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 録音機の赤い点が、机の上で規則正しく瞬いていた。藤野幹久は、長い沈黙ののち、唇の端だけをわずかに持ち上げて言った。

「これで俺の話は終わりです」

 私は頷いた。「ありがとうございました」と言うつもりだったが、喉の内側が砂を詰め込まれたように渇いて、「した」としか言えなかった。今しがた聞いた話を、もう少し詳しく聞かなくてはいけないことは分かっている。けれど、先に出たのは別の言葉だった。

「直くんって、何なんですか」

 彼の視線が、ほんの一瞬だけこちらに寄って、それから私の肩の向こうを通り抜けた。振り返る。でも、背後には誰もいない。壁と、曇った窓ガラスと、何度も拭かれた痕跡だけ。

「千家さん」彼は名を呼んだ。「あなたが一番、分かっているはずですよ」

 胸の内側が少し沈む。何も理解できなくても反射的に笑ってしまうのは、営業で身についた悪い癖だ。私はペン先をノートに当てる。わずかな圧で紙が音を立てた。

「いえ、私は……分からないから、お話を伺っているんですよ」

 藤野は、何かを探すように窓のほうを見た。外は午後の淡い光で、電線が一本だけ風に震えている。

「分からない、ねえ」

 彼はかすれた声で笑った。

「あなたが、書いたんでしょう。軽い調子で。『子どもは神さまになることがあるのだろうか』みたいな、そういう……見出し」

 ノートの横罫が、一瞬、蛇のように波打って見えた。私は否定しかけて、やめる。何を否定したらいいのか、分からない。それなのに、心臓がどくどくと脈打つ。

「あなたが書いた言葉は、飛んだんですよ」

 藤野は続けた。

「飛んで、町の上を、しばらくのあいだ、音もなく漂った。俺の家の上も、巣箱の上も……見えます、今は。あなたがあの子に言ったことも、あの子が黙っていたことも、俺が笑ってしまったときの色も。全部」

 私はペンを置いた。指先に汗が滲むのが、自分でも分かる。録音機の赤い点は律儀に瞬き続け、音を拾っている。呼吸まで拾われている気がして、浅くなる。

「言い過ぎか? ごめんな、俺は善人じゃないんだよ、兄貴はいいやつなのにな」

 藤野は椅子の背にもたれかかり、虚空に立つ何かに向かって話すように、声を整えた。「兄貴、聞こえるか……うん、そう。俺はまだ怒ってる。怒ってるけど、直接は無理だ。陰でネチネチ恨んで、ネチネチ言うんだよ……ああ、奥さん、すみません。黄色の花、どうでした? 似合ってたでしょう。きれいだったでしょう。花言葉、知ってましたか。知らないよね。看護師さん、あなたは知ってる? 知らないよな。世の中は、だいたい知らないまま進むようにできてる」

 彼は私を見ない。見ないまま、名前のない誰かに順番に語りかける。兄、男、その妻、看護師——ありもしない輪郭が、部屋の隅に影のように立ち並ぶのを、私は想像してしまう。想像してしまって、声が出なくなる。こんな状態では、なんの意味もない。聞き取りの最中に書いていった質問項目は完全に意味を失った。

