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「OK、礼央……、ちょっと休もうか」
 ニューハンプシャー州ハノーバーで道場を経営しているチャック・テーラーが構えを解くと、肩で息をしながら礼央を制した。
 大学の学部時代に四年間通い続けた道場は、今も当時の面影が色濃く残っている。
 かつてSEALsの隊員だったテーラーは、多くの格闘技に通じている。本人は明確には語らないものの、実戦に参加した経験があるようだった。それも一度や二度ではない、もっと多くだ。
 道場の壁に取り付けられた、強化ガラス製のケースの中に、大小様々な種類の模造ナイフやトンファーエッジ、ブラックジャックといった武器が整然と並んでいるのも現役時代の名残だろう。
 実際、空手道場と名乗ってはいるものの、生徒が望めばもっと実戦的な技、つまり相手に大きなダメージを与え、無力化する技も教授する。もちろん武器の使い方を含めてだ。
 礼央はその一人で、四年の間にケースの中に陳列された武器の使い方はもちろん、彼が身につけた格闘技術の大半を叩き込まれた。
「長いブランクがあったので、やっぱり体が思うように動きませんね」
 礼央は、額に滲み出た汗を胴着の裾で拭いながら深く息を吐き、呼吸を整えた。
「正直言ってスピード、技のキレも、ここに通っていた頃とは雲泥の差だね。ハノーバーを離れてからは、稽古していなかったのか?」
「カリフォルニアに移ってからは二年ちょっと、地元の空手道場に通いましたけど、チャックほど腕が立つ師範ではなかったのでね。本気でやったら、僕の方が強かったと思いますよ」
 礼央が正直な感想を述べると、
「だろうな」
 果たしてテーラーは真顔で言う。「私も多くの弟子を持ったけど、技の飲み込みも上達ぶりも、君は群を抜いて早かったからね。そんじょそこらの道場主じゃ、君に太刀打ちできないよ。SEALs出身の僕が言うんだから間違いないね」
 そこで一旦会話を終わらせたテーラーは、道場の片隅に置いてあるクーラーボックスに歩み寄り、中からスポーツドリンクを二本取り出した。
「飲むかね?」
「ええ……」
 テーラーは、ドリンクを礼央にポンと投げ渡す。
 それを受け取った礼央に、テーラーは訊ねてきた。
「しかし、驚いたな。長いこと音信不通だった君が、突然現れて稽古をつけてくれと言い出すんだもの。ハノーバーに来たのは、ダートマスに何か用事でも?」
「研究者の道は、だいぶ前に断念しましてね……。実は、チャックにお願いがあって来たんです」
「お願い? 私に?」
「暫くここに置いて欲しいんです」
「それは構わんが……」
 テーラーは訝しげな眼差しで礼央を見る。
「道場の片隅でも構いません。寝袋で寝ますので……。もちろんタダでとは言いません。金は払います」
「払えるだけの金を持っているなら、ホテルもあればモーテルだってあるじゃないか。いったいどうしたんだ? 理由がありそうだけど、話せるものなら聞かせてくれないか」
 テーラーがそう思うのも無理はないし、教団は霊泉のレシピ入手を絶対に諦めたりはしない。今後の出方次第では、テーラーに迷惑がかかる可能性だってある。全てとはいかないまでも、ある程度のことは話しておかねばなるまい。
「実は、トラブルが起きまして……。暫く身を隠さなければならなくなったのです」
「トラブルとは?」
「日本の宗教団体とトラブルになってしまったのです……」
 礼央はそれから経緯の説明に入ったのだったが、霊泉を新薬と置き換え、開発研究に専念していたと言い、セルフィッシュ殺害については、新薬のレシピを手に入れようと突然襲ってきた助手に重傷を負わせてしまったことにした。
「つまり、教団が君を裏切ったと解釈していいのかな?」
「ええ……」
「開発者を殺害してでも手に入れたいのなら、よほど画期的な薬の開発を行っていたんだね」
「難病……例えば癌の進行を妨げる効果が期待できる薬です。とは言え、まだ治験を行っていませんので、あくまでも可能性が見えてきたという段階ですが……」
 もちろん嘘である。
 しかし、テーラーは真に受けたと見えて、真剣な眼差しで問うてきた。
「癌の進行を妨げるものねえ……。それなら既存の抗癌剤と変わらんように聞こえるが?」
「一番の特長は、副作用を極めて小さく抑える可能性があることです。そもそも、この薬を開発するきっかけとなったのは、修士課程を終えた直後、亡くなった名誉教授の資料を整理していた際に、彼が残した研究ノートを私が目にしたことにありましてね。それがひょんなことから、教団が知ることになって、研究施設と資金を提供してもらうことになったんです」
「新薬の開発と宗教団体がどう結びつくのかな? 宗教団体が製薬業に乗り出すとでも?」
「開発に成功すれば、信者獲得の起爆剤になると考えたんです」
