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「君は日本人、いや日系人なのか?」

 ケリーが質問を発した直後、回線が切れた。

 スピーカーモードで会話の一部始終を聞いていたハンセンに向かって、

「君の推測通りだったね。やはり宗教団体だったな……」

 ケリーは受話器を置きながら言った。

「『大和の命』ね……。初めて聞きましたが、彼が言ったように宗教団体にとってACK66は信者獲得の最強のツールになりますからね。奇跡が起きたのは信心の賜物と信じて疑わないでしょうから、入信希望者が殺到しているというのも頷けますね」

「『大和の命』とは、どんな宗教団体なんだろう」

 ケリーは思いつくままを口にした。

「それを調べる必要があります?」

 ハンセンは素気ない口調で返してきた。「神や仏に仕える身とはいえ、神職者だって霞を食って生きているわけじゃありませんからね。メジャー、マイナーにかかわらず、宗教はとどのつまりはビジネスです。『大和の命』を調べるよりも、優先すべきは製造工場を破壊して、二度と『水』を作れなくすることではありませんか?」

 確かにハンセンの言う通りだ。

「工場の場所を把握できたのは大きな成果だ。彼の話を聞く限り、新神殿は広大、かつ深い森の中にあるというからね。秘密裏に始末するには打ってつけかもしれないな」

「それは偵察してみないことには何とも言えませんね」

 ハンセンはあくまでも慎重だ。「製造工場の存在は教団の極秘事項と言ってましたから、おそらく新本殿に勤務している関係者も、その存在を知る者は極僅かでしょう。当然、建物の中にはセキュリティーシステムが設けられているでしょうし、隣接してホテルがあると言っていましたから、森の中にも侵入者を感知するシステムが張り巡らされているかもしれません」

「やってのける自信は?」

「もちろんあります」

 ハンセンは、表情一つ変えることなく断言する。

「その用意はすでに整えてあるのかね?」

「ええ……。先日、社長にお会いした直後から、メンバーの選定に着手して、いつでも動けるように待機させています。かつて私と工作任務に就いた者ばかりを集めて……」

「謂わば、君の私兵ってわけか……」

「実際に情報機関で工作任務に就いたことがない人には理解できないでしょうが、工作員の任務は命懸け、しかもチームで動きますから誰かのミスで命を失うこともある危険な仕事です。ただ、引退してもなかなか足を洗うのが難しいのがこの世界でしてね。なぜだか分かりますか?」

「愛国心と言いたいところだが、そう訊いてくるところからすると、理由は別にあるんだろ?」

 ハンセンは、口元をかすかに緩ませる。

「社長は今、私兵とおっしゃいましたが、フランスには外国人部隊がありますよね」

「ああ……知ってるよ」

「彼らと同じなんです。外国の部隊に所属して、死を賭して戦地に赴く……。あれは金のためではないのです。死ぬか生きるかの極限状態に身を置く時に覚えるスリル、緊張感、そして恐怖に魅せられてしまう人間がいるんです」

「君が集めたメンバーもその類の人間たちだというのかね?」

「工作員も組織に属している限り、いつまでも最前線の任務に就けるわけじゃありませんからね。もちろん、後方で指揮を執ることに生き甲斐を感じる者もいますけど、中にはあくまでも現役にこだわる人間がいるんですよ」

「アメリカ人の大半は、本当の人生は引退後から始まると考えているのと、えらい違いだな」

 引退は老後の生活を憂いなく過ごせるだけの蓄財を成して、初めて可能になる。だから、引退の日を夢見て仕事に邁進し、高いポジションに就き、高給を得ようとするのだ。それが、一般的なアメリカ人の考えであり、仕事へのモチベーションの維持に繋がっているとケリーは考えていただけに、苦笑を浮かべた。

 ところがハンセンは、

「一般的には、そうでしょう」

 意味ありげに言い、話を続ける。

「でも、ビジネス界でも優秀と認められた人間、高いポジションで実績を残した人間は違うんじゃないですか? 社長だってそうじゃないですか。優れた実績を上げ続ければ、別の会社から誘いを受けるでしょう? 老後を憂いなく暮らせるだけの資産を成したからといって、これからは好きなように生きると断りますか?」

 なるほど確かに言えている。

 ハンセンは、さらに続ける。

「それと同じなんです。工作員も優秀になればなるほど、引退しても合法、非合法のいかんを問わず仕事の依頼が舞い込むんです。もちろん、受ける受けないは、本人の自由ですがね」

