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ボイスチェンジャーを使用していても、男の語り口調には若さと落ち着きがある。
「君は誰だ?……と言っても答えるわけがないよな……。ズバリ訊くが、あの放線菌をどこで手に入れた……」
ケリーは問うた。
「あるところへ行けば、簡単に手に入る……。既に大量に出回っているからね」
男は驚くべきことを言う。
「大量に?」
「そう大量にだ……」
さも愉快そうに、男が忍び笑いをする気配が伝わってくる。
「君は、あの放線菌の由来を知っているのか?」
「もちろん。そうでなければ、あなたに送りつけるわけがないだろ?」
「じゃあ、我々があの放線菌を所持していることも知っているんだな」
「最初に言っておくが、我々の調査能力はあなたの想像を遥かに超えるものがあってね。入手したのは全くの偶然だが、放線菌の由来、秘匿された経緯についても調べがついている」
「偶然入手した?」
ケリーは片眉を吊り上げ、ふんと鼻を鳴らした。「あり得ない。まして秘匿された経緯を知ることなんて――」
「できるわけがない」と続けようとしたのを男は遮り、
「二人が知れば、秘密が漏れる可能性は乗算的に増えるって言葉があるのを知っているか?」
逆に問いかけてきた。
「乗算的?」
「そう乗算的にだ……。実に的を射た言葉だと思わないか? 一人胸に秘めているうちは、本人が漏らさない限り、秘密を他人に知られることはない。だがね、一人でも他人に漏らせば、知る者は二人。本人も、また他の誰かに漏らさないとも限らないし、二人、三人に漏らす可能性だってあるからね」
男の言う通りかも知れない。
「ここだけの話」、「絶対誰にも漏らしてはならない」。そう前置きして話す状況では、相手が一人の場合が大半だというだけで、ケリーにしても同じ秘密をもう一人、さらに一人と打ち明けたことは何度もある。
果たして男は言う。
「考えてもみろよ。一連の経緯を知っている人間が、どれだけいると思う?」
そう言われても、何十年も昔のことだし、ケリーにしても社長就任時に、前任者から申し送り事項の一つとして、口頭で伝えられたにすぎない。
返答に詰まってしまったケリーに男は続ける。
「この大発見を封じる代償として、キンジー博士には大金を支払ったらしいじゃないか。それだけじゃない。博士が教鞭を執っていた大学の研究費を増額し、今に至るまで支払い続けてきたんだろ?」
「そんなことまで知っているのか?」
さすがに驚きの声を上げたケリーに、男は平然と言う。
「だから言ったろ? 我々の調査能力はあなたの想像を超えているって……」
またしても沈黙してしまったケリーに、男は続ける。
「墓場まで持って行くとはよく聞く言葉だが、万人に当て嵌まらないのが秘密というものでね。特に晩年になって死期が近いと察すると、それこそ『絶対に漏らしてはならない』と念を押した上で近しい人間、あるいは身内の誰かに言い残しておきたくなる人間もいるんだな」
男の言い分はもっとものような気がするし、随分詳しく調べたようだ。
いまさら隠したところでしょうがない。
ケリーは腹を括って訊ねてみることにした。
「じゃあ、秘密を知る立場にあった誰か、あるいはその近しい人間から情報を掴んだってのか?」
「そんなところかな」
男は軽く答える。「ただ、誰から漏れたのかを調べようとしても、徒労に終わると思うよ。あなたが当時の経緯を全て把握しているとは思えないし、第一、放線菌が発見されたのは、半世紀近くも前のことだ。それに、放線菌の存在を封印するにあたって、当時の社長が一人でキンジー博士や大学側と交渉したとは思えない。大学側だってそれは同じだろうから、その時点で放線菌の存在、秘めた可能性を知る者は二人や三人じゃない。もっと多くの人間が知ったはずだからね」
確かにその可能性はある。
これ以上、放線菌を入手した経緯を訊ねても意味がない。
そう判断したケリーは話を戻しにかかった。
「さっき君は、放線菌が入った水が大量に出回っていると言ったが、どういうことなんだ? もっと詳しく教えてもらえるかな」
「飲ませているんだよ」
「飲ませているって……。売っているのか?」
