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第二話 赦しを口にしたこと

 

 俺は昔から、自分が気の小さい人間だと分かっていた。なんというか、全然、善人じゃないんだよ。強い意志だってあるわけじゃない。自分の考えを貫くのが苦手で、場の空気に流されるのが一番楽だと分かっていた。多数派の意見だから、否定されることもないだろう。

 それなのに、周りからは「真面目だ」とか「誠実だ」とか「良い人だ」とか言われてきた。郵便局に勤めてからも「藤野くんは若いのに落ち着いている」「人あたりがいい」と言われることが多かった。けれどそれは、俺がそうあろうと努力しているからじゃない。ただ、人に嫌われたくないだけだ。人に嫌われるのは、怖い。人と揉めるのは、怖い。小心者と善人は、全く違うだろう。

 兄は、そんな俺と正反対だった。二つ上で、昔から穏やかで落ち着いていて、それでいて、意志を曲げない。間違っていると思ったら、自分より強い者にもきちんと意見できる。俺にとっては頼れる背中そのものだった。

 両親が続けて病で死んだとき、俺はまだ学生で、どうやって生きていけばいいのかもわからなかった。けれど兄が「大丈夫だ、俺がいる」と言った。あの言葉で、俺は自分の居場所を失わずに済んだ。兄は料理をし、洗濯をし、俺の愚痴を聞き、日々をきちんと立て直していった。今考えれば、兄だって若かったんだよ。そんなことができるほど大人じゃなかったはずだ。でも、兄はやった。やってくれた。

 幸せだったよ。両親が死んだのに。

 兄のささやかな趣味は、鳥を見ることだったのかもしれない。本当は飼いたかったのかもしれないけど、金の余裕もなくて。

 休みの日には庭の巣箱に餌を置いて、集まってくる鳥を眺めては「可愛いな」と笑っていた。俺はその笑顔を見て、少しだけ安心した。それで、俺も生きていけると思った。

 その兄が、ある日突然いなくなった。俺が二十一のときだった。

 夕方、局の仕事を終えて帰ろうとしたとき、電話が鳴った。兄が事故に遭ったという。町内の道路を横切ったところを、車にはねられた。運転していたのは近所の男だった。酔っていたわけではない。わき見運転。ただの不注意。けれど、ただの不注意で人は死ぬのか。俺には理解できなかった。病院に駆けつけたときには、もう兄は冷たくなっていた。

 それから葬式までは、一瞬の出来事だったな。何が起こっているかも分からないうちに、すべてが始まって、すべてが終わった。

 葬式にはどこから聞きつけたのか、付き合いもない親戚が集まり、町内の人間も大勢来た。

 その中に、加害者の男もいた。

 五十代くらいの、顔色の悪い男で、泣きながら焼香をしていた。「申し訳ない」「申し訳ない」と何度も頭を下げていた。俺はその姿を睨みつけてやろうと思った。けれど、泣き声にかき消されるように、俺はただ立ち尽くしていた。

「なんだか、見てられないね。辛そう……そりゃ、責任も感じるか」

 そんな言葉が、聞こえた。

 直接言われたわけじゃない。大声で言っていたわけでもない。でも、俺の耳に突き刺さった。

 つらいのは俺じゃないのか。兄を失った俺のほうじゃないのか。責任を感じるのは当たり前じゃないか。たった一人の肉親を奪ったのだから。怒鳴り散らすつもりだった。泣きながら。でも、なぜか声にならなかった。俺は黙って立ち尽くしていた。

 裁判は淡々と進んだ。過失運転致死罪、初犯、深い反省あり。判決は執行猶予つき。つまり、刑務所に入ることもなく、あの男はまた町に戻ってくるということだ。俺は納得できなかった。兄の命は、こんな一瞬の、知らない奴らの判断で、紙切れ一枚で終わらされるのか。兄の生活も、笑い声も、鳥に餌をやる姿も、全部、「過失」の二文字で片づけられるのか。