 礼央は正直に答えた。「状態によっては、癌も外科的治療で根治できる病になりましたけど、どこに潜んでいるか分からないのが癌細胞です。手術で摘出するにしたって、まず抗癌剤で癌細胞を叩いて縮小させてから。手術不可能なら放射線治療などの選択肢はあるものの、いずれにしても抗癌剤との併用になるんです。個人差はあるものの、抗癌剤の副作用に苦しむ人が多いのは事実ですから、開発に成功した後、密かに信者に服用させれば――」
「それ、薬だろ? 当局の承認を得てもいない薬を、人に飲ませたら――」
 言葉途中で話し始めたテーラーを、今度は礼央が遮った。
「キリスト教だって礼拝の時に聖体を飲ませるじゃないですか。儀式の一環として飲ませたら、誰も薬だなんて気がつきませんよ」
「なるほどなあ……」
 テーラーは感心した様子で唸る。「信者になって、熱心に祈りを捧げたら、あら不思議、癌の進行が止まった。信仰する神の恩恵と思いこそすれ、まさか薬の効果だとは想像だにしないってわけか」
「彼らは早期のうちに薬の開発を終わらせたいと焦ったんでしょうね。そのためには、金に糸目をつけず優れた研究者を掻き集めるに限る。要は、人と金を増やせば開発に加速度がつくと考えたんです。なんせ、開発は私と助手の二人で行っていましたので……」
「そして、レシピを握っているのは君だけというわけか……」
「その通りです……」
 テーラーは暫し思案を巡らすように沈黙すると、
「なるほど、それなら君を殺害してでも、レシピを入手しようとするだろうな……」
 自らを納得させるように呟く。
 そして改めて視線を向けてくると、
「そんな事情があるのなら、教団が君を放っておくわけがないよな。おそらく、今頃は必死で君の行方を追っているはずだが、どうやってここに来た?」
 緊張感の籠った声で問うてきた。
「車です。デンバーから……」
「デンバー? そりゃまた、えらく遠方から来たもんだな」
「襲撃に遭ったのが、デンバーにある研究施設だったんです。腕が鈍ったとはいえ、ここで教わった格闘技術がものをいいましてね。格闘技の心得があることは誰にも言っていませんでしたから、簡単に倒せると高を括っていたんでしょう。あっと言う間に返り討ちにしてやりました」
 薄く笑って見せた礼央だったが、テーラーの眼差しに変化はない。
「飛行機を使わなかったのは正しい選択だが、車は君が所有しているやつか?」
「途中で乗り替えました」
 テーラーの質問には意味がある。
 礼央が所有している車を使い続けているのなら、追跡が容易いからだ。飛行機ならば乗客名簿、レンタカーならクレジットカードの使用履歴、いずれも第三者が簡単に入手できるものではないが、ここは犯罪大国アメリカだ。殺しを請け負うプロもいるのだから、追跡程度のことは私立探偵でも易々とやってのけるだろう。
「どうやって?」
「売りに出ていた車を買ったんです。『SALE』と書いたプレートが掲げられているやつをね。道中、三度ほど……」
 テーラーは納得がいった様子で薄く笑う。
 アメリカでは『SALE』と書かれたプレートを貼り付けた車を、家の軒先や走行中に頻繁に見かける。ご丁寧に大抵は電話番号が記されているから、代わりの車はすぐに手に入れられるのだ。
「キャッシュで?」
「もちろんです」
「金持ちになったもんだな。売値は分からんが、何千ドルかはしただろうに」
 連絡が取れさえすれば、そこから先は価格交渉のみだが、言い値で買うと言えば断るはずがないし、名義を変更しなくとも盗難届が出ているわけじゃなし、万一警察に止められても「買った」と言えばそれまでだ。
「最初の車は?」
「廃車にしました。どこだったかは忘れましたけど、道中で見つけたスクラップ工場に持ち込んだんです。まだ使えるのに勿体ないと言われましたけど、金を握らせたらすんなり応じてくれました。潰されるのも確認しましたから、車は私の居場所を掴む手掛かりにはなりません。二台目、三台目も同じです。念には念を入れるのに越したことはありませんから……」
「なかなかどうしてやるじゃないか」
 テーラーはニヤリと笑う。「逃亡の痕跡を消すのは簡単ではないが、素人にしては上出来だ。そこまでやったなら、君の居場所を突き止めるのは簡単ではないが……」
 笑みを消し、そこで言葉を呑んだテーラに、
「簡単ではないが……どうしたんです?」
 礼央は先を促した。
「その教団とやらは、君の履歴をどこまで知っているんだ?」
「学歴は完全に把握されていますね。家族関係も……」
「じゃあ、ダートマスで学んだことは知っているわけだ」
「もちろん……」
「だったら、私を頼ってきたのは間違いだったかもな。あえて逃亡者という言葉を使うけど、追手から逃れようとする者の行動には二つのパターンがある。一つは地縁知己が全くない逃亡者自身、初めての土地で身を潜めるのと、もう一つは信頼できる人間、つまり知己を頼ることだ。格闘技の心得があるのは知られていないようだから、すぐに私と結びつくとは考えられんが、それでも地縁のある場所を真っ先に捜しにかかるだろう」
 テーラーの見解には圧倒的説得力があった。

 

(つづく)