12
天まで届くかと思えるほど、高く燃え上がった炎の中にシルエットとなって浮かび上がる新本殿が遠ざかっていく。
花音はその光景を車の後部座席から見ながら、スマホを取り出した。
先ほどまで「圏外」となっていた電波状況の表示が、いつの間にか通信可能になっている。
「電波が回復したわ! すぐに消防署に連絡して!」
助手席に座る支部長が、すかさずスマホを取り出すと、火災の発生を消防署に通報し、消火活動を要請する。
その間に花音は、日本にいる教祖を務める祖父に電話をかけた。
コロラドは午前二時。十五時間の時差がある日本は、同日の午後五時である。
おそらく執務中だったのだろう、二度目の呼び出し音の半ばで「はい……」と祖父の声が聞こえ、次いで「そっちはまだ夜中だろ? 何か進展があったのか?」と問うてきた。
進展とは、もっか教団の最重要事案、倉科礼央の消息に関してなのは言うまでもない。
「お祖父さま、それどころじゃないわよ! 新本殿が燃えてるの! 大炎上しているのよ!」
「新本殿が燃えているって……どういうことだ?」
俄には状況が理解できないらしく、祖父は問い返してくる。
「大爆発が起きて、直後に凄まじい炎が上がったの。まるで太陽みたいに巨大な火球が新本殿を飲み込んだのよ!」
「大爆発って……そんな危険物を新本殿に保管してたのか? もしかして、『霊泉』の製造に使う薬品か何かか?」
「そんなこと私が知るわけないでしょ! 放線菌の培養も含めて、『霊泉』の製造は倉科礼央が全て仕切っていたんだもの」
悲鳴としか言いようがない花音の口調から、事態の深刻さを察したのだろう、祖父は言葉が見つからないようで沈黙する。
花音は続けた。
「これ、ただの爆発火災じゃないと思うの」
「ただのって、どう言うことだ?」
「最初に少し離れたところで爆発が起きて、それで目が覚めたんだけど、その時は既に新本殿もホテルも全館停電、しかも携帯電話の電波も入らなくなっていたの。こんなこと偶然とは思えないわよ。何者かが明確な意図をもって、ここの施設を破壊しにかかったとしか考えられないわよ」
「何者って、誰が何の目的で? 『大和の命』は新興とはいえ、カルトとは違う平和的な宗教団体なんだぞ? 攻撃を受けるような活動は一切していないじゃないか」
「一点を除けばね」
花音は言った。「『大和の命』には『霊泉』があるじゃない。私たちにとっては信者獲得のキラーツール。それも病を抱える信者さまの悩みを解消し、幸せにする『水』だけど、こんな物が世に広まったら困る人たちだっているのよ」
「確かに、他の宗教団体からすりゃあ脅威だよな。『大和の命』に入信すれば、健康を取り戻せると知れれば、他の宗教団体からは脱会者続出。存亡の危機に晒されることになるからな」
納得したように言う祖父だったが、すかさず疑念を呈してきた。「でも、『霊泉』の正体を知る者は、教団内には数人しかいないんだぞ? それも、『霊泉』に教団の今後の全てがかかっていると重々承知している者ばかりだ。外部に漏らす人間は、ただの一人としていないと思うが?」
「一人いるじゃない……」
花音は言葉に確信を込めた。
「一人? 誰だ?」
「倉科礼央よ」
祖父が息を呑む気配が伝わってくる。
「彼は逃亡する直前に、助手を殺害したのよ。放線菌の存在、『霊泉』の製造施設があることが発覚することを恐れて隠蔽したけど、倉科礼央だって理由もなく殺人を犯すような人間じゃないわ。おそらく、彼は助手が『霊泉』のレシピを手に入れるために、教団が送り込んだことに気がついたのよ」
「つまり、教団に裏切られた。放線菌のレシピをどこかの宗教教団に持ち込んで金に換えたか、レシピを渡すに当たって復讐を条件としたか――」
「それもあり得るけど、本当のところは分からない」
花音は祖父の言葉を遮ると、続けて言った。
「私たちは放線菌と『霊泉』のレシピを手に入れて、信者さまに広めることだけを考えていたけど、考えてみれば『霊泉』の効能、いや放線菌の存在そのものが世に知られたら困る人たちだっているのよね」
