最初から読む

 

 胸騒ぎを覚えながら、エレベーターを降りた。
 工場内に人の気配はない。もちろん機材も稼働してはいないから、空間は静寂に包まれている。リノリウムの床とスニーカーのゴム底が擦れ合う軽やかな音を聞きながら、礼央は歩を進めた。
 やがて製造機械の奥にあるラボの窓越しに室内に人の後ろ姿があるのが目に入った。
 瞬間、礼央は凍りついた。
 セルフィッシュである。
 ラボにもまた、指紋認証によるセキュリティーシステムが設けられている。こちらの登録者は礼央一人のみで、セルフィッシュは入室できないはずなのだ。
 なのに、なぜ彼がいるのか……。
 礼央は動揺した。そしてセキュリティーシステムを設置するにあたっての、花音との会話を思い出した。
「僕にとってラボは聖域なんだ。指紋認証以上のより高いレベルのセキュリティーを設置したいんだけど」
 礼央の申し出に、あっさり同意するかと思いきや、
「高いレベルのセキュリティーって?」
 花音は、眉間に浅い皺を刻みながら問い返してきた。
「虹彩認証システムならば安心できるね」
「安心できる?」
 花音は不愉快そうに言う。「あのさ、エレベーターは指紋認証。それもここで作業に従事する二人以外の指紋しか登録しないのよ。ってことは、パートナーになる人間すらも信用できないってわけ? それって、ひいては私たち教団も信用できないって言ってるのも同然じゃない。いったい何を警戒しているの?」
 そう言われると、言葉に詰まる。
 セキュリティーシステムを設ける目的は、アクセスを許可された者以外の侵入を防ぐため。このラボの場合、礼央が所持している霊泉のレシピの秘密を守るのが目的だ。製造工場の存在ですら教団内で知る者は花音を始めとするごく僅かの最高幹部に限られているのに、彼らですら信用できないと言っているように捉えられても仕方がないからだ。
 実際、礼央の本音はそこにある。
 霊泉の効能が知れ渡るにつれ、信者の数は増加の一途を辿る一方だ。それは、教団に莫大な収益をもたらすことになっただけではない。数は力であり、力は金である。教団が世の中に多大な影響力を持つ組織になる道を切り開いたのだ。
 その力の根源が霊泉となれば、野心を抱く人間が現れても不思議ではない。
「効能も含めて、霊泉が秘めている可能性には、まだ解明できていない部分が多々あってね……」
 礼央は冷静な声で返した。「キンジー博士は、アマゾンの原住民の健康状態が良好に保たれているのは毎日飲用していた放線菌入りの水ではないかと推察した。実際帰国後、放線菌入りの水を飲み始めた夫人は難病を克服できたし、その後の健康状態も極めて良好だった。つまり霊泉には、治療薬以前に未病薬として使える可能性もあるんだ」
「それが高度なセキュリティーを設置する必要性とどう関係するの?」
「分からないかな?」
 礼央は花音の視線を捉え、片眉を吊り上げた。「無病息災は万人の夢だ。霊泉を常飲すれば健康でいられる。病の恐怖から解放されるなんてことになれば、どんなことが起きると思う?」
「霊泉を入手するためには、『大和の命』に入信しなければならないんだもの――」
「そうじゃないよ!」
 礼央は花音の言葉を遮った。「僕が言いたいのはね、信者が増え続ければ、やがて『大和の命』は世界最大の宗教団体になり得る可能性がなきにしもあらずってことなんだ」
「それの何が悪いの? たとえ入信するのが霊泉を手に入れるためだとしても、信者でい続けなければならないのよ。それで信者は健康を手に入れ、病から解放される。教団は教えを広められるんだもの、いいことずくめじゃない」
「そんな、呑気に構えていいのかな?」
 礼央は思わず鼻を鳴らした。「『大和の命』が巨大宗教団体となれば、教団には莫大な資金が集まるだろうさ。だけどね、それだけじゃない。民主主義社会において数は力だ。つまり、教団は絶大な権力を手にするってことになるんだよ。それもアメリカだけじゃない。国家という枠を超えた権力をね……」
「国家の枠を超えて教団の教えの下に人々が集えば、世界国家が誕生するかもしれないって言いたいの?」
 大袈裟すぎると言わんばかりに、花音は口元に皮肉な笑いを宿し、胡乱げな眼差しを向けてくる。
「そりゃあ、いくつかの宗教の信者は絶対に転向したりはしないだろうけどさ。でもね、論より証拠だ。飲めば健康になる。健康が保てることを実感すれば、宗旨替えをする人間が続出ってことになっても不思議じゃないさ。となればだ……」
「何が起きるというの? 何を心配しているの?」
「権力に魅せられ、霊泉を一手に握ろうと試みる人間が必ず出てくるってことさ」
 礼央は断言した。
「教団内で謀反を起こす人間が出てくるって言いたいわけ?」
「不思議じゃないだろ? むしろ、出てくるのが当然だと思うけど?」
