駅へ戻る道に入ると、さっきの自販機の前で高校生たちが群れていた。笑いながら、スマホを自販機にかざしている。
「出方が逆やって」
硬貨が先に、紙幣が後へ。彼らは面白がっている。俺は足を止めない。彼らの笑い声は、俺の背中を追い越さず、いつまでも同じ距離に貼りついた。
祖母の家の跡をもう一度横目に見る。郵便受けは、さっきと同じ角度で口を開けている。はがきがまた入っている。切手の位置が見えてしまう。逆さに貼られている。遠くから、先ほどの作業着の男がこちらを見ている気配がする。視線は肌に残り、まとわりつく。俺は歩幅を小さくして、角を一つ曲がった。曲がった先でも、空気は同じ匂いをしている。薄い鉄と、古い紙と、湿った土。
駅のアナウンスが、終点と始発を言い違え、すぐに言い直した。
義理は通した。義理は通した。義理は通した。
通した義理は。
「届きますよ」
誰かの声がする。
振り返らない。駅の階段を上がる。改札機に切符を入れると、改札の表示が一瞬出口と出て、すぐ入場に戻った。目を疑っている間に、切符は俺の指に戻ってきていた。ホームに上がる。電車が入ってくる。風が吹く。髪が逆立つ。ドアが開く。そのとき、車内アナウンスが一度だけ流れた。
「発車いたします。ご乗車、まもなく」
俺は笑わなかった。笑わない代わりに、口の中で自分の名前を逆に並べてみる。声には出さない。出したら届いてしまう気がしたから。唇の裏側に、その形だけが冷たく残った。電車は、定刻通りに動き出した。
帰りの電車は、揺れが浅いのにやけに長かった。窓の外は暗く、駅ごとのアナウンスが語順を間違える。そのたび骨の裏側が冷える。気のせいだ、思い込みだ、そう言い聞かせても、何度も、何度も間違える。
さつき町で見たものは全部、言い間違いみたいな些細なズレだ。硬貨が先で紙幣が後、切手が逆さ、神社の——けど、くだらないと笑い飛ばせる強さは、もう残っていなかった。
祈るような気持ちで最寄りで降りて、駆け足で家の角を曲がる。玄関灯が自動で点いて、白い円が地面に落ちる。ポケットの中のスマホが震えた。画面には母の名前。メッセージがひとつ。
〈いにすまうすしうこせがこな〉
文を見た瞬間、ひやりとした水が背骨を伝った。
タイプミスにしては、長すぎる。意味も取れない。けれど、何かを示唆しているような気がする。喉の奥で音が逆回転した。無視しようとした。指先が汗を持って、通知を弾く。鍵を差し込む。回る。扉が開く。家の匂い。今日までの毎日の残り香が、俺を迎え入れるはずだった。
靴を脱いで、上がり框で一度止まる。妙だ。テレビの音がない。炊事の音も、洗濯機の回転音もない。時計の秒針だけが、少し遠くで聞こえる。リビングに足を踏み入れる。
息が勝手に止まった。
母が、ソファの右端に座っていた。正座のように揃えた膝。両手は膝の上。顔は、正面。目は、閉じている。
喉元に黒い鎖のようなもの。
錯覚だった。
それは痣だった。
喉が、潰されていた。
声を作る部分が、なくなっていた。
妻は、ダイニングテーブルの椅子に腰掛けた姿勢。頬の線は丸く、眠っているように見えた。
喉。
息子はリビングのラグの上で、ゲーム機のコントローラに手を伸ばした姿勢のまま動かない。
喉。
叫ぼうとして、声がないことに気づいた。いや、喉の奥で何かが鳴った。逆さ言葉の、前半だけがひっくり返ったみたいな、押しつぶされた音。膝が勝手に崩れ、鞄が床に落ちる。スマホがリビングのフローリングで一度跳ねて、画面が点く。母からのあの文が、まだそこにある。
〈いにすまうすしうこせがこな〉
ひらがなだけで組まれた、異物。指先でふれて、開き、また閉じる。頭のどこかが、逆さの音列を自然に裏返そうとする。やめろ、と心で囁く俺がいる。裏返したら届く。届いたら何かが確定する。
リビングの空気が、真冬のように冷たい。金属の匂いは、しない。血を見る恐怖に備えていた目が、拍子抜けする。どこにも濡れた赤はない。あるのは、声のない跡だけ。俺が原稿で選んだ描写が、トレースのように置かれている。
『心臓が早鐘を打つ。むっとした鉄の臭い。引き返したいのに、足は部屋に近付いていく。ドアを開ける。目が彼らを捉える。喉に黒い鎖のようなものが見えた。義之は咄嗟に目を閉じた。現実を直視したくなかった。口からは祈りの言葉が出てこない。喉の奥に巻き戻る。彼らの喉が潰されて、もう二度と彼らの声が聞けないなんて、そんなことは認めたくなかった。』
喉。
何度も読んだ文が、目の前の現実に重なる。
廊下のほうから、声がした。正確には、声の欠片のようなものが、絶え間なく流れてくる。誰かが低い声で喋っている。ラジオか、テレビか——しかし、音源がない。
壁全体が喉になって、家全体が反転した囁きを発している。言葉は意味の順を持たず、ひっくり返った音の塊だけが、こちらに背中を向けたまま歩いてくる。
——ラヘタダナモノガトアヂラ
子音が先に、母音が後から追いつく。耳がそれを言葉に戻そうとする本能を、俺は必死で押し返した。戻したら、届く。届いたら、完成する。俺はテーブルの角に手をつき、立ち上がろうとしたが、膝が自分のものではなかった。指先が震える。救急に電話を、と頭が言う。もう、遅いと、もうひとつの頭が答える。とにかく、外へ。外へ出ろ。俺はリビングのドアに向かい、取っ手を掴み、開けた。
