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「人の口に戸は立てられぬ」とはよく言ったものだ。
『霊泉』の効果は、瞬く間に信者の間に広まっていった。
 予想通りの展開となったのだったが、
「タイミングが絶妙だったのよ」
 花音は上機嫌で語る。「新本殿の完成直後。しかも北米屈指の自然環境に恵まれた、コロラドの大地から湧き出した水ですからね。天の恵み、神様の恵み。神秘性も増すってものだわ」
 確かにコロラドは、信者たちにそう感じさせるだけの環境に溢れている。
 礼央も暮らしはじめて実感したのだが、高地にあることもあってか、驚くほど大気が澄んでいる。
 テレビ中継で、コロラドを本拠地とするMLBのロッキーズのデーゲームを観戦すると、画面がやけに明るく、色も鮮やかに感じたのだが、あれは気のせいではなかった。
 快晴の朝の青空は、突き抜けるように高く澄み、そして碧い。カルフォルニアの空の碧さは有名だが、コロラドには到底及ばない。何よりも異なるのは、外に出る際にはサングラスが欠かせないほど大気が光り輝いていることだ。
 加えて自然は豊かだし、野生動物の宝庫ときている。
 礼央自身もここに住んで四年になるが、谷間の道をドライブすると、山肌に群れるヘラ鹿やムースの姿があって、側を流れる清流と相まると、まるで天国にいるような錯覚に陥る。
 こうした環境が、霊泉の神秘性を高めることになったのは間違いない。
 実際、病からの解放が霊泉、ひいては『大和の命』の神様のお陰と信じて疑わない信者たちは、本殿参りに頻繁に訪れるようになった。そして広大な森の中に聳え立つ新本殿の神々しさに感嘆し、コロラドの自然に感動するのだった。
 霊泉の効能が信者たちの間に浸透しているのは、生産量が右肩上がりで伸び続けていることからも明らかだ。さて、そうなると花音も次の展開を考えはじめるに違いないと踏んでいたのだが、果たして配布を始めてから二年が経った頃、コロラドを訪ねてきた花音はこう切り出した。
「霊泉の効能も、信者さまに大分浸透したみたいだけど、それも北米だけのこと。そろそろ他の国でも配布したいと考えているの」
 やはりそうきたか……と思いながら、礼央は訊ねた。
「他の国って、どこでやるの?」
「そりゃあ、発祥の地、日本でしょう」
 花音は即座に答える。
「日本ねえ……」
 これもまた、予想できた答えだったが、乗り気ではない心情が声に表れたのだろう。
 花音の眼差しが険しくなった。
 しかし、それも一瞬のことで、表情を和らげると当然のように言う。
「信者さまは病から解放されたのも、神様から授かった水だからこそ。信仰の賜物と信じているようなの。最近では、病を抱えている知人を『大和の命』に勧誘する信者さまも出てきてね。入信者もこれまでになく増加しているから、霊泉をツールに教団の規模を拡大しようと考えているの」
「考えているって、誰が?」
 問い返した礼央に、花音は即座に返してきた。
「教祖様はもちろん、教団幹部の方々も、口を揃えて言うのよね。もちろん私も大賛成なんだけど?」
「アメリカ国外で霊泉を配布するのは簡単ではないと思うけどなあ……」
「それはなぜ?」
「まず第一に、検査の問題がある」
 礼央は間髪を容れず答えた。「飲料だろうが食品だろうが、人が口にするものは、輸入国の成分検査を受けなければならない。これまでのところは信者さまに限定して、教団内で飲ませているからいいようなものの、本当はアメリカも同じなんだ。輸出するとなれば、放線菌が入っていることは検査の過程でたちどころに分かってしまうし、ただの水を詰めて許可を取ったとしても、抜き打ち検査があるからね。どんな策を弄しても、放線菌の存在が発覚するのは時間の問題だね」
「まず第一にってことは、他にも理由があるの?」
 そう言われると、答えに詰まる。
「すぐには思いつかないけど、やるとなったら、クリアしなければならない問題はいくつも出てくると思うけど?」
 苦し紛れに礼央は答えたのだったが、
「だったら、現地で製造すればいいじゃない」
 花音は、簡単に言う。