「困る人たちって?」
「前に、倉科礼央が言ってたの。放線菌の存在が表に出なかったのは、製薬会社が金の力で闇に葬ったからだって……。当たり前よね。放線菌の効能が知れ渡ってしまえば、薬なんかいらなくなってしまうんだし、医療業界だって患者が激減。医者だって飯の食い上げになってしまうんだもの」
「そうか……。確かにその通りだ……」
祖父はいまさらながら気がついた様子で漏らす。
「倉科礼央は、こうも言ってたわ……。医療業界にとって、最悪の事態とは万人が健康になること。製薬業界にとっては、万能薬が出現することって……。確かにその通りなのよ。患者がいなくなれば、医者はいらなくなっちゃうんだし、万能薬が出て来れば、製薬会社は成り立たなくなってしまうんですもの……」
「すると製薬会社、いや製薬業界の仕業とも考えられるわけか」
「可能性としてはね……。ただ……」
花音はそこで言葉を濁した。
「ただ……。ただ、何だ?」
「製薬会社の仕業だとすれば、放線菌と『霊泉』のレシピを持って逃亡している倉科礼央を放っておくわけがないと思うの。私たちでさえ倉科礼央が犯した殺人を隠蔽できたんですもの。これほど大胆な手段を講じて教団を攻撃するには、大きな組織と資金が動いたはずで、誰に知られることなく、倉科礼央を葬り去るなんて簡単にやってのけるわよ」
「もし、お前の言う通りならば、我々は放線菌もレシピも二度と手に入れることができないことになるが?」
祖父の声に失望、絶望のどちらとも取れる感情が色濃く滲む。
「お祖父さま……」
花音は改まった口調で呼びかけた。「仮に倉科礼央が生きていて、放線菌を奪い返して、再び教団が『霊泉』が製造できるようになったとしても、また同じ目に遭わされるわよ。当たり前じゃない。これは間違いなくプロの仕業……それもプロ中のプロの仕業よ。これだけのことをやってのけるプロを雇おうと思ったら、一体どれほどのお金がかかると思う?」
「どれほどと言われても……」
祖父は、困惑を露わに押し黙る。
「私だって分からないけど、雇うたって一人や二人じゃないわよ。つまり、さらなる危機を排除するためなら金に糸目はつけない。どんな手段を講じてでも徹底的に排除する覚悟と意志があることを見せつけているように思うの」
「つまり、『霊泉』は諦めるしかないと言いたいのか?」
祖父は未練がましく言う。
「お祖父さまの気持ちは分かるけど、そもそも放線菌を再び入手するのはどう考えても不可能なんだもの、そうするしかないわよ」
「しかし、信者さまは「大和の命」の神に祈れば恩恵に与れる。奇跡が起きると――」
花音は祖父の言葉半ばで遮った。
「奇跡は信仰のおかげであって、『霊泉』の薬効だとは気づいちゃいないでしょ?」
「えっ?」
「それで十分じゃない」
不意をつかれたとばかりに、短く漏らす祖父に向かって花音は言った。「少なくない信者さまが、実際に奇跡を経験し、目の当たりにしたんだもの。信仰の賜物と思い込んでいる限り、入信希望者は後をたたず。退会者だって出ないわよ」
「しかし、いくら祈っても奇跡が起きないとなれば――」
「他の宗教は、それでやっていけてるんだもの、大丈夫だと思うけど?」
花音の言葉に意表をつかれたのだろう。
祖父は唖然としたのか押し黙る。
「だって、そうじゃない」
花音は続けた。「奇跡は確かに起きるわよ。でもね、毎回起こるものではないし、常識では考えられない現象だから奇跡と称されるんでしょ? つまり偶然以外の何物でもないのだけれど、なぜ常識では考えられないことが起きたのか、知りたくなるのが人間なのよ。だって理由が分かれば、我が身や家族が同じような問題に直面した時、奇跡が起きるかも知れないじゃない。でも奇跡が起きた理由なんて、分かるわけがないのよ。なぜなら、奇跡には再現性がない。つまり、科学じゃないんだもの」
