「対価?」
「当たり前だろ? これほどの効果を発揮する放線菌が世の知るところになれば、製薬業界はどうなる? 医者は職業として成り立つのか? 製薬、医学業界にとって最悪のシチュエーションは万人が病から解放されること、万能薬が出てくることだろ?」
図星を突かれたとみえて、ケリーは沈黙する。
歯噛みする音が聞こえてきそうだった。
礼央は話を前に進める。
「製薬会社の収益の三分の一は、マーケティングに費やされると聞くけど?」
「マーケティングといっても様々だがね……。広告費もあれば、研究機関や大学、有名医師や将来有望な医師への研究費に支援とか――」
「そんなことはどうでもいい。多額の金を費やしているのは事実なんだろ?」
礼央が言葉半ばで遮ると、
「それは……まあ……」
歯切れ悪く、ケリーは肯定する。
「五百万ドル……」
礼央は、ズバリと金額を告げた。
「五百万ドル?」
ケリーの声が吊り上がる。「いくらなんでも高すぎる――」
予想通りの反応だけに、礼央は聞き流した。
そしてひとしきり喚き立てたケリーが一息ついたところで、
「六百万ドル……」
金額を吊り上げにかかった。
つまり「交渉の余地はない」と暗に告げたのだ。
「えっ?……」
これにはさすがのケリーも驚いたらしく、短く漏らして絶句する。
礼央は言った。
「エマーソン・ジョシュアがマーケティングに投じている金額からしたら微々たるもんだろ?」
「それは違う!」
間を置けば、さらに金額を吊り上げてくると思ったのだろう。
ケリーは間髪を容れず続ける。
「マーケティングと言っても用途は様々だ。確かに薬剤の販促目的で、開業医や勤務医に講演会を依頼したり、本を書かせて出版社から買い取ってやったりはしているさ。幾ら使うかは、予算の範囲内であれば現場の判断に任せているのも事実ではある。だがね、金額次第では事業部長の決裁が必要だし、支払い先も研究機関や大学などと決まってるんだ。十万ドル単位の支出でさえそうなんだぞ? 六百万ドルもの大金となれば――」
「どう捻出するか、処理するかは俺の知ったことじゃないね。あんたが考えることだ」
礼央はケリーの言い分を遮り言った。「七百万……」
「おい!」
呆れたような口調でケリーは一喝するのだったが、結果がみえているだけに、礼央は愉快でならない。
「放線菌の存在が世に知れてしまえば、マーケティング費用はゼロになるんだぜ?」
「えっ?」
「当たり前じゃないか。万能薬になる可能性を秘めているんだ。こんなものが出回ってみろ。製薬会社なんかいらなくなってしまうだろ?」
改めてそこに気がついたかのように、ケリーはまたしても沈黙する。
礼央は続けた。
「もちろん、奇跡の薬として世に出るまでにはとてつもなく高いハードルを越えなければならないのは百も承知さ。治験の段階でデータをいかようにも操作できるし、FDA、NIH(米国国立衛生研究所)、CDC(米国疾病予防管理センター)のような国家機関は、製薬業界とズブズブの関係にある。巷間『回転ドア』と称されているように、製薬業界は監督機関の役人の天下り先だからね。承認は絶対にしないだろうし、一部の病に対しての効果を認め、他の病には適用外とすることだってできるからね」
「君は、いったい何者だ? 随分業界に通じているようだが?」
正直に答えるバカがどこにいるよ。
礼央は鼻で笑いながら、それでも返した。
「それくらいのこと、その気になればいくらでも調べはつくさ。どんな時代に生きていると思ってんだ?」
これには、流石にぐうの音も出ないでいるらしく、
「それは……まあ……」
ケリーは語尾を濁す。
そこで、礼央はいよいよ結論を迫ることにした。
「どうする? さっき、送りつけた水は、既に大量に出回っているって言ったけど、飲ませている連中は、放線菌が入っていることを誰にも気づかれずに飲ませ続けるスキームを確立しているんだぜ? 人の口に戸は立てられないって言葉があるけどさ、万病に効くらしいなんて噂になってみろ。飲む人間が増えれば増えるほど、水の存在を闇に葬ることが困難になっていくんじゃないのか?」
