3
広大な森の中に新本殿の威容が見えてきた。
東京からデンバーまでは直行便でおよそ十一時間を要する。
デンバー到着は正午過ぎだったが、入国審査に通関と、所定の手続きに時間を費やした上に、そこから先は車での移動だ。
到着十五分前に運転手が電話を入れたこともあって、新本殿玄関前の車寄せには、支部長を始め北米本部の幹部が整列して花音を出迎えた。
「花音さま、遠路ご苦労様でございます……」
ドアを開けた支部長の片桐泰和が、降り立った花音に丁重に頭を下げる。
彼に続いて一斉に頭を下げる幹部たちを無視して、
「片桐さん、部屋に行きましょ」
花音はそっけなく答え、先頭に立って新本殿の中に入った。
これまで何度も訪れているので、内部の構造は熟知している。
無言のまま支部長室に向かって歩いていく花音に続くのは、片桐一人である。
霊泉の秘密を知る者は、教団の重鎮幹部の中でもごく僅かしかいない。北米本部では片桐のみだ。
支部長室に入り、背後で片桐がドアを閉める気配を察した花音は、立ったまま命じた。
「おおよそのことは聞いたけど、改めて詳しく状況を聞かせて」
想像もしなかった事態に直面したこともあるだろう。教団の勢力拡大の起爆剤となる霊泉を失う可能性が濃厚になった責を負わされるのではないかと恐怖を感じてもいるだろう。
「はっ……」
萎縮して短く漏らすだけの片桐を尻目に、花音はソファーに腰を下ろすと、高く足を組んだ。
「セルフィッシュの死体が発見されたのは、三日前のことでございます」
片桐は立ったまま報告を始める。「倉科さんからは一週間前から休暇を取って、フロリダに行く、その間はセルフィッシュが霊泉の製造作業を一人で行うと聞かされておりました。ところが、倉科さんが休暇に入ってからは、霊泉の製造が完全に止まってしまいまして、ストックが底をつきかけたのです。こんなことは一度もありませんでしたから、セルフィッシュに連絡を取ろうとしたのですが、何度携帯に電話しても留守電になるばかり。そこでセキュリティーを解除して、私がラボに入ったところ――」
「セルフィッシュの死体を発見したってわけね」
花音は先回りした。
「その通りでございます……」
片桐は直立不動の姿勢を取ったまま、声を震わせる。
「いつまでも立ってないで、座ったら?」
花音に促されて、
「はっ……では……」
片桐は正面の席に浅く腰を下ろすと、背筋を伸ばす。
「で、そこから先は?」
その点も既に報告を受けていたが、花音は改めて訊ねた。
「ただちに東京本部、花音さまにご報告を入れました。その際、この件に関しては一切他言無用。死体にも手をつけず、直ちにラボを封鎖せよとご指示を賜りましたので、そのようにいたしました」
「じゃあ、ラボに入ったのは、片桐さんとセキュリティー部門の責任者の二人だけ?」
「いえ、彼は指紋認証システムを緊急解除しただけで、ラボに入ったのは私一人だけでございます」
想定外の事態であったにもかかわらず、この措置は上出来と言わねばなるまい。
霊泉の秘密を知る者は東京本部でも僅か数名しかいない教団の最高機密だ。セキュリティー部門に至っては、地下二階で『何か』が行われているのを承知している程度で、製造施設の存在を知らないからだ。
「では、事件のことを知っているのは、ここではあなた一人だけなのね」
「その通りでございます」
片桐は頷くと話を進める。「その後は、花音さまが手配なさった男たちが現れ、現場の処理が行われました。深夜に五名ほどだったでしょうか、屈強な男たちがやって来て遺体を搬出。同時にラボの清掃作業が行われました。そして終了と同時に指紋認証システムの変更が行われ、地下二階は完全封鎖。以降、誰一人として立ち入ってはおりません」
何もかも東京で受けた報告と寸分違わない。
「分かったわ……」
花音は静かに頷くと、「処理に当たったチームの責任者が待機しているはずだけど会えるのかしら?」
「もちろんです。別室で待機しております」
「ここに呼んでくださらない? 今すぐ……」
「かしこまりました……」
片桐は執務机の上に置かれた電話を手にすると、
「お客さまをここにご案内して」
と短く告げる。
彼が受話器を置いたところで、
「あなたは同席しなくて結構。二人だけで話すから、席を外してちょうだい」
花音の命令に異を唱えられるわけがない。
それどころか咎められることもなく、この場を立ち去ることが許されたことに安堵したようで、片桐は「それでは……」と短く答え、足早に部屋を出ていく。
程なくしてドアが二度ノックされると、五十代そこそこといったところか、白人の男が現れた。身長は百七十センチ台後半。頭髪は赤毛。瞳は緑がかったブルー。ノーネクタイだがダークスーツに身を包んだ外見に、際立った特徴と言えるほどのものはない。要はどこにでもいる中年男性である。
男は落ち着いた足取りで歩み寄ってくると、
「初めまして……」
とだけ言い、手を差し出してくるでもなく、そのまま正面のソファーに腰を下ろす。
「なんとお呼びしたらいいかしら?」
「スコット……。それで十分でしょう……」
花音は無言のまま頷いた。
