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第四話 死を受け入れなかったこと

 

 社員寮の食堂は、夜になるとひんやりと肌寒い。

 蛍光灯の白は昼よりも青く見え、壁にかかった町の観光ポスターの色までくすんでいるようだ。

 人もまばら。私はテイクアウトしたインドカレーを食べ始める。買った時は、美味しそうだった匂いが、今は食欲より先に疲労感を呼ぶ。私はスプーンを動かしながら、視界に入るその人物に気付いた。

 金栗宗久。

 神社の人で、取材先との橋渡し役でもある。おそらく、弊社の関係者。話し方にも振る舞いにも品があって、穏やか。

 彼は今、腕まくりをした格好でテーブルに向かっていた。片手にスマートフォン、もう片方にタブレット。両方の画面を行き来するように視線を動かしている。この姿は「品」とも「穏やか」とも違う気がした。気になって目を凝らす。

 タブレットには、『#神サマ見てるよ』のサムネイルが映っていた。私は思わず「うわ」と声を出しそうになった。あんなもの、観る価値ないのに。加納の下らない妄想話を聞かされた後だと、なおさらそう思う。

 金栗はイヤホンをしていない。何か話しかけているから、電話をかけているみたいだ、ということは分かる。耳をそばだててみても、相手の声は聞こえなかった。

 金栗は穏やかな表情で、「うん」「そうだね」と答えながら、ときどきタブレットの映像を指で止めて、何かを確かめるように見つめている。なんとなく、家族——奥さんとかなのかな、と思う。

 目の前のカレーに集中しよう、と思った時、ふと、声の調子が変わった。

「……ああ、そうだね。こんなもので、済むわけないよね」

 彼は、まるで誰かをなだめるように笑った。「落ち着いて」「大丈夫だよ」と、そう言っているような笑い方。

 私はスプーンを持ったまま固まった。その顔に、妙な胸騒ぎを覚えた。

 こんなもので済むわけない——何の話?

 ドラマの感想? あんなくだらないもので?

 声をかけたい、という衝動に駆られる。一体、どういう意味ですか、と問いかけたい。

 しかし、すぐにその衝動を理性で押さえつける。

 相手は電話している、恐らく親しい人と。そんなときに声をかけるのは失礼。

 優しい人だから、電話を中断してくれるような気はするけれど、私の質問はどう考えても電話を中断して答えるような値打ちのないものだ。

 それに、彼は躱すのが上手いような気がする。この町の風習、とまではいかないけれど、少し気になる雰囲気について尋ねても、明確に答えることはない。少し芯から外れた、それでも納得してしまうような答えが返ってくるだけだ。

 そもそも、彼はこれからも私が話を聞く対象者との橋渡しを担ってくれるのだから、こんなことで不快感を持たれるのは得策ではない気がする。

 私が「おはようございます」と金栗に挨拶すると、「おはよう」の前に少しだけ、眉間に皺が寄る——それを想像して、私はまた、味の分からないカレーを口の中に運んだ。

 ゴミを片づけながら、ちらりと彼を見ると、彼は微笑んでいた。

 電話を切った様子はない。「そうかあ」という声の響きが穏やかで、優しい。やっぱり、奥さんと話しているのだろう、と思うが、同時に、どうしてここで? という疑問も浮かんでくる。タブレットの映像は停止されていて、観ている様子もない。仕事ではなさそうだし、ここにいる理由がない。家に帰って話せばいいのに。

 少し不思議だったが、私はもう一つの可能性に思い当たった。彼は神社の神職だ。氏子さんに相談ごとを受けているのかもしれない。私は少しだけ彼の方に頭を下げてから、自室に戻った。

 

 さつき町の朝は、静かだ。

 通りを歩く人は少ない。遠くでパン屋の車のスピーカーが流れるが、声が妙に遅れて聞こえる。音の方があとから追いかけてくるみたいだ。きれいな町だが、それはハードが整えられているだけで、ソフトは違うのかもしれない。