それでも、ケリーは決断がつかないようで、荒い息遣いがスマホを通して聞こえてくるだけだ。
「見た目はただの水だぞ? ヘロイン、コカイン、あらゆるドラッグが流通しているこの国で、当局が取り締まれると思うか? できやしないに決まってるじゃないか。最悪の事態を避けようと思うのなら、今の時点であの水を製造している連中を、徹底的に叩き潰して、放線菌の存在を闇に葬ってしまうしかないだろ?」
「わ……分かった……。君のいう通りだ。七百万ドルで手を打とう……」
低く押し殺した声で、ケリーは呻くように答えた。
「OK。ようやく決断したようだな」
ここまでは、全てシナリオ通りだ。
思わず笑みを浮かべた礼央は、「念のため言っておくが、この携帯電話は使い捨てだ。居場所も頻繁に変えているから追跡しても無駄だからね……」
そう前置きすると、送金方法の説明に入った。
3
エマーソン・ジョシュアの全従業員の番号が掲載された電話帳は、厚さが一・五センチもあるが、社長にとっては無用の長物以外の何物でもない。
電話を終えたケリーは、すかさず内線番号が記されたリストに手を伸ばした。
役員や高位管理職と、自ら電話をかける相手の氏名と番号が併記されている中から、目当ての相手を見つけ出すと、すかさず番号をプッシュした。
短く二度の呼び出し音が聞こえた次の瞬間、
「トム・ハンセン……」
ハンセンの野太い声が答えた。
「トム、大至急部屋に来てくれ。緊急事態だ」
ケリーは一言告げると、そのまま受話器を戻した。
トム・ハンセンはCIAの元工作員で、定年前にエマーソン・ジョシュアに転職し、今は危機管理室長をしている。退職に当たってはCIAとの間で守秘義務の誓約書を交わしたこともあって、在職中の任務内容は知らないものの、中東情勢に詳しいことから、どうやら彼の地で工作活動に従事していたらしい。世界に紛争地域はたくさんあるが、中東は常に緊張状態にあり、工作員も命懸けで任務に当たらなければならない。そんな経歴を買って、危機管理室長として採用したのだった。
ハンセンはすぐに社長室に現れた。
「かけたまえ……」
ケリーは部屋の中央に置かれたソファーを目で指した。
ハンセンは無言のままそこに腰を下ろすと、口を開く気配も見せずケリーの顔を見つめる。
言葉を発するのは、まず用件を聞いてからだと心得ているのだ。
「深刻な事態が起きてね……」
ケリーは、それから時間をかけて事の経緯を話して聞かせた。
「なるほど、状況はかなり深刻ですね」
ようやく、口を開いたハンセンだったが、言葉とは裏腹に表情は全く変わらない。
「どうしたらいいと思う?」
ケリーがアドバイスを求めると、
「社長は、どうなさりたいのです?」
ハンセンは逆に問いかけてきた。
「どうしたいかって……そりゃあ、ACK66の存在を封じ込めたままにしておきたいさ。あれの存在が明るみに出てみろ。製薬、医学業界は飯の食い上げだ! 産業の危機、それも二つの産業が、一瞬にして吹き飛んでしまうことになる!」
ハンセンは小さく頷くと、
「方法は、二つあります」
相変わらず表情を変えることなく話し始める。「一つはACK66を使った新薬を特定の病、それも患者数が少ない病の治療薬として世に送り出すことです。新種の放線菌ですから、研究者の中には関心を示す者、作用機序を解明しようとする者も出てくるでしょうが、それも研究費が確保できればの話です。ACK66が秘めている可能性を知れば、どこの製薬会社も研究費の提供を拒むでしょうし、上から圧力をかけさせて研究自体を封じ込めることもできますからね」
ハンセンが言う『上』とは、大学ならば医学会、薬学界に君臨する大物教授、研究機関ならば所長、あるいは各分野のトップのことだ。
彼らはもれなく製薬会社から多額の研究費の支援を受けている上に、講演会等、様々な名目で個人としても副収入を得ている。要は金の力でもって、研究を封じ込めてしまえばいいと、ハンセンは言っているのだ。
(つづく)