第5章
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エマーソン・ジョシュアの社長室は、十五階建てのビルの最上階にある。
社長を務めるジョン・ケリーの朝は早い。
出社は午前六時半と決まっていて、到着すると直ちに報告書や決済書類を片付けにかかる。日中は会議や来客が目白押しで、分刻みのスケジュールが組まれることも珍しくないし、昼食は大抵ビジネスランチとなるから、邪魔が入らない早朝しか書類仕事に取り組む時間が取れないのだ。
突然、デスクの上のインターフォンから、「リズバーガー博士がお見えになりました」と秘書の声が流れてきた。
書類から目を上げ、傍に置いた卓上時計に目をやると、時刻は午前九時半。約束通りの来訪である。
ケリーが「通してくれ」と告げると、「十時から、役員会議の予定が入っております。三十分で終わらせてください」
秘書が念を押してきた。
答える間も無くドアが開くと、研究開発部門を統括するミッシェル・リズバーガー博士が姿を見せた。
「グッドモーニング、ドク」
ケリーは椅子から立ち上がりながら、声をかけた。
しかし、リズバーガーは応じる素振りも見せず、緊張した面持ちで歩み寄ってくる。
研究者には社交下手な人間が少なからずいるものだが、多額の資金を常に必要とする研究開発部門で相応の地位に就くには、実績、実力もさることながら、交渉力、政治力が必要不可欠だ。
リズバーガーが今の地位にあるのも、全ての条件を満たしていたことの証であるのだが、挨拶に応じる気配がないところからしても、尋常ならざる事態が勃発したに違いない。
リズバーガーは、一言も発することなくデスクの前に置かれた椅子に腰を下ろすと、携えていたファイルを差し出してきた。
「これは?」
ケリーが訊ねると、
「三ヶ月前に、クリーブランド地区を担当しているマーケティングマネージャーのアーリントンが偶然入手したデータです」
リズバーガーは短く答える。
「データ?」
ケリーはファイルを開き、最初のページに目をやった。
左右に並ぶMRI画像は肺癌患者のものだ。一方はかなり進行していて、おそらくステージ3から4の間で末期に近いといっていいだろう。もう一方は癌はまだ小さく、ごく初期の状態を示している。
「肺癌の進行度合いを比較したものだろ? これが何か?」
当然の見解を口にしたつもりだったのだが、
「進行度合いではありません。逆なんです。癌の病変部が縮小しているのを示しているんです」
リズバーガーに指摘され、ケリーは改めてドキュメンツに目をやった。
画像の下には撮影した日付が記してあり、両者の間には三ヶ月ほどのタイムラグがある。
「三ヶ月? たった三ヶ月で、末期に入ろうかという癌が、ここまで小さくなったのかね?」
「信じがたいことですが、そのようなのです……」
リズバーガーは硬い眼差しのままケリーを見詰める。
「いったいどんな治療を施したら、こんなことが起きるんだ。抗癌剤の効果は、病巣を四分の一程度に縮小するのがせいぜいじゃないか。放射線だって、ここまで劇的な効果はまず望めない。もちろん、奇跡的な回復を遂げることがないとは言えないが、そんなことは、まず――」
「起こり得ない」と続けようとしたのを遮って、リズバーガーは言う。
「このファイルには三十ほどの症例記録がありますが、劇的、いや奇跡的としか言いようがない改善例ばかりでして、中には癌が消滅したものまであるのです」
「三十?」
「このデータを入手したアーリントンが言うには、他にも同数程度の症例記録があったそうで――」
「あったって、どこに?」
「クリーブランドの総合病院に勤務している一般外科医・マイク・川添医師のところにです」
「そのマイク・川添とは、どんな医師なんだ?」
「我が社が重点支援に位置づけている医師です。研究医としても優秀だし、腕も立つので、研究費等々、かねてより手厚く支援しておりまして、三ヶ月ほど前にロンドンの学会に出席することになったので、アーリントンが打ち合わせに出向いたのです。その際に、デスクの上にこのデータが置かれているのを目にして、スマホで撮影したそうです」
