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 最初は、赤羽恭介という元教師の話を聞く、ということだった。だが、指示されたのは、赤羽の元生徒の保護者、赤羽のご近所さん、赤羽が勤めていた小学校の元校長の三人のところに向かって話を聞け、だった。

 全く飲み込めないまま金栗の車に乗り、指定された落ち着いた雰囲気のカフェに入り、次々とそこに来る人の話を聞いた。

 金栗が事前に提示してきた注意は納得のいくものだった。まさか、こんなに非現実的な話を聞かされるとは思わなかったのだ。意味が分からなすぎて、次の日、独自で赤羽恭介を知る他の住民数人にも取材した。その結果、ますます非現実的な全体像が浮かび上がってしまった。

 話をまとめると、きっとこうだ。

 小さな分譲住宅に、赤羽恭介は暮らしていた。

 恭介は、この土地の人間であり、地元の神社の言い伝えをよく知っていた。ここの神は「声なき神」である。恭介はその話を子供たちにする。

「いいかい、神様は声がなくったって、耳も目もある。みんなの言葉を聞いているし、みんなのことをきちんと見てくれているんだ。いいことも、悪いこともね」

 生徒の発案で、教室全体を見渡せる位置に「神様の席」を設置し、さらに黒板の前に置かれた箱に神様とのお約束を書いた紙を入れることにする(例えば、さかあがりができるようになる、など)。当初、このごっこ遊びはいい方向に働いており、何か授業中いたずらをする生徒がいれば「神様が見てるからきちんとしなくては駄目だ」と促したり、生徒の皆が教室をキレイに保つようになったりした。また、箱に入れた目標を達成し、自信を持つ生徒も増えた。

 ある日、転校生がやってくる。彼は不思議な雰囲気の少年だった。そこにいるだけである。しかし、足を骨折した少年の前で、彼が息を漏らすと、傷がたちまちに治った。教壇の花がいつまでも萎れなかったりなど、「神様とのお約束」が彼が息を漏らした時に叶いはじめる。それが、直くんだ。

 子供たちは、直くんを「神様」と呼ぼうとするが、「違う。上はずっと見ているだけ」と言う。しかし、彼はそれでいてときどき、「上は頷いた」など意味深なことを言う。それを勝手に解釈する。ますます彼の特別な存在感が高まっていく。

 恭介はそれを悪いことだとは思わず、「君はすぐにクラスに馴染んだね。声なき神のことがよく分かるんだね」と話す。彼は「はい」と短く答えるだけだった。

 クラスの結束が強く、ポジティブな様子はやがて保護者や校長からも褒められるようになる。そこで恭介は少し調子に乗ってしまい、

「きいてくれるよ こえなきかみさまへ」という看板に天使の形を模した折り紙をはりつけ、見やすい位置に新しく張る。

「さあみんな、お約束カードを書いてみよう。ここに張ろうね」

 と言った。

 これに難色を示したのは直くんだった。彼は手を挙げて、

「先生。それはあそびです。あそびであることをきちんと言うべきです」と言う。

「いやいや、遊びじゃないよ。神様は僕たちの声を聞いてくれるよ。君だって、神様はいるって、分かるって言ってたじゃないか」

「いいえ。それは遊びです。上は見ているだけです。子供たちがあそびを本当だと思ったら、何が起こりますか。書いた願いが必ず叶うと思ってしまったら、叶わなかったときに、どうなりますか」

 盛り上がっていたクラスは静かになる。誰も何も言わず、彼もそれ以上何も言わなかった。

 クラスでは、先生が正しいのか、彼が正しいのか、論争が起こった。

 直くんは奇跡を起こし、神の声を聞くので、直くんが正しいという派。最初に声なき神の話をしたのは先生なのだから、あくまで直くんはそれに乗っかっているだけで、先生が正しいという派。

