③ 湯島珠江

 はい、確かに、私が校長のときでしたよ。

 赤羽先生が担任していたのは、三年一組です。あの時のことは、まるで夢のようでした。夢と言っても、悪夢です。

 まず、赤羽先生は、とても良い先生でした。真面目で、優しいけれど、言うべきことははっきりと言うところもあって。保護者からの信頼も厚い先生でしたよ。私、とてもとても、信頼していたんです。

 でも、直くん……あの子が来てから、様子が変わりました。もっとも、様子が変わったのは赤羽先生だけではありません。私も、ほかの先生方もです。何かが違う、とみんな気付いていたんじゃないかしら。

 直くんが来てから、と言ってしまいましたが、彼自身が何かしたわけではないんですよ。最初は、雰囲気のある子だな、とは思いましたけれど、それだけで……でも、子供たちの反応で、私が最初に覚えた違和感は確信に変わりました。みんな、静かになってしまうんです。彼が話すと、誰も話さない。小学生は注意散漫なものですよ。困ってしまうけれど、そこが可愛い、なんて。とにかく、私語だとか、そういうものがなくなったのは喜ばしいことのようですけれど、違うんですよ。集中しているわけではないんです。ただ、自分よりずっと強大なものに飲み込まれるという畏怖、危機感——緊張に近いものでした。

 最初は、それだってそんなに、悪いことではなかったかもしれません。彼は、ほかの子供たちからは畏怖の対象ではありましたけど、直くんに話しかけられたらテストでいい点とれるとか何とか言って、かわいらしいでしょう。統率の取れたクラスになっていました。

 でも、「彼はやはりフツウとは違うみたいです」と、ほかの教員から聞いたのは、それからすぐのことです。フツウ、と言われたら、私は「フツウってなんですか?」と聞くようにしています。自分こそが標準で、基準だと思うなんて、ずいぶん傲慢じゃないですか。それに、自分で気付いてくれたらいいと思って。

 でも、その先生は、フツウではないです、と続けるんです。ムッとしてしまったんですけれど——話しているうちに、急に彼の声ががさがさ、ぱさぱさしてきて。声がなくなってしまいました。声が出せないというより、消えた、という感じです。彼は、絶望的な表情を浮かべていました。すぐに病院へ行ったけれど、原因は分からなくて。結局、三日目になってやっと声が出ました。それで彼、なんて言ったと思います?

「夢の中で怒られた」と。誰にと聞いても、それは思い出せないというんです。

 次は廊下の窓でした。二階の、四年生の教室の前の窓です。授業中、一斉にバンバンバン、と鳴りだしたんです。でも見に行っても、外には誰もいない。当然ですよね、二階なんですから……。そうやって、窓とかドアとか、音楽室の楽器とか、そういうものが鳴ることは頻繁に起こって。何度も起こるうちに、いつものこと、みたいにはなるんですが、とても流せなくて。

 男の子が「落ちてくる」と言って、突然しゃがみこんだこともありました。全校集会のときに。先生方が保健室に連れて行こうとしても、暴れて。「声が落ちてくる、落ちてくる、落ちてくる、落ちてくる」って……。

 あと、なんでしょうね。統率が取れている、が、悪い方向に向かうこともあって……学芸会とか、音楽会とか、合唱とか……そういうもので全部、みんな、直くんの方を見るんです。直くんが何を言うわけでもないんですが、じっと黙って、彼の声を聴こうとする。先生方の指導は聞きません。優しく言っても、厳しくしてもダメで。

 直くんの言うことは、よく分かりません。哲学的というかなんというか……本当に、よく分からないことを言うんです。その言葉を、勝手に解釈して、子供たちが行動する。それで、直くんの近くにいることをみんなで争ったりして。恐ろしいですよ。迷信あふれた古代で、ご神託を待つ民たちといった感じでした。誇張ではありません。

 男の子が、大怪我をしたこともあるんです。七階から三階まで、階段をごろごろと転げ落ちたとかで……自分でそうしたというんです。どうしてそんなことを、と思うでしょう。「直くんの隣に座りたかった」って。

 児童が体調を崩す。先生方が休職をする。学校に安全な場所なんてなかった。死人が出なかったのは奇跡かもしれません。ウサギは死にましたけどね……ある朝、ウサギ小屋のウサギが、母ウサギの胎内にいたらしい、ウサギの嬰児以外、全部……。

 毎晩、いつ寝入ったのか分からないのに時間は経っていて、それで毎朝、喉がしめつけられるように呼吸が苦しくて目が覚める。そんな毎日でした。

 そこでね、とうとう、私は告白を聞いたんです。赤羽先生から。

 かみさまの席を作ったって。みんなで、神さまがいるようにふるまって過ごしていたって。私、宗教が嫌い、と言うわけではないけれど、そういうものを子供に押し付けるのはどうなんだろうって思っています。ヘンかもしれないですが、親が信じているからと言って、お参りとかさせるのもどうなんだろうって思うくらいなんです。

 だから、知っていたら、絶対に止めていたと思います。

 そんなの、変でしょう。遊びでやったら、神様にだって失礼じゃないかと。

 それで赤羽先生は、学校がこんな風になってしまったのは全部自分の責任だって言われて。こんな儀式じみたことをしたからって……でも、そんなの、そんなの……。

 月曜の朝、用務員さんが、校庭に呆然と立っているのが見えました。何があったのか、聞こうと思って近づいて、後悔しました。

 すぐに分かりました。大きな円の中に、星が複雑に絡まったようなもの、図形といっていいのか、そういうものが書いてありました。何で描いたか分かりません。屋上から見ても、どの線もまっすぐで、幅も長さも——わずかなブレもなかった。誰が、どうやって……。消えなかったんです。どうやっても、消えなかった。

 赤羽先生は、何も話さなくなりました。何も話さなくて、学校もやめてしまった。こちらだって、続けて下さいなんて言えません。

 それで、それで、もしかしたらですけど、本当に赤羽先生の責任だったかもしれないと思ってしまって。私は、現実主義者です。そのはずなんです。でも否定できない。色々起こりすぎた。そして、赤羽先生がそうなってから、学校で何も起こらなくなったんですから。

 直くんですか。ごめんなさい。私は彼のことが怖い。心底怖いんです。見ているだけで心がざわつく。目が底なしに深いんです。

 最後に会ったとき、私聞いてしまったんです。

「校庭の模様、何なのか知ってる?」

 直くんが何も答えないので、

「あなたが書いたの?」

 直くんは首を横に振りました。

「いいえ。僕は書かない。最初からあったものだ。出てきたということは、おそらく上が見えるようにしたんだと思う。そして」

 直くんは、深い深い瞳で、私をじっと見つめて言いました。

「声を出さないのは正解かもしれない。あなたではない。先生の話だ」

 足が凍り付いたみたいに動かなくなりました。彼はそのまま、くるりと背を向けてどこかへ行った。いえ、いなくなったわけではありません。直くんは今も町にいますよ。それが怖い。もう見たくないけれど……怖いから、もう見たくないけれど、いるのです。ただ、登校はしなくなった。分かっています。こういうことになったら、保護者の方に連絡とかしなくてはいけないって。でもできませんでした。私は教育者として、いえ、大人として、失格ですね。

 ごめんなさい。最初は大丈夫だったんですけど、体が震えて、もう。

 

(つづく)