「こと『大和の命』においては、そんな事は起こり得ないと思うけどなあ……」
 花音はフッと笑い、薄く目を閉じる。「だって教団トップは代々教祖の血を引く者が継ぐのが不文律なのよ。もし、そんな行動に出る人間がいるとしたら……」
「いるとしたら?」
「私かな」
 花音は口元から白い歯を覗かせるのだったが、その目は笑ってはいない。
「冗談よ。冗談」
 即座に否定した花音は続ける。
「でもね、私が礼央さんを裏切ることなんか絶対にないから。これでも宗教家の端くれですからね。人を裏切ること、信頼を損ねるような行為は、『大和の命』の教えでは、断じてしてはならないことなの。教義に背くってことは、教団を自ら否定するってことになるんだもの、信者様が許しはしないわよ」
 花音は断固とした口調で言い放ったのだった。
 そんな経緯があって、ラボのセキュリティーは指紋認証によるものとなり、登録者は礼央一人になったのだが、いま中にいるのは、長く助手を務めてきたセルフィッシュである。
 目的は訊ねるまでもない。霊泉の原液のレシピを入手しようとしているのだ。
 ラボはコンクリートブロックの壁と分厚いガラスで隔絶された完全な個室になっている。防音も完璧だから、普通に歩いても足音が聞こえるはずはないのだが、それでも礼央は忍び足で近づいた。
 セルフィッシュは、デスクの上に置いてある日々の作業記録や各種データがインプットされているパソコンを操作しているらしく、窓に背を向けていることもあって礼央が忍び寄る気配に気づく様子がない。
 ドアに辿り着いた礼央は、壁面に設置されている指紋認証装置に指を押し当てた。
 ロックが解除されるモーター音が聞こえた。
 その瞬間、セルフィッシュは飛び上がらんばかりの勢いで椅子から立ち上がる。振り向いた彼と視線が合った。
 どうしてあんたが?
 顔面が蒼白になっているのは、室内を煌々と照らす蛍光灯の光のせいばかりではない。目を丸くして凍りつく、彼の顔には驚愕と焦りの色が浮かんでいる。
 しかしそれも一瞬のことで、こちらに向き直ったセルフィッシュは凄まじい形相で睨みつけてきた。
 そこに普段忠実な部下、いや相棒として振る舞ってきたセルフィッシュを窺わせるものは微塵もなかった。
 暗く、冷たく沈む瞳。それでいて眼光は鋭く、暴力的とさえ思えるほどの力に満ちている。
 彼が働いているのは紛れもない裏切行為で、現場を目撃されたとなれば狼狽して当然なのに、仁王立ちになって微動だにしないでいるのだから、太々しいことこの上ない。
 礼央は、負けじと睨みつけた。
 怒りと共に、体の中に長く覚えることがなかった冷たく、そして熱い、相反する感情が込み上げてくるのを感じた。
 セルフィッシュは軽く肩を竦めると、薄ら笑いを浮かべる。
 開いたままのドアを片手で押さえ、
「これはどういうことかな……。何をやってる……」
 礼央は押し殺した声で訊ねた。
 セルフィッシュは両眉を吊り上げ、再び肩を竦めると、
「霊泉の秘密が知りたくて、原液のレシピのデータにアクセスしようとしてたんです」
 悪びれる様子もなく答える。
「私の許可を得もせずに?」
「リクエストしたら、許可してくれました?」
「決まってるじゃないか。答えはノーだ」
 礼央は断固とした口調で返しながら、ゆっくりと首を振った。
「でしょうね。だから強硬手段に出たんです」
 デスクの上には、開かれたままのノートパソコンがあり、その隣に見慣れぬ棒状の樹脂が無造作に置かれてあった。
 それが何かは訊ねるまでもない。
 普段使用しているマグカップ、あるいは機材等々、礼央が触れた物から指紋は簡単に採取できる。その指紋データを3Dプリンターを使って樹脂の上に再現したのだ。
 礼央は顎で指しながら訊ねた。
「そいつを使ってセキュリティーを解除したってわけか……」
 無言のまま、軽く首を傾げて肯定するセルフィッシュに、礼央は続けて問うた。
「入念に準備したようだな。以前から私が長く研究室を空ける機会を狙っていたわけか……」
「教団にとって、今や霊泉は生命線。将来の全てが、これにかかっている唯一無二のキラーツールですからね。あんたに万一のことがあったら、教団経営はたちまち立ち行かなくなるんだもの、リスク回避の観点からも、レシピは教団と共有しておくべきだ」
「万が一のこと?」
「明日、明後日、いや数秒後でさえ、どんな運命が待ち受けているかなんて、誰にも分かりませんからね。実際、不慮の死に見舞われる人は、毎年一定の確率で発生するじゃないですか。水難事故、山岳遭難、殺人、交通事故死にしたって、年間の死亡者数は不思議なほど増減しませんからね。負傷者数となれば数知れず。中には再起不能で寝たきりになってしまう人だっています。あんたがその中の一人にならないとは限らないじゃないですか」
 その点は、セルフィッシュの言う通りかも知れない。

 

(つづく)