 思い返せばずっとそうだ。

 飲食店の時計は狂っていることが多いし、風が吹いても、音が遅れて届く。

 この町では、順番がどこか少しずれている。

 そんなことを考えていたら、ふと頭に浮かんだ。

 直くんのことだ。

 私は、あの子のことを何も知らない。

 知っているのは、名前と、誰もが彼を特別扱いするということだけ。

 全く笑わない。笑わない子供は、いくら顔が綺麗でも、可愛いという感情よりも、不安が先に立つ。

 町の人たちは皆、「畏れている」という感じ。彼は何者なのだろう。

 私は、金栗の息子なのではないかと思っている。彼が直くんに向ける表情は特別なものを感じるし、誰に対しても高みから、まさに予言のような話し方をする直くんも、耳打ちをしたり、彼に対しては距離感が違う。顔は似ていないけれど、似ているところはある。目の奥の光。それがぼんやりとしているのだ。詩的な表現になってしまうけれど、そうとしか言えない。

 昨日の夜、食堂で見かけた金栗の姿が、ずっと頭から離れなかった。

 あの、独特のぼんやりとした光、それが、スマホを見ていた。

 画面に映っていたのは、よりにもよって『#神サマ見てるよ』。

 そのことは思い出してもムカムカする。

 いや——このムカムカには、今こうして歩いている理由が大きく関わっている。

 金栗から渡された、話を聞く相手のリスト。今日の予定は空欄になっている。どうすればよいのか分からず、私は金栗に電話をかけた。彼が公園に来い、というので、私は朝も早くから、わざわざ、徒歩で十五分かかる公園まで歩くことになってしまった。