廊下は、暗く、長い。さっきの逆さの囁きは、廊下の奥から来るのではなく、廊下全体から、均等に染み出している。壁紙の継ぎ目から、床板の目地から、天井の照明の皿から、音の型が出ている。俺の名前を逆にしたものが、たしかに一度だけ混じった。
靴も履かずに玄関へ走る。鍵を握りしめ、扉を開け、外へ出る。夜風が顔に貼りつく。足は、駅に走る。
今しがた乗ったのとは逆方向の電車に乗る。
戻る。
俺は家族を置いて逃げた。
一瞬にも、永遠にも感じられた。でもずっと、あの神社のことを考えた。
あの場所に戻る。
助けを求める場所は、もうそこしかないように思えた。
ポケットのスマホが震える。画面に「母」。震えがやまない。通話を押す勇気は、出なかった。
さつき町に着く。
俺は走る。心臓が喉の位置まで来て、息が乱れる。信号が赤に変わる前に渡り、坂を上る。足音が地面に吸い込まれて、少し遅れて返ってくる。やっとのことで鳥居が見えた。どっぷりと暗い。でも、社務所の明かりがまだついている。気配。人がいる。
境内に飛び込むと、拝殿の脇、石段の下に、金栗さんがいた。そのときは、名前を知らなかった。作務衣の裾を整え、箒を立てかけて、こちらを見た。俺は言葉を探す間もなく、手を伸ばした。
「助けてくれ。助けてくれどうか。俺の家が、おかしい。声が、逆さの声が、家中から。母が、妻が、子どもが、喉が……」
呼吸が切れ切れで、言葉が崩れ、涙なのか汗なのか分からないものが頬を伝った。金栗さんは、俺の肩に手を置いた。その手はあたたかいのに、温度がこちらに伝わりきらない。俺はその手を掴んだ。彼は何も言わなかったのに、さらに言葉を重ねた。
「違うんだ。ここの神は声なき神だ、そうですよね? 俺が子どものころ、ばあちゃんが言ってた。でも、逆さなんだ。おかしい、こんなのは、違う。逆さというのは、俺が創ったことだ。俺は、俺はただ面白くしただけだ。楽しませようとしただけだっ」
なぜ、自分がそんなことを、彼に言っているのか分からなかった。しかし、舌が回った。よく回った。
「おかしい。俺の創作なんだ。どうしたら、こんな……こんな……何が起きているのか、何も分からない。何でもいい、止めてくれ。なんとかしてくれ」
金栗さんの目を探った。どんな顔をしているのだろう。同情? 困惑? 軽蔑?
どれでもない。金栗さんは、少しだけ首を傾げた。その顔は、叱るでも、慰めるでもなく、不思議そうだった。本当に、不思議なものを見た子どものように、
「よかったじゃないですか」
耳を疑った。俺の胸の中で、何かがひっくり返った。
「よかった? 何が、よかったんだ」
金栗さんは肩に置いた手を離し、言葉をはっきりと区切った。
「あなたが、そう書いたんですよ」
境内の風が、そこだけ止まった。俺は口を開いたが、言葉が出ない。喉の奥で、逆さの囁きが、また立ち上がる。俺が書いた。確かに書いた。喉。声がない。代償。数字。見ている者。俺は、紙の上で、やり方を並べ、型にして、読者の前に落とした。落としたものが、届いた。届いたものは、戻る。戻ってきて、俺の家に座っていた。
「違う祈りはテレビの俺が創った逆さにウケがいいからばあちゃんが」
言い訳の文が、舌の上でばらばらになった。
金栗さんは笑わなかった。静かに告げた。
「あなたがそう書いた。あなたがそう届かせた。だから、届いた。よかったじゃないですか」
郵便受けの中のはがきの重みが、掌に戻る。逆さに貼られた切手。宛名のない紙。届くための形だけが、正しく整って、宛て先のないまま投函され続ける。俺は足元の砂を見た。砂の粒が、先に沈んでから音を立てた。
「止め方を……俺は、書いてない。書いてないんだ。止める方法は、面白くならなかったから、書かなかった。暴走して終わった方が面白い。リングだって残穢だってぼぎわんだってそうだろ! だからそうした、あれは、ただの、物語で」
彼は首を横に振らなかった。縦にも振らなかった。ただ、そこに立っていた。
拝殿を見上げる。紙垂が、またうら返って揺れたように見えた。腰から崩れて、地面に座り込んだ。足の裏が砂を掴む。目の前で、金栗さんがしゃがみ、目線を合わせてくる。
「よかったでしょう」
その言葉は、優しい音色をまとっているのに、どこまでも冷たかった。
何かが壊れて、静かになった。
呼吸を整えた。整えられない呼吸を、無理やり整えた。
拝殿の闇が見える。あの闇は、声がない。声がないのに、型で返す。俺は、型を与えた。面白くしただけだ。
それで、面白くなっただけだ。
「どうしたらいいですか」
やっとのことで出た問いに、誰も答えなかった。夜風が、鈴の中の玉を先に転がし、それから綱がわずかに揺れた。俺は顔を覆った。手のひらの内側で、母のメッセージの文字列が、勝手に裏返る。
あの子が成功しますように。
祈りが裏返って届いたのだと、ようやく理解が追いついた。
金栗は、やがて静かに立ち上がり、俺の肩にもう一度手を置いた。その掌は、最初より少しあたたかかった。境内の片隅で、鈴が一度だけ鳴った。音が先で、風が後。
俺は、何も言えなかった。
言葉を持たない神の前で、言葉を仕事にしてきた俺の口が、乾いたまま閉じた。