「その川添という医師が、どうしてこんなデータを?」
「そこです……」
リズバーガーは「グッド・ポイント」とでも言うように、顔の前に人差し指を突き立てる。「幸い、これらのデータには、患者が治療を受けていた病院と医師名が記載してあったので、各病院を担当しているMRに、当該症例について調べさせたのです」
MRは医師や薬剤師に医療品情報を提供する営業職のことで、エマーソン・ジョシュアは規模の大小にかかわらずほぼ全米の医療機関をカバーしている。
「いずれの患者を担当していた医師も、ここにある症例についてはよく覚えていましてね。なにしろ、滅多にお目にかかれない奇跡としか言いようのない症例ですから……」
リズバーガーはそう前置きすると、話を続ける。
「大半はベテランでしたので、長く医者をやっていれば説明がつかない回復を遂げる患者に出くわすこともあると言っていたそうです。同じような症例に相次いで直面すれば、何が起きているんだと調べる気にもなるでしょうが、ここにあるデータは全て異なる病院のものですので」
「全て違う?」
問い返したケリーに、リズバーガーは頷くと、
「病院の所在地もてんでバラバラ、それこそ全米各地に散らばっているんです。つまり、誰かがデータを集めなければ、奇跡としか言いようがない症例が頻発していることに気づかないってことです」
「じゃあ、その川添という医師が集めたのかね? だったら彼は――」
奇跡が頻発していることをどうやって知ったんだ? いや、奇跡が起きる。起きる可能性があるのを事前に知っていなければ、データを集めることなんかできないじゃないか、と続けようとしたのだが、それを遮って、
「いや、集めたのは彼ではありませんね。他の誰かでしょう」
リズバーガーは断言する。
「だったら、その誰かは奇跡が起きる、あるいは起きる可能性があることを事前に知っていたということになるよな」
ケリーが、今し方遮られた言葉を改めて口にすると、リズバーガーは間髪を容れず答える。
「これは、明確な意図があって集めたデータ。それも治験データではないかと思うのです」
「治験? それにしては症例が少なすぎやしないか? たった三十やそこら、他にも同数程度あったとしても六十やそこらじゃないか。それに、いくらなんでも、これほど進行した癌を劇的に縮小させる新薬が開発されたら、治験以前に研究段階で特許申請がなされ、我々の知るところになるはずなのに、そんな話は耳にしたことはないぞ」
「治験のデータなのかは分かりません。そのように思えると申し上げているだけです。実際、治験を行うに当たってはFDAの承認が必要ですから、念のためにそちらの方にも当たってみたのですが、それらしき申請がなされた記録はありませんでした」
「それじゃ自然に改善、治癒したと? 一つや二つではなく、六十人からの患者が? そんなことあるわけないだろう」
「おっしゃる通りです……」
リズバーガーはすかさず同意すると、「もう一つ理解できないのは、社長はトップページにある肺癌の症例しか見ておられませんが、この中には他にも慢性化した異なる病の改善例の記録があるのです。もしこれが新薬の治験結果なら、単一の薬剤が全く関連性がない多くの病に絶大な効果を発揮する、つまり万能薬が開発されつつあることになるんですが、そんなものが開発できるとは思えませんのでね……」
困惑するかのように、語尾を濁す。
「じゃあ、いったいこの症例は何を目的として集められたものなのだろう……」
「実は、これらの症例には症状が劇的に改善に向かっていること以外に、もう一つ共通点がありまして……」
リズバーガーの眼差しが鋭くなる。
「それは、どんな?」
訊ねたケリーに、
「全員ではありませんが、大半がどうも日系人のようなのです……」
誰かに聞かれるはずもないのに、リズバーガーは身を乗り出して声を低くする。
「日系人?」
「部下の日系人が気がついたのです。患者の苗字の大半が、日本のものだと……。言われてみれば、川添も日系人ですからね」
ケリーは無意識のうちに頭髪を掻き上げ、背凭れに上体を預けた。
(つづく)