「そこで、神の存在を信じるようになるというわけか」
「でもね、お祖父さまだって神の存在は信じていても、祈れば願いを叶えてくださる、まして奇跡を起こしてくださるなんて思っちゃいないでしょ?」
「そもそも『大和の命』は信仰すれば現世利益を得られるとは教えてはいないからね」
「でも、倉科礼央が放線菌を持ち込んだところで、変わってしまったじゃない。『霊泉』の効能をもってすれば、世界最大の宗教団体にのし上がることも夢ではない。世界一の宗教になることも可能だという野望を持ってしまったでしょ?」
「確かに……」
「信者さまが、『大和の命』を信仰すれば、奇跡に与ることができるかもしれないと思い込んでいるうちに、今回の災難を教訓に、本来の路線に戻るべきだと思うの」
祖父は黙って話に聞き入っている。
花音は続けた。
「これは警告よ。誰の仕業か分からないけど、二度と放線菌に関心を示すな。存在や効能を外に漏らすなって言っているのよ。もし、警告を無視すれば……」
祖父が、生唾を飲み込む気配が伝わってくる。
自ら口にした言葉が確信に変わるのを花音は覚えた。
「次は、命を落とすことになる……」
13
初めての両親の祖国・日本は、見るものの全てが新鮮で、驚きの連続だった。
滞在しているのは外資系の高級ホテルで、都内有数の繁華街・六本木に近いというのに、街は清潔だし、何よりも深夜に街に出ても身の危険を感じないのだ。
話に聞いてはいたものの、実際に体験してみると、この治安の良さはアメリカとは大違い。まるでアメリカが未だ開拓時代の西部劇の中にあるように思えてくる。
それゆえに、父親の朝倉恭介が、この日本で犯した犯罪行為の異様さが際立つ。
彼がいかなる人物であったのか、どんな犯罪を犯したのかは調べるのに苦労はしなかった。ネットに名前を入れて検索すれば、たちどころに分かってしまったからだ。
なにしろ、関税法を逆手に取り、大量のコカインを長きに亘って密輸入して売り捌き、果てはサブマシンガン・イングラムを乱射しての大立ち回り。しかも、最後は状況からして死亡した可能性が高いとされてはいるものの、ついぞ身柄を確保されることなく消息不明となってしまったのだ。
当時のマスメディアは、朝倉恭介はいかなる人物であったのか、彼の生い立ちや学歴、犯罪履歴を大々的、かつセンセーショナルに報じた。それは報道の域を超えた読み物、いやある意味エンターテインメントと化しているように思えた。
不思議なことに、礼央は実の父親が犯した犯罪履歴を知っても失望感を覚えなかった。
それどころか、知れば知るほど胸の中に湧き上がってくる興奮が抑えられなくなった。
何よりも、関税法の盲点をついた、コカイン密輸の方法である。
日本向けの製品が入ったコンテナが北米大陸を横断する間に開封し、コカインが入った箱とすり替える。箱の表面に表示されたロット番号が、インボイス上に記されたものと異なるとなれば、関税法では誤送品とされ、プロフォーマインボイスが発行されるまで別途保管しなければならない。その間のタイムラグを利用して、コカインを密かにピックアップする……。しかも、その際インボイス上に記されたロット番号と同一の製品とすり替えるのだ。
記事には、朝倉が大量のコカインを調達できたのは、アメリカの犯罪組織の協力があったからだとあったが、それがまた礼央には誇らしかった。
なぜなら、この目の覚めるような密輸方法を考案したのは朝倉自身であったに違いないし、日本国内での販売も彼一人で行っていたとある。つまり、所謂「ローン・ウルフ」が、アメリカの犯罪組織を動かしたのだ。
コカインに限らず麻薬ビジネスでは巨額の金が動く。発覚すれば水の泡。だからといって、支払いが免除されることは絶対にない。
つまり、コカインを密輸入するにあたっては、卸元の犯罪組織の絶対的信頼を得ることが大前提となるはずなのだ。