 恭介はそれを深刻にとらえ、翌日ホームルームで、

「ごめんなさい。先生が悪かったです。信じることはいいことだけれど、みんなが喧嘩してしまうなら、もうこの遊びは終わりです」

 そう言って、神様の席や、箱を撤去した。

 直くんはそれを見て、「なぜあるものをなくすの?」と言うが、恭介は「君も遊びだって言っただろ。それに、喧嘩しちゃうからね」と答えたそうだ。

 その後、次々に災いが起こる。子供たちが怪我をしたり、ウサギが殺されたりする。そこに必ず「お約束」カードが落ちていて、「きこえるよ」と書いてある。

 直くんはそれを見て、「あるものをなくしたということは、拒絶されたということだ」と言ったらしい。

 そして、恭介の家族に変化が訪れる。身汚くなり、徘徊したかと思えば引きこもるようになり、とうとう口を利かなくなった。病院へ行っても改善しなかった。

 登校中の直くんを怒鳴る恭介の姿が目撃されている。

「お前がやったのか!」

 直くんは怯える様子もなくこう言ったらしい。

「いいえ。先生は、拒絶した。先生の言うことを聞いて、皆、拒絶した。聞く必要のなくなった声は、消えてなくなる」

 恭介は直感的に理解した。妻も娘を言葉を奪われた。神に謝罪するためには、言葉を差し出すしかない、と。

 恭介はカードに「申し訳ございません。あなたを拒絶したのは私だけなのです。私ももう、拒絶しません」と書き、教室の掲示板に張ったようだ。

 その後、事態は収束に向かった。妙なことは起こらなくなり、直くんは登校しなくなった。恭介の妻と娘も、徐々に普段のような姿を取り戻したという。

 しかし、それ以来恭介は、言葉を発さない。教師をやめさせられても、やがて妻が娘を連れて出て行っても、二度と言葉を発することはなかった。

 この話を事実として呑み込めるほど、私はファンタジーの世界に生きていないと思う。しかし、全く信じていないというわけでもない。私がこの町の全員、延いては滝川に担がれている場合を除いて、全員が同じことを同じように語るわけがないからだ。その場合は、限りなく事実である可能性が高い。

 この話をどうまとめて報告すればよいのかを悩みながら、結局私は指定された三人のインタビューをそのまま文字起こしするに至った。

 とにかくまったく合理的でないのは、直くんのことだ。皆、直くんを人間とは一線を画した超越者として語りたがる。信仰の対象にすらなっている気配がある。しかし、実際の直くんは、まったくそうは見えないのだ。

 直くんは金栗宗久といるときは、本当に単なる父子にしか見えない。感情の起伏を表に出していないものの、それこそが子供っぽい背伸びなのではないかと思える。

 奇怪な現象は集団心理的なものだと思う。神秘的な雰囲気の顔のきれいな少年が何か哲学的に聞こえることを言えば、たしかに何か特別なことを言っているのではないかと勘違いしてしまう。

 カフェスペースのガラス窓越しに通路を見ると、ちょうど金栗と直くんが並んで歩いていた。金栗は右手にスマートフォンを当てて、何やら会話をしている。直くんはその横を無表情で歩いていた。

 このインタビュー自体に何か特別な意味はあるのか、それを問う必要があると感じ、私は金栗に声をかけた。

「金栗さん」

 金栗は私に向かって軽く左手を振る。

「うん。そうなんだ。新しい社員さんで。ううん、こういう仕事は祥子には向いてないと思うけど。それじゃあまたね。愛してるよ」

 金栗はそう言って、スマートフォンをポケットにしまった。

「ごめんね。電話中で」

「奥さまですか?」

「はい。そうですよ」

「いいですね、ご夫婦仲良くて」

 直くんが真一文字に閉じていた口を開きかけたのが見えた。その瞬間、金栗が、

「お願いだ」

 と言う。すると、直くんは開きかけた口をすぐに閉じた。

 今のは一体なんだったのか、と思う。直くんが口を動かしたとき、胸が急に詰まる感じがあった。それを、金栗が止めてくれとお願いをしたのかもしれない。そんなふうに考える。

「あの……」

「はい?」

 私は少し迷ってから、今の話を聞くにはまだ関係性が築けていないと感じる。

「ええと……仕事の話なんですけど」

「ああ。ちゃんと話は聞けました?」

「聞いたは聞いたんですけど、その、ちょっと分からなくて。これって、なんの意味が? みつば文具の話なんて誰もしてなかったですし、赤羽恭介という人も、みつば文具とは関係がない方のようですけど」

「こちらは、話を聞いてください、という仕事の話を伝えているだけで、意味の話は、こちらにも分からないんですよ」

 金栗は「でも」と一呼吸おいて、

「きっと意味はありますよ。言われた通り仕事をするだけで問題ないと思いますよ」

 なんだか、金栗の柔和な顔から、誠実さではなく、胡散臭さを感じる。

 ふと、腕に、何かかさかさとしたものが当たっているのを感じた。虫か、と思いぎょっとして見ると、直君が、小さな紙のカードを私に差し出している。

「直くん、これは……?」

「どうぞ。声はないけれど、聞けるだろう」

「え……?」

 幼い子供に対する気遣い、つまり笑顔を引きつらせながらそれを受け取る。

 瞬間、ぞくりとした。

 小学校の先生らしい、整った丁寧な文字で、「お約束カード」と書いてある。赤羽恭介という名前も。

 金栗の顔を見る。直くんの顔も。彼らは表情を変えず、ただ私の顔を見ている。じっと、確かめるように。

 震えながらカードを裏返す。

「これが私の祈りなのです」

 と書いてあった。

 

(つづく)