話が終わったあと、しばらく何も言えなかった。
目の前の金栗宗久は、つい数分前までいつもの穏やかな金栗だったはずだ。
仕事の話、世間話。いずれにせよ「まとも」で「現実的」な話ができた。
それなのに、たったいま聞かされた話は、まるで別世界の記録だった。
「冗談ですよね?」
ようやく口から出た言葉がそれだった。
金栗は首を振った。その動きが、妙にゆっくりだった。空気の抵抗が倍になったかのようだ、と思う。
金栗さん、と声をかける前に、
「この町を、おかしいと思わないか?」
彼の声は穏やかだった。怒ってもいない。
確認するように、私を見つめている。
思わず目をそらしてしまう。
そう言われてみれば、いくつか思い当たることがある。おかしい、と言われれば、確かにそうだった。この町はおかしいのだ。
一つ。
夜になると、どの家の窓にも同じタイミングで灯りがつくときがある。
まるで町全体がひとつの生き物のようで、息を合わせている。
時計の針を見たら、ぴったり八時だった。
二つ。
駅前の書店の女性店員。
駅の近くに行くたび寄ったけれど、毎回同じ本を並べている。「品切れ」の札が付いていた本のところに、同じように、同じ冊数を積み上げている。
「補充、そんなに頻繁に必要ですか?」と聞いたら、彼女は少し笑って「ここでは、減るものなんてありませんよ」と答えた。
三つ。
寮の前の通りで見かけた猫。
車に撥ねられた死体を確かに見た。けれど、同じ模様の猫が郵便受けの上で毛づくろいをしていた。
目が合った。
瞳の奥に、自分の顔も、景色も映っていなかった。
四つ。
昨日の夜、寮のカーテンを閉め忘れて眠った。
夜中に目を覚ますと、外から覗いている影があった。
人のようにも見えたが、風の音とともに揺れたから、きっと木の影だろうと思って無視をした。
翌朝になって外に出ると、足跡がきれいに整列して続いていた。私は怖いと思わなかった。「おはよう」と挨拶されているような不思議な気持ちになった。
思い出していくうちに、背中の皮膚が冷たくなった。
確かに、どれも説明がつかない。それにもしかして、すごく怖い目にあったのかもしれない。でも。
「どこの町でも、変なことくらいありますよ」
精一杯、軽く笑ってみせた。自分の声が震えているのが分かった。
金栗は笑わなかった。
「もう、誰もおかしいとは思わない。この町は神に見合った形になったんだ」
ただの報告のように淡々としていた。
私はうまく言葉を見つけられなかった。沈黙が長く続いたあと、やっと「奥さんは……どうなったんですか」と尋ねた。
その瞬間、金栗の手元にあったスマートフォンが微かに震えた。
画面は暗いまま。
通知も点灯もしていない。
なのに、そこから女性の声がした。
「早く行きましょうよ」
優しい声だった。でも、少しぼやけている。水の中にいるのかもしれないと思う。
「誰でしょうか……」
金栗は答えない。スマートフォンを胸に抱いた。祈っているようにも見えた。
「あの……奥様、でしょうか……」
ありえないことを言っている。それは分かっている。彼の、ありえない話に合わせてしまっている。どうしてか分からない。加納の与太話は、あんなに嗤うことができたのに。
「違うよ」
金栗は穏やかに告げる。
「形はそうかもしれない。でも、違うんですよね。この声は、彼女のものだ。しかし、彼女の声を借りているのは」
そう言って、金栗はふらりと立ち上がった。
「金栗さん?」
「もう行かなくちゃ」
「どこへですか?」
「どこにも」
その答えが、妙に明るかった。
私は、彼について行く。言われたわけでもないのに。
気づけば、二人で公園の脇を通り、山道の入口まで来ていた。
金栗は私がどんなに早足で歩いても、いつも一歩先を歩いていた。
他に行くあてがないような、まっすぐな足取りで。
「ま、待ってください」
金栗は振り向いた。
「みんな、もう大丈夫だよ。町は神様の形になった。誰も死なない。誰も悲しまない。だから、僕がいなくても大丈夫。僕は役割を終えました」
「何言ってるんですか」
「後悔している」
一点の曇りもない笑顔を浮かべて、彼はそう言った。
「なんの、後悔です?」
「皆さんに謝りたい。謝って済むことではないが、謝りたい」
「金栗さん。落ち着いてください。きちんと話して下さらないと」
「僕はここにいる資格のある人間ではない。生きているのか死んでいるのか分からない状態なんて、僕みたいな者には勿体ない」
言葉の途中で、金栗は走り出した。
「止まって!」
私は叫んだ。何をしようとしているか、気付いてしまったからだ。
「やめて!」
手を伸ばす。止める勇気もないくせに。
スマートフォンから再び声がした。
「早く行きましょうよ」
彼はガードレールを軽々と越え、まるでそこに道があるかのように進んでいく。
「どこにもいない存在になりたいんだ」
一瞬だった。一瞬で彼は、ガードレールの向こうに消えた。
「なんでっ」
頭の中に情報が氾濫している。でも、今は「考える」ときではない。
欄干を越えて下を覗いた。
道路が見えた。
車も、人の影もなかった。
何も、なかった。
まるで最初から、誰もいなかったかのように。
静かだった。
車の音も、人の気配もない。
風だけが吹いていた。
その風が頬を叩いたとき、ようやく口が動いた。
「通報しなきゃ」
ポケットからスマホを取り出す。
番号を押そうとする指が、うろうろと迷う。
どの番号だっけ? 110? 119?
