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 翌朝、目覚ましはいつもの五時半に鳴った。顔を洗い、制服に袖を通す。ポケットにノートを差し込み、靴紐を結ぶ。玄関を開けると、湿った空気が肌にまとわりついた。配達の束はいつもどおり重く、局の朝礼もいつもどおり短い。上司が「昨日は助かった」とあらためて言い、同僚が「飲みに行こか」と笑顔を見せる。俺も笑ってうなずいた。

 表の俺は、人を救う人間だ。裏の俺は、崩し続ける人間だ。二人は同じ制服を着て、同じ名札をつけ、同じ順路を歩く。町は狭く、俺は優しい笑顔を張り付けて歩く。誉め言葉が風に乗り、背中にまとわりつく。俺の中で泥がまた撹拌される。今日も俺は、配る。配りながら、奪う。そして、笑う。周囲はまた言うだろう。「藤野は立派だ」と。俺は頷くだろう。

 それから数日、俺は二日に一度の頻度で、男の病室に顔を出した。配達の合間に足を運ぶと、決まって誰かが褒めた。妻が褒め、看護師が褒め、通院中の老人が「最近の若いもんも捨てたもんやない」と笑って褒め、主治医までも「藤野さんのような方の存在は、治療の一部と言っても過言ではないでしょう」と言った。俺は笑って、笑って、笑い続けた。もう、頬の筋肉が痛むこともない。

 俺は「終了」とは書けなかった。終わらせたくなかったのだと思う。

 嫌がらせの余地は、ほとんどなかった。病室という場所は、どこもかしこも管理されている。食べ物の持ち込みは制限され、ゴミはすぐに片づけられ、ナースコールひとつで人が来る。

 花を選ぶことにした。花ならば、意味で刺せる。色で、言葉で、見えない刃を仕込める。下らないだろう。でも、それくらいしかできなかった。

 花屋の若い店員に相談するふりをして、俺は自分で選んだ。

「病室に差し入れをするんですが、そこの黄色いカーネーションを、お願いします」

 店員は明るく笑った。

「お見舞いですか? 素敵ですね。黄色のお花って、見るだけで元気が出ますからね。かわいいかすみ草も合わせて……」

 黄色いカーネーションの花言葉は「軽蔑」。店員は知らないふりをしているのか、本当に知らないのか、どちらでもよかった。病室に持っていくと、男の妻は、「わあ、部屋が明るくなりますね」と喜んだ。看護師は「素敵ですね」と花瓶に水を張って、ベッド脇のテーブルに置いた。男は弱い笑みで「きれいですね」と言った。誰も気づかない。黄色のあけすけな明るさだけが、無邪気に室内を照り返す。俺は笑った。笑いながら、吐き気に似た感覚が喉の裏に滞るのを、無理やり飲み下した。

 次は紫のピオニーにした。「怒り」。同じように、誰も気づかない。看護師に「シックで素敵な色、センスがいいですね」と言われ、俺は「お花屋さんが選んでくれたものですから」と応じた。花は、確かに美しかった。美しいからこそ、俺の濁りがより目立つような気がした。花の意味が届かないという事実が、余計に辛かった。俺の刃は、空を切っている。独り相撲だ。毎日、毎日、褒められる。毎日、毎日、笑顔を積み重ねる。

 見舞いの帰り道、病院の敷地に隣接した小さな公園に寄るのが習慣になった。滑り台とブランコと小さい砂場があるだけの、何の変哲もない公園だ。昼間でも人は少なく、鉄骨はいつも少し冷えている。ベンチに腰を下ろすと、何かの音がした。砂場に目を向けると、白い羽が一枚だけ落ちている。鳩か何かが飛び立ったのかもしれないと思った。

 その日の午後も、俺はベンチに座っていた。ポケットの中の携帯が震え、局からの連絡が画面に浮かぶ。なんのことはない、飲み会参加の打診だった。俺は了解の印だけ送って電源を切った。風が、なんともいえない、ムッとしたような匂いを運ぶ。砂場の端に、子どもが忘れたプラスチックのバケツがひっくり返っている。空の色は薄く、境目が曖昧だった。

 ふと、視線に気づいた。じわり、と皮膚の裏側から温度が上がってくるような視線だ。

 顔を上げると、公園の入口に、少年が立っていた。細い体に濃い影がまとわりついているように見えた。整った顔には年齢と釣り合わない無表情が貼りついている。町の誰もが、いずれは見間違えないようになる顔だ。佐伯直。