霊泉の効能を目の当たりにするにつれ、花音は野望を抱くようになっていた。
病からの解放が人類の夢である以上、霊泉を独占的に製造、配布できれば『大和の命』はそう遠からずして世界最大の宗教団体となり、教祖は絶対的権力者として君臨することになると確信したのだ。
それゆえに、一刻も早く世界各地の支部を通じて霊泉を配布し、信者獲得の起爆剤にせんと生産設備の増設、分散化を図ろうとしたのだが、礼央はその申し出を拒んだ。理由は納得できたものの、原液のレシピを握られている以上、霊泉に関しては万事において礼央の意向次第であることがもどかしく思えたのだ。
礼央に覚えた苛立ちが、邪魔な存在だという思いに変わるまでに時間はかからなかった。
霊泉に巡り会えたのは偶然であり、幸運でもあったのだが、教団内においては、花音の功績と評価されている。現教祖の父の後継者として、教団トップの座に就くには十分過ぎる実績だ。しかし、それも霊泉の原液のレシピを入手して初めて盤石になるのだ。
以来花音は、レシピを入手する機会を虎視眈々と狙っていたのだが、それに際しては、万が一にでも不守備に終わった時のことも考えておかなければならない。
なぜならば失敗すれば礼央との関係は崩壊、レシピの入手が不可能になるばかりでなく、霊泉を製造することもできなくなってしまうからだ。
そこで、事前にアメリカ国内で金次第で不法行為を請け負う個人、組織を徹底的に調べ上げたところ、浮かんできたのがレブロン・カシスなる人物だった。
彼は自ら手を下すことはない元締め的存在で、各分野のプロ中のプロを抱えており、クライアントの依頼に最も適した人材で都度チームを構成し派遣するのだという。
セルフィッシュ殺害の一報に接し、直ちに花音はカシスにコンタクトを取った。そこで派遣されてきたのがスコットだったのだ。
「セルフィッシュの処理は問題なく終わったのかしら?」
「我々は、その道のプロですので……」
造作もなく答えるスコットは、やはり只者ではないようだ。
外見こそこれといった特徴はないものの、そう答える彼の瞳にはゾッとするような冷たく、鋭い光が宿っている。
「後で、死体が発見される恐れはないのでしょうね」
「ご心配には及びません。何でしたら、処分の方法を話して差し上げましょうか? 気分を害すると思いますけど?」
国土が広いアメリカには、滅多なことで人が立ち入らない地域が山ほどある。原野、森林、砂漠のど真ん中に埋めただけでも、発見されることはないだろうが、気分を害すると言うからには、常人の想像を超える手段を使ったに違いない。
「そこまでおっしゃるのなら信じることにするわ」
花音はスコットの申し出を断ると、最大の関心事に話題を転じた。「ところで、倉科礼央が使っていたパソコンや、彼が残したドキュメンツから、何か分かったことはある?」
「ラボにはパソコンは見当たりませんでしたね。おそらく、彼が持ち去ったんでしょう。ドキュメンツはそれなりに残されてはいましたけど、作業日誌や製造量の記録といったものばかりで、特に目を引くようなものはありませんでした」
「データとかレシピのようなものは、一切なかったと?」
「レブロンからは、それらしきものがあれば、微生物か分子生物学の分野の専門知識が必要になるだろうから、その方面の人間に解析させろと事前に指示を受けておりました。もちろん、それが何を意味するものなのかは詮索してはならないときつく言われましたけどね。ですが、そんな心配は無用でした。一応、専門家に見せてはみましたけど、彼らも拍子抜け……というか、簡単、かつ短時間の仕事で高額の報酬をもらえたことを喜んでいましたよ」
「サンプルのような液体とかは?」
スコットは肩を竦め、わずかに両手を広げる。
「試験管やフラスコ、ビーカーといった器具が残されていましたが、全て空でした。それでも、何か手がかりになるものが残されているかと思いまして、専門家に分析をさせたのですが、何らかの薬品を使って洗浄した上に、流水で洗い流したようで、何も検出されませんでした」
「人を殺した直後なのに、入念に洗浄したってわけ? よく冷静でいられたものね」
咄嗟に口にしてしまったのだが、そんな花音を嘲笑うかのようにスコットは言う。
「あの部屋に入れるのは二人だけだと聞きました。入退室の経路も人目に触れないように配慮されていますからね。それに、犯行後の犯罪者の行動は当人の心理状態や状況によって異なりますので……」
「理屈としては分かるけど、倉科は犯罪とは全く無縁の人間のはず。知性も高いし――」
「知性が高い人間は、得てして判断能力に優れているものですからね」
スコットは、花音の言葉が終わらぬうちに返してくる。「時間に余裕があれば証拠の隠滅を図るでしょうし、重要な資料、データを持ち出そうともするでしょう。今回の場合は倉科がセルフィッシュを殺害したのは明らかなんですから、犯行の隠蔽を図っても意味がありません。となると、真っ先に取り掛かるのは重要物の確保。今回の場合は、あなたが言う、データでありサンプルだったんでしょうね」
スコットの見解は頷けるものばかりで、異論を挟む余地はない。
(つづく)