終章
1
ジョン・ケリーは、折に触れ『ビジネスマンが成功する秘訣は、ルーティンを確立し、堅持し続けることにある』と語り、社長に就任してからも実行し続けてきた。
毎日、早朝六時半に出社するのも、始業時刻までの二時間半を各部署から上がってきたレポートや決済書類の処理に費やすことができるからだ。
しかし、時に例外は起こり得る。
デスクの上の電話が突然鳴って、ケリーは傍に置かれた置き時計に目をやった。
時刻は、まだ午前七時半。
早朝に鳴る電話。しかも社長に直接となれば、いい報せのはずがない。
嫌な予感を覚えながら受話器を持ち上げたケリーは、
「ジョン・ケリー……」
と短く応えた。
「リズバーガーです……」
研究開発部門を統括するミッシェル・リズバーガーの声が聞こえてきた。
彼からの電話となると用件は一つしかない。
一週間前にケリー宛に送られてきた、ペットボトルに入った『水』の分析が終わったのだ。
「結果が出たのだね?」
果たして、リズバーガーは言う。
「ええ……。つい先ほど……。同梱されていた手紙に書かれてあるように、放線菌が含まれていました。我々が『ACK66』と呼んでいる放線菌です」
まさか……
「……本当か? 間違いないのかね?」
思わず再確認してしまったケリーに、
「間違いありません。私もまさかと思って、二度分析を繰り返しましたので……」
リズバーガーも困惑した様子で答える。
『ACK66』は、当時カリフォルニア化学大学の教授であったキンジー博士がアマゾンの奥地で偶然採取した未知の放線菌に、エマーソン・ジョシュアがつけたコードネームである。
帰国後にキンジー博士が分析したところ、医薬品に応用できる可能性が極めて高いと判断し、かねてより研究費の支援を受けていたエマーソン・ジョシュアに持ち込んできたのだ。
その際、採取に至った経緯、原住民が日々愛飲し、大密林の真っ只中で暮らす文明とは無縁の部族であるにもかかわらず、健康状態は極めて良好に保たれていたという博士の証言を聞いて、研究開発センターでさらに精緻な分析を行った結果、免疫力を飛躍的に高める可能性があることが分かった。そこで、薬効、副作用、毒性等を確認するために、治験を行ってみたところ、所謂「万能薬」になり得る可能性を秘めていることが判明したのだ。
「こんなものが世に出回ったら、製薬会社、医療業界は成り立たなくなってしまう」
この治験結果に驚愕し、脅威を覚えたエマーソン・ジョシュアはただちに治験を中断。社の最高機密として固く封印したのだった。
だから放線菌の存在を知る者は、社内でもACK66と名付けられた当時からの歴代社長と研究開発センターの最高責任者の二人のみ。保管している金庫の扉は閉じられて以来一度も開けられてはおらず、ケリーですら忘れかけた存在となっていたのだ。
それが、なぜ……。
「ACK66はキンジー博士以来、誰も発見しちゃいないんだぞ。それが今になって、どうして出てくるんだ? 第一、私だってあの菌を実際に目にしたことはないぞ?」
すっかり動揺したケリーは矢継ぎ早に問うた。
「出所は我が社ではないと断言できます。可能性として考えられるのは、何者かが採取に成功したか、あるいはキンジー博士が採取したものを密かに所持していたか、その二つしかありません」
リズバーガーのいう通りだ。
というのもACK66については、社長は就任時に申し送り事項の最重要機密と念を押された上で、退任する社長から口頭で、研究開発部門の最高責任者もまた同じで、就任時に社長から口頭で告げられるのが慣習となっていたからだ。加えて金庫を開ける際には、社長と研究開発部門の最高責任者が一つずつ所持している鍵が必要で、二つ揃わなければ解錠できない仕組みになっているのだ。
「もし後者なら、キンジー博士か、あるいはその関係者が密かに所持していたということになるね……」
「その可能性が最も高いとは思うのですが……。しかし、博士は大分前に亡くなっていますし……」
「博士には、封印する代償としてかなりの金が支払われたと聞いたし、その上研究費も増額してやったんだ。博士だけじゃないぞ。大学への研究費も増やして、今に至るまで継続してきたんだ。そのおかげで、博士は終身名誉教授にもなれたんだから、感謝されこそすれ――」
「でも、社長……」
リズバーガーが、ケリーの言葉を遮ってきた。「ACK66をベースとした新薬が世に出ていたら、博士はノーベル賞を受賞していたかもしれないんですよ。それを金の力で封印されたとなれば――」
「博士だって、ACK66の可能性に気がついた時点で、絶対に世に出ることはない。いや、出せないと気づいたさ」