「どうしよう、なんで」
言葉はそこで止まる。
画面に自分の顔が映っている。目がかっ開いて、変な顔。それを見た瞬間、笑いそうになった。
「なんで私が、こんな朝っぱらから大騒ぎしなきゃいけないんだか」
スマホを下ろす。
急にどうでもよくなった。
私は数歩、道を戻った。
振り返っても、誰もいない。道路の下にも、何も落ちていない。ただ光が反射して、白く瞬いていた。
そのまま坂を下りる。しばらく歩くと、見慣れた町の風景が戻る。人だっている。賑わっている。
パン屋の前では、バターの匂い。
店主の女性が、店先でほうきを動かしている。
「おはようございます」と声をかけてくる。
「おはようございます」
女性が掃除の手を止めて言う。
「あら。今日は、金栗さんと一緒じゃないんですね」
「うーん、どっか行っちゃったのかな」
そう答えると、女性は呆れたように笑う。
「どうせまた寝てるのよ。あの人、朝が苦手で有名だから。朝の予定、すぐすっぽかすでしょ」
私は頷いた。
女性は苦笑交じりに続けた。
「まあ、悪い人じゃないけどね。のんびり屋っていうかね。神社の仕事も全然しないし」
「神社の仕事ですか……私、実は金栗さんが神社のお仕事してるの見たことないんですよね」
「やっぱり。そうでしょ? まあ、ああいう人がいるから、みんなピリピリしないで、楽しく仕事ができるのかもしれないですけどね」
「そうですね」
金栗宗久のことを思い出す。優しい顔。穏やかな口調。
昼まで寝て、テレビで競馬中継を見ている。
ああ、そういえばそういう感じだったかもしれない。
「まあ、起きたら連絡くるんじゃないかなと思います」
「来なかったら、私に言ってくれれば、氏子さんたちから言ってもらいますから」
そう言って、冗談っぽく笑う。
私も笑った。
「ほんと、だらしない人」
町の空気がやけに澄んでいた。
何かが頭の上を通った。その影が道に沿って揺れている。
遠くで誰かが笑う声がした。人が大勢いる。どこに行くのだろう、と思う。
明るくて、楽しそうで、何もおかしくなかった。
寮の部屋に戻って、机の上のノートを開いた。
「今日の記録」と書かれたページ。
書いた覚えはないけれど、私の字だった。
ペンを手に取って、その下に一行書き足す。
金栗さん、今日も寝坊。
ペンを置いて、ため息をひとつ。どんなに愉快な雰囲気の町でも、仕事があることを忘れてはいけない。
手帳に、取材対象のリストが挟まっていた。綺麗な字。金栗は、字だけは整っている。
名前がまだ残っていることを確認すると、憂鬱になる。
「まだ、終わらないかあ」
指でなぞりながら、ぼやく。早く終わらせて、営業部に戻りたい。
「まったく、あの人がいなくなったら、私が全部やんなきゃじゃん」
口に出して笑った。なんで笑ったのか分からなかったけれど、笑えた。
私はベッドに寝転がって、スマホを開いた。
録音アプリを起動して、マイクを見つめる。
「さて……次は誰の話を聞くんだっけ」
言いながら、まぶしい光に目を細めた。
何かを忘れている気がしたけれど、それはいつものことだ。