 せめて、二度と顔も見たくなかった。でも、無理だった。あの男は、それで会社もクビになって、引っ越すこともできないみたいだったから。

 町は小さい。だから、顔を合わせないわけにはいかなかった。それに、郵便局で働く俺にとって、あの男の家は配達先の一つだった。判決からしばらくして、玄関先で鉢合わせた。俺は一瞬、逃げようと思った。だが足が止まった。あの男は俺を見るなり、地面に額を擦りつけるように頭を下げた。「申し訳ない。本当に、申し訳ない」と掠れた声で繰り返した。

 胸の奥では、兄を返せと叫んでいた。許せない、許すわけがないと。頭を踏みつけてやろうと思った。

 でもそのとき——隣の家の人が物音に気づいて玄関から顔を出した。郵便を受け取りに出てきた別の住民も、立ち止まってこちらを見ていた。あの目。あの、哀れみに満ちた目。

 皆の目が、俺を縛った。ここで俺が怒鳴りつけたら、俺が悪人になる。理不尽に兄を奪われた俺が、狭量で意地の悪い人間にされてしまう。

 本当に、俺は善人じゃないんだよ。怖かった。

 その恐怖が、俺の口を勝手に動かした。

「大丈夫です。そんなふうに謝っていただく必要はありません。しっかり罪も償ってくださったんですから。これからはご近所同士、仲良くしてください」

 自分でも信じられなかった。人間が、全く、ほんの一瞬でも考えたことのないセリフを、口に出せるなんて。心の奥は、憎しみで燃えていたのに、声はどこまでも柔らかく響いた。あんなにやさしい声、それまでの人生で一度も出したことがなかった。自分の声ではなく、誰かに操られているようだった。

 あの男は泣きながら「ありがとうございます」と言った。近所の連中はね、拍手までしたよ。「本当に立派な人だね」「あんた、藤野さんに感謝しなきゃいけないよ」「偉い人だね。藤野くんみたいな人ばかりならいいのにね」って。

 頭がおかしくなりそうだったよ。

 世界で一番憎い男は涙を流して喜んでいる。それを、周りの人間は感動的な光景として消費している。それは、誰のせいだ?

 俺だよ。分かってる。

 その夜、家に戻って、鏡を見た。信じられないだろ、笑顔がこびりついてた。

 庭にある鳥の巣箱が目に入った。兄がいなくなってから、なんの手入れもしていない。兄の存在がどんどん消されていくようだった。でも、どうすることもできない。

 あの夜から、だったかもしれない。いや、自覚したのがあの夜だっただけだ。どんどん、どんどん、腐り続ける。見た目は変わらないよ。あなたにも、俺はフツウの人間に見えるだろう?

 次の朝も目覚ましは五時半に鳴り、顔を洗い、湯を沸かし、茶碗に温い飯をよそって味噌汁をすすり、制服に袖を通す。

 職場ではいつもの「おはようございます」を言い、局内の端の作業台でルート表を確かめ、束ねた郵便物の帯を外し、仕分け機の吐き出す封書を区分けする。数字と地名の連なりを目で追っている間だけは、余計なことを考えないでいられた。仕事は鎮静剤みたいなものだった。

 けれど、封筒の角が指先をかすめるたび、あの言葉の断片が甦る。自分の口から出たとは思えない、きれいな言葉——謝っていただく必要はありません——でも、どんなに信じられなくても、自分の声が自分の喉を通って出ていった感触が、ありありと思い出せる。忘れようとするほど、すり切れたテープのように勝手に再生される。

 そのたびに、ミスをした。小さなミスを、何度も繰り返した。

 なのに、不思議なことに、周りの評価は日に日に上がっていった。上司は俺の肩を叩き、「藤野くんは立派だよ」と言った。昼休み、同僚が紙コップのコーヒーを差し出しながら「お兄さんのこと、本当に残念やったな。せやけど、藤野は強いな。俺やったら許せんわ。君は、ほんまに偉いな」と言った。配達途中で会う年寄りは、袖をつかんで同情と称賛を混ぜた目で俺を覗き込み、「あんたはええ子や」と言った。「困ったことがあったら、なんでもしたるからな」と。そうだよ。業務で評価されてるわけじゃない。