「つまり今回は、優秀、かつ十分実績のあるメンバーでチームを構成できたと言いたいわけか」

「少なくとも、私の知る限りベストのメンバーを集めたつもりです」

 ハンセンは慎重な男で、普段の仕事でも楽観的な見解を口にすることはない。

 破壊工作を行うにしても、セキュリティーのレベルや、周囲の状況、建物の内部構造を始め、入念な準備をした上でないと、アクションを起こすことはないのだろう。

 それに、いかなる手段をもって、製造施設を破壊するのかは彼の専門分野なのだから、敢えて訊ねる必要はない。

 となると、気になるのはただ一つ……。

「で、決行はいつ頃になる?」

 そう訊ねたケリーに、

「早々にメンバーをデンバーに集めます。おそらく明日の午前中には全員が揃うでしょうから、直ちに新本殿周辺の偵察を行うことにします。ただ、今回の任務には作戦指揮車が必要になりますので、調達と現地までの運送に数日を要するかと……」

「数日か……」

「いずれにしても、新本殿周辺の偵察と内部構造の把握は入念に行わなければなりませんので、少なくとも三、四日はかかるでしょう。さらにセキュリティーのレベルによっては、難易度も下がりますので、すぐに作戦指揮車が必要になるというわけではありません。とにかく、現地の状況が把握できしだい、可及的速やかに作戦を実行することにいたします」

 製造施設の所在地を、たった今把握したばかりなのだ。

 ハンセンの説明は、十分に納得がいくものだった。

「分かった……。ではよろしく頼む……」

 ケリーは頷くと、

「では、私はこれで……」

 ハンセンは立ち上がり、ドアに向かって歩き始めた。

 

 

 アメリカからカナダに陸路で入国するにはいくつものルートがある。

 なにしろ国境の大部分は陸続きで、そのまま車で入国できるのだ。もちろん入国に際してはパスポートの提示を求められるし入国審査もあるが、両国民の往来は日常的、かつ頻繁に行われているので形式的なものに過ぎない。

 礼央がカナダ入国の場所をデトロイトにしたのには理由があった。

『大和の命』の依頼を受けて、自分を追っているテーラーの組織の動向を把握するためである。

 海外に逃れるのなら、アメリカ人は出入り自由のメキシコが最も適しているのだが、ニューハンプシャーからとなると、北米大陸を縦断することになり、あまりにも距離がありすぎる。その点、デトロイトなら自分の位置が把握されればテーラーから一報が入るはずで、五大湖沿いに移動すれば直ちにカナダに逃れることができると考えたのだ。

 もちろん、追う側も陸路カナダに入国し、礼央を追跡することは可能である。しかし、デトロイトからトロントまでは陸路でも一日もかからない。それに、ケリーには三日後に連絡を入れると言ったこともあって、その間はアメリカ国内を移動し続けることにしたのだ。

 デトロイトの街に用はない。

 時刻は午後四時半。

 礼央は九十六号線で国境に向かって車を走らせた。

 やがて行く手に、アンバサダー・ブリッジの巨大な構造物が見えてくる。

 橋の手前には料金所があり、八ドルを支払うとゲートが開く仕組みになっていた。

 支払いはクレジットカードを機械にスキャンするだけで済むが、礼央は敢えてキャッシュを使った。

 テーラーの組織は公的機関にも情報源を持っていると聞いたからだ。

 逃走に最も必要なのは資金である。銀行やクレジットカード会社などの民間企業にも情報源を持っているとしたら、使用履歴から足がつくことを恐れたのだ。

 もっとも、カナダから日本に向かう航空券を購入する際には、クレジットカードを使わざるを得ない。そこで、礼央は出発の二時間半前まで航空券の購入を待つことにした。

 国際線の航空券は、空席があれば当該便の出発二時間前まで購入可能だ。トロントから東京までの直行便の予約状況は、随時確認しており、各クラスとも十分空席がある。それに、エマーソン・ジョシュアから七百万ドルもの大金をせしめたばかりだ。ファーストクラスに至っては、半分も埋まっていないだろうから、明日の出発までに満席になるとは思えない。

 テーラーが所属している組織が卓越した情報網を持っていたとしても、二時間半以内に捕獲チームをトロントに派遣するのは不可能だ。なにしろ、テーラーはまだハノーバーにいるのである。

 橋を渡り切ると、今度は入国審査のブースが見えてくる。

 入国審査官の求めに応じ、パスポートを提示する。そして入国の目的等々、お決まりの質問に答えると、すんなり入国が許可された。

 

 

(つづく)