「現地って、日本に製造工場を建てるってこと?」
「そう。ここと同じ施設を設けて、霊泉を製造したらいいじゃない。自販機で売るわけじゃなし、教団内限定で配布すれば検査なんて受ける必要ないでしょ?」
「簡単に言うけどさ、アメリカ国内の需要が増え続けているのに、そこまで手が回らないよ。それに工場を新設するにしたって秘密裏に設けるんだろ? 既存の教会に併設するのは容易なことじゃないし、新本殿を新築するとなりゃ用地の確保からはじめなければならない。となると資金もいるし、何よりもストーリー性を持たせなければならない」
「ストーリー性?」
「ここのような雄大な自然、凄烈なまでに清らかな環境下で採取された水。それも新本殿の側で採取された水ってことさ。これらの要素が相まって、霊泉には神秘的な力があると信じているんじゃないか。日本にはここに匹敵するような環境は――」
「そんなのどうにでもなるわよ」
 礼央の言葉を遮って、またしても花音はあっさりと言い、そのままの勢いで続ける。
「日本は良質の水に恵まれた国ですからね。実際、北海道の山林地帯や原野を中国人が買い漁っているじゃない。しかもいずれも水源となる土地ばかりを……」
 確かにそうした話は耳にしたことがある。
「山林、原野を買ったら電力はどうするんだ? ここは近くにかつてフィルムメーカーの工場があったから、電源の確保にはそれほど苦労しなかったけど、日本ではそうはいかないだろう。仮に電力が引けたとしても、製造機器は電力を使うからね。ここは新神殿があるから、そこそこ電力を使っても怪しまれずに済んでるけど、北海道の人里離れた山中や原野の中に、新神殿を建てるってわけにはいかないだろ。それほど大きな施設でもない割には電力消費量が大きいとなれば、不審に思われるよ」
「自家発電って手もあるんじゃない?」
「自家発電?」
 余りに発想が単純すぎて、言葉が続かない。
 そんな礼央の反応を無視して花音は言う。
「人里離れた場所でやるのなら、大型の発電機を何台か設置すればなんとかなるんじゃないかしら」
 人里離れた山林や原野の中なら、発電機の騒音は問題にはならないとしても、とても現実的とは思えない。
 思わず礼央は苦笑してしまったのだが、
「それに、資金のことはどうにでもなりますからね」
 花音は気に留める様子もない。
「宗教法人は無税だもんな。広大な土地を買って、立派な神殿を建てるくらいだ。土地買って、製造工場を建てるくらいの資金はどうってこともないってわけ?」
「それもあるけど、寄付の額が飛躍的に増えているの」
「寄付?」
「って言うか、感謝……お礼かな? 霊泉を飲んで、病から解放された信者さまからの献金が爆増しているのよ」
 花音は無邪気に言うのだったが、礼央はその言葉に違和感を覚えた。
 かつて花音は「宗教はビジネス」だと喝破した。本質的にはその通りには違いないのだが、そう語った一方で、「信者さまを幸せにしたい」とも言った。信者が支払うお金は、信仰することによって得られた恩恵への感謝の印であって、金儲けを目的としているわけではないと言ったように思うが、今の口ぶりからは、教団が莫大な金を手にする千載一遇のビジネスチャンスに巡りあったとしか聞こえなかったからだ。
「だったら、いっそのこと日本に新本殿を建てたらいいんじゃないか? ここと同じように、地下に製造設備を設けてさ。限界集落も増えているって聞くし、北海道でなくとも適した場所はたくさんあるんじゃないのかな。たとえば富士山周辺とかなら、良質の水も採取できるし、信者様だって足を運びやすいだろ? 新本殿に工場を併設すれば、電力を消費したって怪しまれないだろうし……」
「なるほどね。確かに一理あるかもね」
 意外にも、花音はあっさり礼央の意見に同意すると、「北海道ってのは、私の思いつきで言っただけだから、場所やその他のことは追々考えるとして、それよりもっと重要なのは礼央さんのことよ」
 話題を転じてきた。
「僕のこと?」
「工場を新設したら、礼央さんが一人で製造管理を担当するってわけにはいきませんからね。適任者を見つけて、その人に任せるしかないでしょ?」
 どうやら、これが本題らしい。

 

(つづく)