 直は何も言わず、ただこちらを見ていた。じっと、まばたきも少なく。俺は一度目を逸らし、もう一度見る。変わらない。距離は近くもならないし、遠くもならない。

 世界の方が彼に合わせているようだと思った。その感覚が間違っていないのは、いずれあなたも分かると思う。

 耐えられなくなったのは、俺のほうだった。

「何見てんだよ」

 自分でも驚くほど低い声が出た。直は、やはり表情を変えない。

「見てんじゃねえよ」

 足元の石を蹴り飛ばした。誰も見ていないと思う。でも、見ていたとしても、そのときはどうでもいいと思った。それくらい、焦って、苛立った。

「嘘つきは、目立つから」

 声は薄く、しかし確実に耳に届く。俺の名前よりも先に、言葉が俺を指さした。

「は、はあ?」

 胸の奥で何かが硬くなる。ますます、焦りといら立ちが膨らむ。

「俺の、どこが嘘つきだ」

 直は一歩も動かず、答える。

「あなたは、赦しを口にした。赦していないのに。笑った。笑って、感謝を受け取った。心では、別のことをしているのに」

「俺はっ」

 言いかけて、口の中で言葉が崩れて、消えた。俺は何を言うつもりだったのか。

「俺は助けた」「俺は見舞いに行った」「俺は親切にした」外側の正しさを列挙する脳裏の手帳に、直は淡々と斜線を引いていく。

「上は、それを不誠実だと思う」

「上?」

 俺は阿呆のように聞き返した。直は静かに頷く。

「上。あなたよりも上にあるもの。あなたよりも、まっすぐなもの。怒るなら怒る、赦すなら赦す」

「何言ってるか分かんねえ」

 直は俺の言葉を聞かなかった。

「中は燃えているのに、表は凪いでいる。そういうのを、上は嫌う。ずっと見ているから。よく見えるから」

 公園の風が止まった。俺は自分の喉が鳴る音を聞いた。何度も唾を呑み込んで、喉を潤して、震える唇で言った。

「上が、嫌う……だから、何だ」

 直は少しだけ首を傾げて「だから」と言った。

「だから、あなたの周りに鳥がいない」

 胸の真ん中に、冷たい釘が打ち込まれたような感覚がした。鳥。あの日から鳥が来なくなった庭。巣箱の前でどれだけ耳を澄ませても、羽音ひとつ落ちなかった朝。病院の窓辺の植え込みの上にも、枝だけが風に揺れていた。団地の広場でも、公園の鉄骨の上でも、鳴かない。鳴かないのは、偶然じゃないのか。季節の巡りの問題じゃないのか。思考の上に積んでいた薄い箱が、いま、一斉に潰れて音を立てた。

「俺が、嘘をついたから?」

 自分の声が遠い。

「赦してないのに、赦すと言ったから? 笑って、感謝を受け取ったから?」

 直は頷かない。否定もしない。ただ、見ている。その沈黙が、肯定よりも強かった。やがて彼は、少しだけ言葉を足す。

「あなたは、上と違う方向を向いている。だから、合図が来ない。鳥は合図。あなたの家は、しばらく前から、合図がない」

 合図。徴。俺は、ゆっくりと理解していく。単なる伝承じゃなかった。田舎の迷信でもなかった。俺が言葉を間違えたあの日、世界の側が俺から線を引いた。線を引かれたことに気づかないふりをして、俺は笑って、笑いながら濁りを増やし、笑いながら小さな復讐を積み上げ、笑いながら感謝を受け取った。俺は、上に対して——声無き神に対して、真横を向いていたのだ。

 言い逃れの言葉は、もう浮かんでこなかった。

 兄の手帳のページ。黄色い花。ひさし。濡れた封筒。病室の白いシーツ。看護師の笑顔。男の妻のお礼。町の称賛。あの男からの感謝。そして鳥はいない。俺の「大丈夫です」の一文が、それらを一直線に貫いている。

「じゃあどうすればよかったんだ」

 誰に向けてでもなく、口の中で零れた。どうすればよかったのか、そんなことは——

 直は少しだけ首を横に振る。

「どうするかは、あなたが決める。上は、ただ見る。真ん中が燃えているなら、上と同じほうを向けばいい。燃えているのに、凪いだふりをしない。そのままにする。嘘を言わない」

 簡単だ、と言われたようで、同時に不可能だ、と突きつけられたようでもあった。

 兄が死んだ。殺された。

 そうなった時点で、どこに戻っても俺は、同じことをする気がした。

 俺はうつむき、膝の上で手を組む。指の関節が白くなる。息を吸う。喉が痛い。風が戻る。砂場の端のバケツが、乾いた音で転がった。

 顔を上げたとき、直はすでに背を向けていた。歩幅は小さいのに、進む速度は一定で、彼の周りだけ空気の密度が違うみたいに見えた。呼び止める言葉は喉まできて、そこでほどけて消えた。「声無き神に名前をつけてはいけない」「声無き神に呼び掛けてはいけない」。迷信だと思っていたものが、そのときは確実に現実のものだった。

 俺はただ、背中を見送った。直は公園の出口で立ち止まり、振り返らずに、少しだけ空を見た。その視線の先に、何もいない空があった。彼は視線を戻すことなく、そのまま去った。

 ベンチに残った俺の周りには、やはり鳥はいなかった。葉の触れ合う音だけがして、どこからか救急車の遠いサイレンが薄く伸びてきた。俺はゆっくりと息を吐き、胸の奥に沈んでいた釘の冷たさを確かめる。理解は、温かくない。理解は、救いでもない。けれど、輪郭を与える。俺はようやく、自分が何をしてきたかを、外側の言葉なしに見つめることができた。笑いながら、赦していない、と。赦していないのに、赦すと言った、と。鳥がいないのは、そのせいである、と。

 夕方の影が長く伸び、ベンチの足が砂に沈む。携帯の電源を入れると、局から「いつきますか?」とメッセージが来ていた。俺は短く返事を打ち、「すぐに行きます」とだけ送った。画面を伏せ、立ち上がる。病院に背を向け、門を出る。振り返らない。俺の足音は、風の音にすぐ埋もれた。鳥のいない空が、上からゆっくり落ちてくるように思えた。

 

(つづく)