今度はケリーが遮った。「当たり前じゃないか。新薬はFDA(米国食品医薬品局)の審査をパスして初めて世に出るんだ。ACK66をさらに精密に分析して作用機序を解明し、使用量の上限、下限も見極めなければならない。毒性試験だってある。それらをことごとくクリアして、やっと動物実験だ。そこで問題なし、かつ薬効ありと確認されて治験となる。ここに至るまで、どれだけの時間と金がかかると思う? 大学の研究費なんかじゃ到底足りやしないし、万能薬になる可能性があると知れた時点で、製薬会社は資金提供を打ち切るに決まってんだろ?」
「おっしゃる通りです……」
人類を病から解放する可能性を秘めているのなら、「公共の利益」の観点からも、徹底的に検証し実用化を目指すべきなのは百も承知だ。しかし、その検証を行うのが医学者や製薬会社である以上、たとえ可能性であったとしても、「有り」とされるわけがない。
なぜならデータはいかようにでも改竄できるし、判断するのは医者や医学者だ。自分たちの存在意義を脅かすような薬の登場を歓迎するわけがないし、善意の第三者が追試を行おうにもACK66を持っているのはエマーソン・ジョシュア一社のみ。外部の人間が入手するのは不可能だからだ。
「だから余計出所が分からんのだ――」
そう言いかけたケリーを、
「社長……」
リズバーガーが遮ってきた。「前に、クリーブランドの総合病院で、アーリントンが偶然入手した治験データらしきものについて、私に見解を求めたことがありましたね」
そう言えば……。
はたと思い出したケリーは、
「ああ、あったね」
即座に返した。
「ひょっとして、あのデータはACK66を患者に投与したデータではないかと……」
「じゃあ、名前は忘れてしまったが、あの医師がACK66をなんらかのルートで入手して、治験を行っていたと?」
「そうとしか、考えられません」
リズバーガーは断言する。「だとしたら、事態はかなり深刻です。症例数は、確か五十程と記憶していますが、データは全米各地の病院から彼の元に寄せられたもののようでした。それも日系人医師と思しき名前が大半でしたから、既にネットワークのようなものが出来上がっているのではないかと……」
「あの時も君はそう言っていたし、外部機関を使っても構わない。徹底的に調べるよう、私は指示したが、その後何か分かったことはあるのかね?」
報告が一切上がって来なかったところからして、答えは明らかだ。
思っていたとおり、リズバーガーは困惑した声で答える。
「それが、患者の大半が日系人ということ以外は何も……。実際、患者の担当医は日本以外の国にルーツを持つ者もおりましたので、必ずしも医師の側にネットワークがあるというわけでもなさそうでして……」
「おかしな話じゃないか。だったら、誰が主導して、こんな治験を行うことになったんだ?」
「ですから、そこが分からないのです」
リズバーガーはますます困惑の色を濃くする。「データに名前があった医師全員に、我社の担当MRがおりますので、彼らを使って探らせてもみたのです。しかし、データをこちらが持っているとは明かせませんし、出身大学も専門分野も異なっていて、接点がなかなか見つからなくて……」
リズバーガーの話は、もっともではある。
全米には百二十六のメディカルスクールがある上に、専門分野の細分化も進んでいて、複数の専門医に診断を仰ぐケースもまま起こるのが昨今の医療事情なのだ。医師が所属する学会も、専門分野毎に分かれるのだから、異なる分野の医師でネットワークを構築するのは容易なことではない。
「しかし、あのデータを見る限り、コアとなる医師がいて治験を行い、データをとりまとめているとしか考えられんよ」
ケリーが漏らすと、
「私も、そのように思うのですが……」
リズバーガーは、肯定しながらも語尾を濁す。
「しかし、どうやってACK66の存在を知り、現物を入手できたんだろう……」
考えれば考えるほど、ケリーの中で謎は深まるばかりだ。
そのとき、突然、電話の隣に置いてあったインターフォンが鳴った。
「ドク、ちょっと失礼……」
断りを入れたケリーは、インターフォンのボタンを押し、
「なんだね? 大事な電話の最中なんだが」
思わず声を荒らげた。
「申し訳ありません。重要な話があるから、社長に繋いでくれと電話が入っておりまして……」
電話の最中に、秘書が出社してきたらしい。
困惑している様子の秘書の声が聞こえてきた。
「重要な話? 誰からだ?」
「それが……名乗りませんで……」
「名乗らない?」
お前秘書だろ? そんな電話をいちいち取り継ぐ馬鹿がどこにいる。
ケリーは目を吊り上げ、次いで怒鳴りつけようとした。
しかし、それより早く秘書は言う。
「先日送りつけた、水のことで話があると……」
水だって? 水と言えば、思い当たるものは一つしかない。
今、リズバーガーと話している、ACK66が入った水のことだ。
「繋いでくれ」
ケリーは命じると、「ドク、急を要する電話が入った。一旦切るよ」と断りを入れ、回線を切り替えた。
「ジョン・ケリー……」
軽く語尾を上げ、自ら名乗ると、
「匿名電話に社長が出たところを見ると、私が送りつけた水の成分分析を終えたようだね」
男の声が聞こえてきた。
(つづく)