「藤野さん」

 私はやっとの思いで言う。

「少し、休憩を挟みませんか。お茶とか」

「千家さん」

 彼はぴたりと言葉を重ねた。

「あなたは、いま、どこを向いていますか」

 私は答えられない。正面にいるはずの彼は、正面を見ていない。視線は私を素通りし、窓の外の白い空に吸い込まれていく。私の質問は、彼の耳まで届かずに落ちる。

 ドアが軽く叩かれた。私は救われたような気持ちで振り向く。入ってきたのは金栗宗久だった。作務衣のような衣の裾を整え、いつもの穏やかな笑みを浮かべている。

「千家さん、大丈夫ですか」

 私は思わず立ち上がった。椅子がわずかに軋む。

「すみません、ちょっと……」

 金栗は、室内の気配を一呼吸で確かめるように目を細め、藤野のほうへ歩み寄るでもなく、私と彼のちょうど真ん中に立った。

「幹久くん、ありがとうございました。お話は、ここまででいいです」

 藤野は金栗を見た。けれど、やはり私には焦点を合わせない。

「金栗さん」

 彼は微笑んだ。

「あなたのことが分かるようになった気がする。全部見えるようになったんです。見えなくていいものも、たぶん。あなたは、黙っているだけだったんですね」

「どうかな。そうだったら、いいけれど」

 金栗は小さな声で藤野に答えた。そして、私の方へ向き直って、

「彼は少し変わってしまっただけですよ、千家さん。見えなくてもいいものが見えるようになった。変わるの、早い人と遅い人がいるんです。幹久くんは少しだけ早かった」

 一体、どういうことか分からない——はずだ。なのに、なぜか脳のどこかで理解している。だから、質問が浮かばない。そうなんだ、じゃあ仕方ないね、と、そう思っている。喉がからからに渇いている。私は頷くしかない。

「すみません、今日は、ここまでにさせてもらいます」

 藤野は私を見ない。机の端に置いた録音機にも、ペンにも、ノートにも、関心がないように見える。彼は窓のほうへ顔を向けたまま、ぽつりと呟いた。

「兄貴、聞こえたよな。ああ、うん。大丈夫、大丈夫だよ。大丈夫って言葉は、ちゃんと使わないといけないな」

 私は背筋に冷たいものが走るのを感じて、机の上のものを素早く鞄にしまった。ベルトが手に絡まる。指が少し震える。宗久さんがさりげなく鞄を持つ手を支えてくれた。「外、出ましょう」

 

 外に出ると、中の空気よりもいくらか温度が低く、さわやかな風が吹いている。木々が擦れる音が、思いのほか大きく響いた。

「ごめんなさい」

 自分でも何に対して謝っているのか、よく分からなかった。

「私、途中でやめてしまいました。本当はもっときちんと聞いて、記録しなくてはいけなかったのに、すみません、これじゃ企画が崩壊してますよね」

「崩れたのは、幹久くんのほうですよ」

 金栗は、やわらかく笑った。

「千家さんは、ただ立っていただけですよ」

 私は首を振る。言い訳は、営業で鍛えたほどには出てこない。「私、分かっていないんです。本当に。直くんのことも、町のことも」

「分かっています」

 彼の声は柔らかい。

「少しずつで問題ないですよ。言葉は、ゆっくり戻ります。急ぐと、見えなくていいものばかり見えてしまう」

 私はうなずいた。足が勝手に速くなる。逃げるように。自分でその言葉を思い浮かべた瞬間、羞恥心があふれて、顔がかあっと熱くなる。逃げるように、金栗に並んで歩く。家々の軒が等間隔に続き、電線が少しだけたわんでいる。遠くで犬の吠える声が聞こえた。でも、それに連鎖するものは、何もない。

「ねえ」

 私は、誰にともなく言う。

「この町、静かですね」

「静かですね」

 金栗は答える。

 鳥の声がしない、と、そこでやっと言葉になる。私は立ち止まる。電線の上も、公民館の屋根の縁も、庭木の枝も、空だけを持ち上げている。空は軽く、音はない。

「鳥の声が、しないかもしれない」

 呟きのような小さな声を、金栗は拾った。

「しませんね」

 金栗は言葉の調子を変えない。

「しばらく、鳥の声はしません」

 私の脳に、紙の匂いがもう一度よみがえる。見出しの字面、立て付けのいい文章、ユーモアのつもりの軽薄さ。なぜ、そんなものが思い浮かぶのか分からない。私は、そんな仕事をしたかもしれない。でも、恥ずべきことではない。一生懸命だった。望まれた仕事を、適切にこなした。それでも、イメージが形になって押し寄せて、胸の内側でざらつく。私はそれを、まだ言葉にはしない。まだ、できない。いつか、理解してしまうのだろうか。藤野幹久のように。

 風が通り過ぎ、チ、と透き通るような音がした。その音はきっと金属の音で、かなり似ていたけれど鳥の鳴き声ではなかった。

 歩き出す。逃げる、という言葉はもう使わない。ただ、歩く。静かな町を、静かに通り抜ける。靴底が舗装の小石を押し、かすかに砕く音がする。それだけが、今のところの現実だった。

 

(つづく)