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 ジョシュア・アーリントンは、アメリカのケンタッキー州レキシントンに本社を置く、大手製薬会社エマーソン・ジョシュアのマーケティングマネジャーをしている。
 その日、クリーブランドにある総合病院を訪れたのは、一般外科の医師、マイク・川添と会うのが目的だった。
 製薬会社は、新薬の開発研究に専念しているだけではない。利益の三割をマーケティングに費やすと言われているように、自社の薬の販売促進を目的とする営業活動以外にも、研究機関や医師への資金提供も行なっている。
 と言うのも、医学研究には莫大な資金を要するからだ。大学や大病院の予算をもってしても到底賄い切れるものではなく、製薬会社の資金援助がなければ研究を行なうことすらできやしないのだ。そして援助は研究費のみならず、有望な医学生の留学資金、学会を開催するにあたっての費用や人員提供、ブースの出展、論文を書くとなればデータの取り纏め等々多岐に亘り、医師の面倒を見るために莫大な金を費やすのだ。
 川添はクリーブランド屈指の総合病院に勤務しており、手術の技量は地域屈指の腕と評判が高く、エマーソン・ジョシュアの中でも将来性に期待し「重点支援医師」にランク付けされている。
 時刻は午後四時半。外来も終わり、手術の予定も入っていないことを予め確認し、アポイントメントも取り付けてある。
 胸に来訪者のIDをつけたアーリントンは、川添の診察室の前に立つとドアをノックした。
「どうぞ……」
 川添の声がすぐに聞こえ、アーリントンはドアを開けた。
 学会発表用の資料か、目を通していた書類を広げたまま、川添は椅子から立ち上がると、
「ハァイ。ジョシュ! ハウ・アー・ユー・ドゥーイング」
 お決まりの挨拶で迎え、手を差し伸べてきた。
「ええ……。元気にしてますよ。先生はいかがです?」
「まあ、可もなく不可もなくってところかな。相変わらず診察と手術に追われる日々を過ごしているよ」
 笑みを湛えながら川添は応え、「今夜はクリーブランドに泊まるのかな? まさか日帰りするんじゃないだろ?」
 と問うてきた。
「そのまさかですよ、先生」
 アーリントンは苦笑いを浮かべ、肩を竦めた。「明日の朝一番に会議の予定がありましてね。どうしても出席しなければならないもので……」
「五百キロ以上の距離を車で走ってきて、とんぼ返りするのかね? そりゃあ大変だ。それならそうと言ってくれれば、もっと早い時間に会える日を選んだのに……」
「ご心配には及びませんよ。ガソリン代に加えて出張の日当、それにタイヤの摩耗分もきっちり会社に請求しますので。それに、ホテルにしたって、国内出張は一流どころに泊まれませんからね。モーテルに毛が生えた程度ですから、家の方が寝心地がいいんですよ」
「そうかもしれないね。それに明日の朝一番に会議があるんじゃ、午前三時にはクリーブランドを発たなければならないもんな。それじゃあ、落ち落ち眠ってもいられないからね」
「こう見えても管理職ですから、遅刻したんじゃ部下に示しがつきませんので……」
 アーリントンは、笑みを浮かべながら答えると、早々に用件に入った。
「ところで先生。ロンドンでの学会発表の件なのですが、往復の航空券、ホテルの宿泊予約は私どもの方で手配させていただきました。現地ではスイス駐在の社員がアテンドさせていただくことになっておりますが、他に何かお手伝いさせていただくことはありますか。今回はアメリカ、ヨーロッパはもちろん、アジアからも高名な先生方がご出席されます。先生にとっても、とても重要な学会ですので、念には念を入れておくに越したことはないと思うのですが」
「いつもお気遣いいただいて、ジョシュには感謝していますよ。今回の学会の重要性は、私も重々承知しているけど、まあ、発表内容は自分が行なってきた研究だからね。私以上に知る者はいないのだし、評価も私自身に下されるものだ。申し出はありがたいけれど、自分でやることにするよ」
 そうは言っても、川添の発表内容は腹部の内臓にできた癌治療の成果である。全てのケースにおいて、まずエマーソン・ジョシュアが開発した治験中の抗癌剤を投与して腫瘍を縮小した後、川添の執刀で除去したのだが、自社製品が使われているだけに、発表内容を事前に知っておかなければならない。
