪の先で立つ。

「金栗さん、呼んでくれ。呼んでくれ、金栗さん」

「うるさいな」

 思わず本音が出て、私は咳払いで上塗りした。

「すみません。とにかく、私は戻ります。体調が悪いなら、総合病院の精神科の受付時間を調べてから自分で行ってください。救急なら119です。あなたのケアは、私の業務じゃないです」

 椅子を引く音が、床で長く伸びた。立ち上がると、加納も半歩だけ立ち上がりかけ、すぐ座り直した。目だけが、ぎょろりと動く。私はその視線をやり過ごした。

「あの……」

 私はドアノブに手をかけたまま、形式で訊いた。

「今言ったこと。『金栗さんならなんとかしてくれる』ってやつ。どういう『なんとか』を期待してるんですか」

「止め方だ。止め方を、きっと知ってるから。教えてくれる」

「じゃあやっぱり病院ですね」

 ドアを開ける。廊下の空気は薄く、事務机の並ぶフロアからキーボードの音がかすかに漏れていた。振り返らない。

「録音データは、消しておきます。記録は残しません。お大事に」

 扉が閉まる。私は早足で受付を抜け、外へ出た。夕方の光は白く、駐車場の白線が眩しい。私は一度だけ、ポーチの口を開け、中の録音機を見た。仕事道具だ。突然、何かを話したりはしない。

 寮までの道を歩く。途中、コンビニのガラス窓に自分の顔が映った。想像より元気そうで笑ってしまう。寮に戻ったら、シャワーを浴びて、簡単に夕飯を済ませて、寝る。明日の予定を手帳の明日へ移す。加納の名前は、線で静かに消す。

 ドアを閉めて、鍵の音を二度確かめる。靴を蹴り出して、そのままベッドに尻から落ちた。

 バッグを開け、ポーチからレコーダーを引っ張り出す。黒い四角。親指の腹でスイッチを触る。

「一応、確認するか」

 自分にだけ聞こえる声で言って、再生を押した。

 最初の数秒は空気の擦れる音だけだった。会議室の空調、椅子を引く音。私の息。

 少し笑う。

 あの作家に厭味たっぷりに「記録はしない」などと宣言したが、そもそも撮れていない。音声が入っていない。最初の緊張したやり取りも、彼の長ったらしい語りも全く入っていない。

 早送り、停止、巻き戻し。なんとなくやってみる。やっぱり、遠くで人が話しているな、ということしか分からない。

 もう一度だけやってみる。そして、いきなりそれは出た。

 低い、湿った男の声。貧血の手前みたいな、血の気の引いた音色。

「あぢらたごのもなだたへら」

 後はまた無音が続く。私は眉を顰めて、スピーカーに耳を寄せた。

 加納は、男性にしては少し声が高かった。こんな声ではない。

 これは、一体なんだろうか。もう一度巻き戻す。再生。

「あぢらたごのもなだたへら」

 私はノートを開き、音の切れ目ごとにスラッシュを入れて書き写した。

 あ/ぢ/ら/た/ご/の/も/な/だ/た/へ/ら

 暗号みたい。何これ、と舌打ちしそうになる。ペン先が勝手に右端へ行き、矢印を一本、左へ引いた。矢印の先に、さっきの文字列の逆を書き足す。

 ら/へ/た/だ/な/も/の/ご/た/ら/ぢ/あ

 ついでに色々と、置き換える遊びをしてみる。〈へ〉は〈は〉に、〈ご〉は〈が〉に……〈ぢ〉がかなり浮いている。そう考えて、冷静になる。何をやってるんだか。どうでもいい。

 もう一度だけ、再生。耳が慣れてくると、さっきよりも声に起伏があるのが分かる。語尾がわずかに上がって、ぶつ切りではなくて、きちんと話している。意味は、やっぱり分からない。しかし、どこかで聞いたことがあるような気もしてくる。

 私はレコーダーの早送りボタンを長押しした。うっかりして、少し指が滑ったのか、液晶に一瞬だけ小さく〈REV〉の文字が出た。逆再生。何の気なしに指を離す。スピーカーから、ごく短く、逆向きの波が正向きに戻る。

「ものがたりだ」

 すぐ消えた。

 空耳。

 やめだ。

 疲れている。

 帰宅後、速攻で風呂に入るべきだった。背中がベッドのマットに沈み、バッグの角が皮膚を圧迫して煩わしい。

 起き上がって、最後にもう一度だけ、とノートを開く。なんとなく、思い付きで、正しい方向に直して書く。

 あ/れ/は/た/だ/の/も/の/が/た/り/だ

 書いてから、別に意味はないな、と思う。

 これは空耳だから。

 空耳から勝手に思いついただけだから。

 録音機がそもそも不調なのだ。私か、加納の声が、変な風に録音されてしまっただけ。

 そもそも、これは記録しない。

 病んだ作家の妄想なんて、私にも、誰にも、必要がない。

 線を引いて雑に消した。横着に線を引いたから、文字がまだ読める。どうせ誰も見ない。私しか見ない。私だってもう見ない。

 レコーダーのスピーカーから、さっきの低い声がまた押し出される。

「あぢらたごのもなだたへら」

 リピートが切れていなかったらしい。私はため息をついて、ついでに巻き戻しボタンを押しっぱなしにする。液晶の数字が速く戻り、秒が飲み込まれていく。指を離すと、無音。

「なーんだ、やっぱり、おかしいんだこれ」

 ひとりごとが勝手に出た。

「結局、なにも録れてない」

 レコーダーをつまんで、そのままベッドの上へ投げた。柔らかい音で、シーツに沈む。赤いランプが一度だけ点いて、すぐ消えた。

 私はシャワーへ向かう。ノートは開きっぱなしで、矢印と斜線でごちゃごちゃした行が机の上に残る。

 あ/れ/は/た/だ/の/も/の/が/た/り/だ

 

(つづく)