いかなる経緯で犯罪組織と結びついたのか、そして信頼を得たのか、それらは一切不明とされてはいるものの、朝倉恭介が飛び抜けて優れた頭脳と度胸を持ち合わせている人物であったことに疑いの余地はなかった。
その彼の血が俺の中に流れている、遺伝子を引き継いでいるのだ。
どうりでセルフィッシュを殺してしまったあの時、恐怖も覚えなければ、罪悪感も覚えなかったわけだ……。
礼央は、自分の中に眠っていた本能の目覚めを感じ始めていた。
となると、考えなければならないのは、この先の身の振り方だ……。
礼央のスマホが鳴ったのは、そんなある日のことである。
パネルを見ると、そこには「チャック・テーラー」の名前が浮かんでいた。
「チャック……」
礼央はパネルをタップすると、テーラーに向かって呼びかけた。
「日本はどうかな。初めて訪問する祖国だ。さすがに感慨深いものがあるんじゃないか?」
「今のところ実に快適だよ。いい国だ。平和かつ快適な国だね」
「それはよかった……」
テーラーが忍び笑いを漏らす気配が伝わってくる。しかし、それも一瞬のことで、「『大和の命』の新本殿が全焼したよ。ラボごとね……」
淡々とした口調で告げてきた。
驚くことではない。そう仕向けたのは礼央である。
「思った通りだね。エマーソン・ジョシュアがやったんだな」
「だろうね。そうとしか考えられんよ。それも相当腕の立つ連中を雇ったようだね」
「と言うと?」
「新本殿は爆発的に燃え上がったそうだけど、死者はおろか負傷者も皆無だったそうだからね」
「で、火災の原因は? 教団は何かコメントを出したんだろ?」
「地下二階の保管室に置いていたガソリンが何らかの理由で発火したと……。『水』の製造施設が狙われたとは口が裂けても言えんだろうからね。そうとしか言いようがなかったんだ」
明らかにテーラーは苦笑しているようだった。
「それで、消防は納得したのか?」
「ガソリンスタンドまでは、かなり距離があるので、うっかり補給を忘れた時に備えてポリタンクに入れて備蓄していたと言ったらしいね。まあ、大爆発を引き起こすほどの量のガソリンを地下に保管するのは法に触れるが、それを承知で認めたんだからね。消防だって、納得するしかないさ」
「となると、教団が次にどういう動きを見せるかだな……」
礼央の言葉を聞いたテーラーが意外なことを告げてきた。
「教団は『水』の製造再開を断念したようだね」
「というと?」
「君の追跡を止めるよう、組織から連絡があったんだ。ついさっきのことだがね」
「追跡を止めた? 教団が?」
「そういうことだ。クライアントがキャンセルしない限り、一旦引き受けた仕事から我々が手を引くことはないからね」
紛れもない朗報である。
思わず頬を緩ませた礼央に、
「で、君はどうするつもりだ。これで追われる立場から解放されたわけだが、このままバケーションに入るのかな? それともアメリカに戻るのか?」
テーラーは問いかけてきた。
「仕事を探そうと考えてはいるんだが、何をやったらいいのか、ピンとくるものがなくてね……。それに教団が放線菌の入手を諦めたとしても、エマーソン・ジョシュアがどう出るか、分からないこともあるし……」
「確かに、それは言えてるな。放線菌を完全に葬り去らないことには、エマーソン・ジョシュアも安心できないからね」
放線菌を葬る……。それが礼央の命がたたれることを意味するのは言うまでもない。
思わず沈黙してしまった礼央に、
「組織で働くのがいいかもな」
テーラーは何気ない口調で持ちかけてきた。
「組織?」
「そう、組織だ。エマーソン・ジョシュアが手出しできない組織で……」
「それはどんな?」
「いくつか心当たりがある。君のことを知れば、必ず興味を示す組織がね……」
これ以上訊くのは野暮というものだ。
「なるほど……」
「私に任せてくれ。少し時間はかかるが、悪いようにはしないから。それまでせいぜい日本を楽しむことだ……」
テーラーの力の籠った声を聞きながら、
「朗報を待っているよ……。それじゃ……」
礼央は回線を切った。
(了)