「そうはおっしゃいますが、今回発表なさる症例は、全て切除前に治験中の抗癌剤が使われたものです。私は先生のカウンターパートですから、お手伝いしないわけには――」
 アーリントンの言葉が終わらぬうちに、デスクの上の電話が鳴った。
 二度ずつ短く鳴るのは内線である。
「マイク・川添」
 名乗った川添は相手の用件に耳を傾け、「院長が? すぐに来てほしいと? 今、来客中なんだけど……ああ……なるほど分かった。じゃあすぐに行くよ」
 と短い会話を終わらせると、受話器を置いた。
 そして、アーリントンに向き直り、
「ジョシュ、申し訳ないんだけど、院長がお呼びでね。長くはかからないと思うから、待っていてくれるかな」
 すまなそうに言う。
 もちろん、返事は決まっている。
「どうぞ行ってください。なんでしたら日を改めましょうか?」
「日を改める? それじゃ二度手間になってしまうじゃないか。用件には察しがついているんだ。十分……いや、十五分程度で済むと思うから、とにかく待っていてくれ」
 大手製薬会社のマーケティングマネージャーにして、カウンターパートとはいえ、川添にとっては出入りの業者の一人に過ぎない。病院組織の最高責任者の呼び出しとどちらが重要かは、天秤にかけるまでもない。
「分かりました。では、ここで待たせていただきます」
 アーリントンが笑みを浮かべながら返事をすると同時に、川添は診察室を出ていく。
 診察時間が過ぎた外来病棟は静かなもので、部屋の外にも全く人の気配がない。
 こうなると、僅か十分やそこらでも、手持ち無沙汰になってしまう。
 アーリントンは、無意識のうちに部屋の様子を眺めていた。
 一方の壁面には本棚があり、論文誌や医学書が整然と並んでいる。デスクの上に置かれたモニターとキーボード、そしてマウス。どこの病院に行っても、診察室は同じようなもので、目新しい物は何一つとして見当たらない。
 だが、視線をやったデスクの上に、ドキュメンツの束が置いてあるのが目に入った。
 入室した際に川添が目にしていたものである。
 カバーページがあれば、内容を記したタイトルでなんの書類かわかるが、最初のページには二つのMRI画像が並んでプリントされており、その下に解説か見解らしきものが記してあるだけだ。
 許可を得ずして、他人の書類に目を通すのはマナー違反そのものだが、ひょっとしてロンドンで開かれる学会発表の資料ではと思い、アーリントンは、ドキュメンツの束を手に取った。
 MRI画像の判読には慣れている。
 当たり前の話だが、こと薬に関しては使用する側の医師よりも、開発製造する側の製薬会社の人間のほうが知識を持っている。特に、製薬会社の研究者は開発に携わり、治験の過程では副作用の有無や安全性を確認し、世に新薬として送り出すまでの全ての過程に携わっている。マーケティングを担当する社員もまた、研究者には及ばないまでも、医師に新薬の特徴、効能、作用機序を説明し、使用を勧めるのだから、必然的に深い知識を持つようになるのだ。
 そしてその過程においても、薬の効能による症状の改善の有無を検証するために、CTやMRI画像も見ることになるので、判読する目も自然と養われるのだ。
 だから、二つの画像を一目見ただけで、患者の病名、症状もすぐに分かった。
 肺癌。それも、ステージ3に達していると思われるかなり進行したものである。そして右に併記されている画像と見比べた瞬間、アーリントンは驚愕した。
 癌が明らかに縮小、それも従来の抗癌剤では考えられないほどに小さくなっているのだ。
 まさかこれ、治験中のうちの抗癌剤を使った結果か?
 状況からして、そうとしか考えられない。
 なにしろ、ロンドンで開催される学会で川添が発表するのは、エマーソン・ジョシュアが開発し、治験中の抗癌剤を使用した症例がメインである。
 もし、そうならば、これは大変な成果だ。
 胸躍るとはまさにこのことだ。
 喜びと興奮が同時に湧いてきて、アーリントンはその場で声を上げそうになった。
 しかし、次の瞬間、「待てよ……」と思った。
 画像は肺癌。川添は一般外科の専門医だ。肺癌は胸部外科の担当で、同じ外科医とはいえ彼の専門外なのに気づいたからだ。
 じゃあ、いったいこれは……。

 

(つづく)