 立派だと持ち上げられるたびに、自分自身が濁っていくのがわかる。褒め言葉が薄い膜のように心の表面に張り付いて、内側の汚い濁りを見えにくくする。

 俺はあの男を憎んでいる。心底憎んでいる。許したことはない。今後も許すつもりはない。顔を掴んで引きずり回したい。何度殺しても殺したりない。

 そのはずなんだ。でも、それを、たまに忘れる。世界が俺を「立派な人間」にする。

 兄を殺した犯人を許した人間として、整えていく。

 夕方、配達を終えて戻る道すがら、俺は無意識に空を見上げる。巣箱のある庭を通るたびに、耳が勝手に鳥の声を探す。けれど、鳴き声はない。羽音も、影も落ちてこない。風の音だけがする。家に帰れば、兄のジャケットがまだ玄関のフックにかかったままで、袖に触れると柔らかさだけがそこに残っている。台所の棚には兄が好んで買っていたインスタントコーヒーがひと箱分残っていて、賞味期限が近づくたびに俺は同じ銘柄を買い足す。減らないまま増えていく。こんなふうに、俺の生活は見かけ上は保たれているのに、内側では少しずつ確実に崩れ続けている。

 

 何度も言うよ。町は狭い。だから、噂も早い。あの日、俺が玄関先であの男に頭を下げられて「大丈夫です」と言ったことは、一瞬で商店街の端から端まで知れ渡っていた。

 魚屋のおばさんが、俺を見るなりかけよってきて、ビニール袋に入った何かを押し付けるように渡してきた。

「あんたな、ほんまにほんまに、偉かった。あんたより偉い人間、見たことないよ」と言った。

 鍼灸院の受付の人が、たまたま昼休みに郵便を取りに来ていた俺に、

「ご家族のこと、本当にお辛かったでしょうに……あの、感動しました。人間って、きれいなんだなって」と言った。

 俺は笑って頷いた。笑顔はもう、反射になっていた。

 笑うほどに、苦くなる。口角を上げる筋肉が攣って、頬の内側に歯を立てて血の味がする。紙コップのコーヒーを飲むと、熱いのに味がしない。家の水道のカルキの味しか分からない。世界が少しずつ、遠のいていく。

 配達の順路は身体に刻まれている。午前中は南側の住宅地。午後は北側の団地。団地の広場では、放課後の子どもが自転車のブレーキ音を響かせ、ベンチでは老人が新聞を広げる。俺はポストの口に封筒を差し込み、集合ポストの前では不在票の束とにらめっこする。指は勝手に動く。けれど頭の中では、別のことを考えている。もし俺が配達順を少し変えたら、もし不在票に一本線を引くタイミングを遅らせたら、荷物は一日遅れる。遅れたところで、誰が気づく? 誰が俺を責める? 「忙しかったんやな」。それで済むのではないか。

 俺は自分の脳内に、部屋を持つようになった。そこには机があって、紙と鉛筆を置き、誰にも見えない字で、できることを書き出す。

「順路を入れ替える」

「雨の日はひさしを開けたまま」

「封筒の角をわざと潰す」

「小包は下敷きにして重みで角を凹ませる」

「投函口に深く差し込みすぎて折れ跡を付ける」

「誤配のふりをする」

「配達完了の印を一件だけ忘れる」

 どれも、おそろしいほど簡単にできる。

 同僚の一人が、休憩室で言った。

「この町はな、角立つことが嫌いや。せやから、藤野みたいな子が大事にされるんやで。実際、まっすぐって、難しいことやしな」

 それは褒め言葉のつもりだったんだろう。響かなかった。俺はずっと、簡単にできることを、考えていた。

 夜、風呂から上がって、兄の部屋の前で立ち止まる。ドアは半開きで、電気をつけなくても、家具の配置が頭に入っている。机の上に、兄の手帳がある。ページの端には、野鳥の名前が鉛筆で書き散らされている。「シジュウカラ」「エナガ」「ムクドリ」。あまり上手くないイラストも添えられていた。兄は観察日記のように日付を添えて、短い感想を書いていた。「寒い朝、鳴き声が澄んでいた」「春になったら、もっと来てくれるかもしれない」。それを読むと、喉の奥が熱くなった。兄に春は来ない。あの朝の空気の匂いまで思い出せるのに、兄だけは、今の世界から消えている。

 

(つづく)