 入口に「中央公園」と書いてある公園。遊具は鉄棒、ブランコ、砂場だけ。広さに比して少ない気はするが、その分ベンチの数が多かった。

 ブランコの近くのベンチに、作務衣の後ろ姿が見える。

「金栗さん」と声をかけようとして、やめる。彼はまた、スマートフォンを耳に当てていた。

「うん、そうだね」「そうだよ、きっと良くなる」「大丈夫だよ」

 誰かを慰めるような調子。ときどき、「もう泣かないで」と聞こえた。

 相手の声はやはり聞こえない。

 やり取りがどのようなものか分からない。

 金栗がふと振り返って、それで私と目が合う。

 彼は私に「千家さん、おはよう」と言った。

「お、おはようございます……」

「わざわざ呼び出して、申し訳ない」

「いえ、仕事なので」

 よく知らない道を十五分も歩かされた、という不満はもう消えていた。彼のスマートフォンの様子を横目で確認するが、手に握られたまま、画面は見えない。

「き、昨日、ドラマ観てましたよね」

 なんとなく、そんなことを聞く。金栗は表情を変えない。

「ええ。観ていましたよ」

 彼の声の調子が平坦で、私は少しだけ安心した。何に対しての安心なのかは、自分でも分からない。

「加納さんの、『#神サマ見てるよ』です」

「な、なんでまた、あんなクソドラマを。まさか金栗さんは、あれは本当にあったことだなんて言うつもりないですよね?」

 言ってから、自分の声の刺々しさに気づいた。

 でももう遅い。彼は、少し目を細めて、

「クソ、ですか。まあ……感想は、人それぞれですね」

「あっ……いや、すみません、つい。なんか、加納さん、もう滅茶苦茶で。話がまったく噛み合わなくて。金栗さんに会わせろってキレてくるし」

「そうでしたか」

「ほんと、疲れましたよ」

 私は笑いながら言った。

 彼は何も答えない。ただ、スマホを握る手に力がこもったのが分かる。

 風が吹いて、木の葉が擦れる音が聞こえた。

 彼は沈黙しているが、不機嫌ではない。そのことがまた、不安を呼び起こす。

「どうしました?」

 おそるおそる聞くと、金栗は小さく首を振った。

「なんでも。話の続きをしていたんですよ」

「えっと……スマホで? お話のお相手は」

「妻です」

「あ、やっぱり奥さんなんですね。金栗さん、すごく優しい顔してたから、そうじゃないかなって思ってました」

「そうですね。優しいかもしれません」

 その「かもしれません」が、少し引っかかった。

 けれど彼の声は柔らかく、どこにも悲しみの響きはなかった。

 何かに縋るように、ペンを握り締めてしまう。

「奥さん、どんな方なんですか?」

「そうですね。よく笑う人でしたよ」

「でした、って……」

「ああ、すみません。癖ですね。今も笑っていますよ」

 彼はそう言って、空を見上げた。

 穏やかな空。雲の切れ間から光が差して、彼の頬の線を柔らかくなぞった。

 その視線の先に、誰かがいるように見えた。

 金栗は、「空が綺麗だね」と小さく呟く。耳に、またスマートフォンを当てていた。

 彼はそのまま、「そうだね」と頷く。

 そして、私の方を見ずに言う。

「今日は、風が静かですね」

 何も答えないでいると、同じことを繰り返した。

「えっ、ひょっとして私に言っていますか?」

「ええ。そうですよ。でも、答えたくないなら構わない。どうでもいい、世間話なので」

「いや、その、私に言っているとは思わなかっただけなので。確かに、風は弱いかもしれないです。昨日とか、すごかったので」

 金栗は穏やかな笑みのまま、説明するように言う。

「風が強いと、あんまり声が聞こえないんだよね」

「え、えっと、誰の?」

 金栗は答えない。何も言わず、スマホを胸に当てた。心臓の位置。

 私も何も言えず、ただ空を見る。

 金栗は、いい人だと思う。

 私自身が思ったことをなんでも口にしてしまうタイプだからこそ、きちんと言葉を選んで、他人に不愉快な思いをさせないようにしている人を尊敬する。金栗はまさに、そういうタイプに見えた。

 しかし、この態度は、気遣いではない。笑顔で、穏やか。聞けば説明もしてくれる。会話にも、一応なっている。それでも私の中の不安は、どんどん大きくなっている。

 しばらく、会話が途切れた。

「そういえば」と耐えかねて、私は口を開いた。

「直くん、どこにいるのかな」

 言ってすぐ、少し後悔した。

 なぜその名前を出したのか、自分でもわからなかった。

 金栗は、スマホケースの角を指で押さえたまま、短く「どこでしょうね」とだけ言った。口元の笑みが、消え失せていた。

 確実に、余計なことを言ってしまった。でも、もう取り繕うのも遅い。

「えと……またそのうち、会えるんですかね」

「どうでしょう。必要な場所に現れる人ですから」

「必要な……場所?」

「ええ」

 風が止んだ。

 木々の葉が擦れ合う音が止み、微かに揺れていたブランコも止まる。

「そうだね。きっと銀杏並木のあたりは綺麗になるだろうね」

「あの……」

「ああ。今日は調子が良いみたいでね。色々な話をしています。こちら、千家さん。前言った、記録係の人」

 背筋に冷たいものが走った。私の様子など気にも留めず、金栗は続ける。

「明日はイルミネーションを見に行こうと話しているんですよ」

「イルミネーション……? 今の、季節に……?」

「季節は関係ないんですよ」

 彼の目の中の、ぼんやりとした光が揺れる。

「今日はね、少し長くなるかもしれません」

「そ、れは……何の話、ですか」

「千家さんは記録係。次に聞くのは、僕の話です」

 そう言って彼は、ベンチの横を指さす。ここに座れ、というふうに。

 彼の隣に座ると、ベンチの木が冷たい。

 金栗はスマホを両手で包んだ。スマホの画面に、小さな指のような跡がある。彼の指より、ずっとずっと細い。

 喉がひゅう、と変な音を出した。

 

(つづく)