例の謎の治験データが脳裡によぎり、ケリーはデスクの上に身を乗り出した。
「売っているわけじゃないが……でも、金になっているんだから売っているようなもんかな」
ギャグをかましたつもりなのか、男の笑い声が聞こえてきた。
ボイスチェンジャーを使っているせいで、まるでハイエナが吠えているように聞こえ、それがまた不愉快で仕方がない。
それでもケリーは訊ねた。
「薬として?」
「いや、ただの水として……」
「じゃあ、飲んでる方は放線菌が入っていることを――」
「もちろん知らないさ」
男はケリーを遮る。「病を克服できたのは、別の力が働いたからだ。そう思い込んでいるんだよ」
「病が克服できた?」
ついさっき、男は「大量に出回っている」と言った。
しかも、今度は「病が克服できた」と言うのだから、効果の有無を確認する検証は済んでいるということになる。
となると、思い当たるのは、やはりマーケティングマネージャーのアーリントンがクリーブランドの総合病院で偶然目にした症例データだ。
「と言うからには、治験を行ったのだな」
「ほう? 察しがいいな」
意外にも男は否定しなかった。
そこでケリーは重ねて問うた。
「ひょっとして、君は日系人じゃないのか?」
こんな質問が返ってくるとは、予想もしていなかったのだろう。
男は短い沈黙の後、
「どうして、そう思う?」
短く返してきた。
図星を突いたようだ。
こうなれば、隠したところで仕方がない。
「治験データらしきものを入手したんだ。進行した癌や難病が、ことごとく治癒したデータをね。人体にはまだまだ謎が多いのは事実だし、難病から奇跡としか言いようがない回復を遂げる患者がいるのもまた事実。でもね、奇跡と称されるのは万に一つ、いやもっと低い確率でしか起こり得ないからだ。それが短期間のうちに何十も起きたとなれば、それはもはや奇跡とは言えない。何らかの作用が働いた結果、治癒に至ったとしか考えられない」
「それが日系人とどう結びつくんだ?」
「患者の大半が日系の名前だったからさ」
ケリーはいよいよ核心をつくことにした。「しかも、データを持っていたのも日系人の医師だ。ひょっとして、日系人のネットワークのようなものがあって――」
*
エマーソン・ジョシュアが治験データを入手していたとは夢にも思っていなかったが、むしろ好都合だ。
「なるほど医学界と製薬業界は持ちつ持たれつの関係にあるとは聞いていたが、想像以上に深い仲のようだね」
礼央は苦笑を浮かべた。「ただ、日系人のネットワークというのとはちょっと違うね。現に、その治験データとやらには、日系人以外の名前もあったんじゃないのか?」
「確かに……。しかし、今も言ったように、日系人と思しき名前が大半だし、まとまったデータを持っていたのも――」
「じゃあ訊くが、そのデータを持っていた医師は、それらの症例を基に論文を書いたのかね?」
礼央はケリーの言葉を遮り質問を発した。
「そ、それは……」
「奇跡としか言いようがない症例を、何十も手にしたら、論文にしたくなるのが医師、研究者ってもんだろ? 当然じゃないか。公表すれば一躍時の人、学会の注目を一身に集めることになるんだぜ?」
ケリーは言葉を返してこなかった。
答えに窮している様子が、スマホを通して伝わってくる。
礼央は続けた。
「論文にしない理由として考えられるのは、その医師が放線菌の存在を、まだ知らないからじゃないのかな」
「放線菌の存在を知らなくても、奇跡としか言いようがない症例が短期間に続発すれば、患者に投与された薬品、食物、その他諸々、共通点の有無を徹底的に調べるさ。それが医者ってもんだ。そう考えると、まだ放線菌だと、調べがついていないだけでは……」
「そうだな……当たり前に考えればね……」
禅問答のようなやり取りはここまでだ。
礼央は、いよいよ核心に入ることにした。
「教えてやろうか、調べないでいる理由を……」
「君は知っているのか?」
「もちろん……。その医師も、共通点を知っている……」
「それはどんな?」
礼央はひとしきり大声で笑って見せると、
「教えてやってもいいが、ただってわけにはいかないな。それなりの対価を支払ってもらわないことにはね……」
一転、冷徹な口調で言った。
(つづく)