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「そうそう、もう一つ理由があったわ」
 花音は歌うように言い、続けて第三の理由を話し始める。
「これは、もし何らかの問題が生じた時のコンテンジェンシー・プランでもあるんだけど、信者様に新神殿で採取した水を『霊泉』と命名してお分けしようと考えてるの」
 コンテンジェンシー・プランとは、想定外の事態に直面した時に備え、事前に代替案を講じておくことを言う。事業計画や大規模なプロジェクト、多額の費用を要する研究を行う際には、事前に立案しておくべきものには違いないが、話の流れからして「お分けする」とは「売る」、いや「売りつける」つもりなのだろう。
「万が一の時には、生産設備を、水そのものを売るビジネスに転用するわけか」
「コロラドの清らかな大地に立つ、壮大な新神殿で採取された水。神の恵みにあやかった水ですからね。信者様は喜んで買ってくださるわ。まあ、そんなことにはならないとは思うけどね」
 確かに、その点は花音の言う通りではある。
 母の病状が好転したのは、放線菌の効能としか考えられない。
 しかしだ。
「工場がコロラドで、僕がアメリカ側で総指揮を執るとなると、ロスを離れなければならないよね? 博士課程の学生が授業に出る必要はほとんどないけど、大学を休学しなければならなくなるけど?」
 そのつもりではあるのだが、一言の相談もなく決定事項であるかのように言われてしまうと、さすがに面白くない。
 ところが花音は、
「礼央さんは博士号を修めたら、どういう道に進むつもりなの? 大学教授? どこかの企業の研究員? それとも……」
 そこで一瞬、言い淀むと、「他に、何かあったっけ……」思いつかないとばかりに、小首を傾げる。
「博士論文の評価次第だね。高く評価されれば大学に残れるかもしれないし、他の大学から声がかかる可能性もあるからね」
「評価が低ければ?」
「そりゃあ、職を見つけるしかないね。それこそ研究員として雇ってくれるところをさ」
「企業の研究員だって、ただ研究していればいいってわけじゃないと思うけど?」
 鋭い指摘である。
「えっ?」
 思わず声を上げてしまった礼央に向かって花音は言う。
「だって、研究にはお金がかかるんでしょう? お金を出す限りは成果を求められるんじゃないの? よく、研究者って金の卵を生む鶏に喩えられるけど、卵を生まなかったらただの穀潰し。処分されてしまうんじゃないの?」
「なっ……」
 確かにその通りなのだが、こうもはっきり言われてしまうと、返す言葉が見つからない。
 花音は間髪を容れず続ける。
「それに、企業は組織で動くのよ。研究テーマだって好きに選べるわけじゃないし、上司や部下との折り合いって問題もあるでしょう。会社の事業方針が変われば、手掛けていた研究が突然キャンセルってこともあるんじゃないの?」
 これもまた図星である。
 大学院を出ているとはいえ、同年代の花音が、なぜ研究者の実態をこれほど詳しく知っているのか、不思議に思えてきて、礼央は反射的に訊ねた。
「花音さん、なんでそんなに詳しいの?」
「あら、こんなの常識じゃない」
 常識って……。
 返す言葉がない。
 そんな礼央に向かって花音は言う。
「だって、企業に所属するってことは、サラリーマンになるってことだもの。アカデミズムの場でもそれは同じで、教授になろうと思えば、一生懸命研究して、論文をたくさん書いて、教授、つまり上司から高い評価を得なけりゃならないのでしょう? 一流大学なら尚更だし、礼央さんさっき、他の大学から声がかかるかもしれないって言ったけど、教授になれるならどこでもいいの? 研究費も満足に出ないような大学の教授って、ただの教員じゃない」
 追い討ちをかけるように、身も蓋もない言葉を発するのだったが、これもまたその通りには違いない。
「確かに……」
 肯定する言葉を聞いて、花音の言葉に熱が入る。
「だったら、せっかくこれほど素晴らしい効能を発揮する放線菌を手に入れたんだもの。世に送り出して、難病に苦しむ人々を病から解放してあげたらどうなの? だって、そうじゃない。どんな病気にも効く放線菌を偶然手に入れた。しかもその存在を誰にも知られていないなんて、奇跡としかいいようがないじゃない。それこそ神様のお導き……。そう、神様が礼央さんに使命を与えたとしか、私には思えないんだけど」
 宗教はビジネスだと断言し、神の存在を信じていないとしか思えない言葉を平然と口にした花音が、『神様のお導き』、『神様が与えた使命』とは、なんとも虫が良すぎやしないかと思わないでもない。
 しかし、その一方で花音の提案に、礼央は心が揺らぎ始めているのを感じていた。
 そもそも、微生物学者を志したのは、ボーディングスクールの科学の授業で、顕微鏡の中の微生物の美しさに魅せられたからだが、実際に学究の徒の卵として研究を重ねてみると、未知のものが発見される可能性は皆無に等しい。
 それも当然のことで、微生物学者は世界中にいて、数多の先達が血眼になってきたからである。だから、日頃の研究は、既知の微生物が秘めている可能性を探ることに終始するのだが、新発見など滅多にあるものではない。
 こうして考えると、指導教授のウイリアムズからキンジーの研究室を整理することを依頼され、偶然あのファイルを目にすることになったのも、エレンが存命で放線菌に入った水を所持していたことも、そして時を同じくして母が膵臓癌に罹り『大和の命』に救いを求めたことも、そこで花音に出会ったことも、偶然ではなく必然だったように思えてきたのだ。
「花音さんが言う通り、偶然にしちゃ出来過ぎだよね……。偶然も、ここまで重なるのは奇跡だもの……」
 礼央が漏らしたその言葉を、花音は聞き逃さなかった。
「だから、不思議な力が礼央さんを導いているのよ。人類の救世主になれと命じているのよ」
 人類の救世主……。
 大袈裟に過ぎるようにも思えたのだが、母の病状の改善ぶりを目の当たりにした今、そうとも言えないような気もする。それに、この放線菌が秘めている可能性は、ほとんど解明されていないと言っていい。自分も含め、この水を常飲した人間に害らしきものの症状は一切表れなかったのだから、信者に飲ませても安全なはずだ。信者の中にはさまざまな持病を抱えている者もいれば、母同様に不治の病を患っている者もいるであろう。もし、水を飲ませたことで病が改善されれば、それこそ世紀の大発見。医療、医薬品業界に大革命をもたらすことになる。
 礼央の心は決まった。
「分かった。やるよ……。いや、やらせてもらうよ」
「そう、やってくださるのね」
 花音は、喜びも露わに胸の前で手を合わせる。
「信者さんに飲ませれば、治験になるし……」
「治験?」
「どんな病に、どの程度の効果があるのか、まずはこの放線菌が秘めている可能性を把握しないとね。製薬会社が行う治験は、治験薬とプラセボ薬を飲ませた群を比較して、効果のほどを検証するから多額の費用が発生するけど、僕らが飲んで害はなかったんだから、少なくとも安全性は担保されていると考えていい。信者さんに飲ませて、効果の有無、度合いを確認するだけなら費用は発生しないし、製薬会社が行う治験を遥かに上回るデータが取れるというメリットもあるからね」
 花音に異論などあろうはずもない。
 その日からひと月も経たないうちに、礼央は大学を去った。
 そして、デンバーから一時間ほどのところにある街、ラブランドにアパートを借り、そこを拠点に用地の選定に取り掛かった。
 幸いなことに、用地はすぐに見つかった。
 ラブランドからほど近い小さな村。といっても住人はごく僅か。村の大半の土地はかつて世界的フィルムメーカーだった企業が所有するもので、その広さたるやまさに見渡す限り。いや、目視できる範囲を遥かに超える広大なものだった。
 なのに、かつて工場だった煉瓦造りの巨大な建物とオフィス棟があるだけで、他に人工物は隣接するゴルフ場のみ。こうなると、所有者は何故これほど広大な土地を購入したのか疑問が湧く。
 興味を覚えた礼央が、仲介役の不動産業者に訊ねると。
「安かったからだそうです」
 あっさり答えるのには驚いた。
 フィルム産業が、栄華を極めた時代が長く続いたのは事実だし、何かの折に、この会社の役員が「一ドルの売り上げで、七十セントの利益が挙がる」と語った記事を読んだことがあったから、さもありなんというものだ。しかし、それも画像記録媒体としてフィルムが必要不可欠で、可視化するためには現像、プリントの二つの工程を経なければならず、そのことごとくで利益が得られたからである。  
 ところが、インターネットに次いでカメラが内蔵された携帯電話が登場し、二つの機能が結びついた途端、市場環境は激変する。写真は保存するものから見せるものへと変わってしまい、画像はデジタルで保存可能となったのだから。フィルムの需要は激減。当然、可視化するための各工程での収益機会も失われてしまったのだ。
 まさに『つわものどもが夢の跡』というわけだが、あまりに広大過ぎる土地は手付かずのまま残っていて、森林地帯が延々と続くだけ。しかもその中には、良質な水を湛える三つの湖沼が存在している。
 秘密裏に『水工場』を設けるには、理想的な条件だし、宅地や商業施設に適した場所は周辺にたくさんありそうだから他に買い手が現れるとは思えない。それに分割売却も可能だと言う。しかもべらぼうに安いときている。
 これだけの条件が揃った土地に出会うのは、これもまた奇跡と言えたし、何よりも礼央が魅力に思ったのは、フィルムメーカーが所有する土地であったことだ。
 あって当たり前と長く信じ込まれていたフィルムが、デジタル技術の台頭で、あっという間に駆逐されてしまったことに、これから自分たちが製造する放線菌入り水の力が、世に知れ渡った後の医療、製薬業界の姿が重なったのだ。
 この土地に巡り合ったのも、偶然じゃない。必然であったのだ……。
 礼央は確信し、直ちに花音に渡米を要請した。
 すぐにやって来た花音が、一目見てこの土地を気に入ったことは言うまでもない。
 設計、建設は、アメリカで建設会社を経営する信者が担当した。
 施設の名称は、『大和の命・アメリカ本殿』である。
 敷地の広さは東京都の中野区と杉並区を併せても、まだ上回るほど広大なもので、深い森の中に銅葺きの巨大な屋根を載せ、鉄筋コンクリート作りではあるものの、内外面には木材をふんだんに使い、その高さは三十メートル。
 肝心の製造工場は神殿の地下二階に設けた。

 

(つづく)