なるほど、そういうわけか……。
花音の狙いが見えてきた。
と言うのも、霊泉を大量生産する工程のほとんどは機械化されているが、素となる放線菌の培養にはいくつものステップがあり、キンジーが残したレシピを厳密に踏襲しなければならない。もちろんレシピはドキュメンツ化されているから、専門的な知識がある人間ならばすぐにでも製造可能ではある。
しかし、礼央は考えがあってレシピを第三者には明かさないことにした。
第一の理由として挙げられるのは、礼央が学究の徒の道を断念し、霊泉の製造に身を投じたことにある。つまりライフワークとした以上、この仕事で生計を立てなければならなくなったからだ。
第二は、「信者さまを幸せにしたい」と花音が語った目的を、頭から信じることができなかったことにある。つまり、霊泉を教団の収益源とするつもりなのではないかという疑念が拭い去れず、今後の展開が読めない以上、レシピを明かすわけにはいかないと考えたのだ。
なぜならば、第三の理由にも関連するのだが、ごく稀なケースとして病が改善、あるいは治癒した程度なら、恩恵に与った信者も信仰する神に祈りを捧げた結果の奇跡と思うかもしれない。しかし、同じような現象が頻発すれば、もはやそれは奇跡とは言えない。熱心な信者でも、他になんらかの要因があるのではないかと考えはじめるはずで、となれば思い当たるものはただ一つ。霊泉しかない。
となれば、霊泉の効能は信者の間に広まり、同様の問題に直面している友人、知人へと広まっていくのは時間の問題というものだ。それが新しい信者の獲得に繋がるのだから、教団にとっては願ったり叶ったりなのだが、そこで問題になるのが製薬業界、医学会である。
なにしろ、製薬産業において、あってはならないのは万能薬。医学界にとっては、万人が健康になることなのだ。霊泉の効能が広まり、彼らの知るところとなれば、正体を突き止めるべく調査をはじめる。その結果、効能ありと認められれば、いずれの業界も存亡の危機に直面することになる。その時、彼らがどんな動きに出るか分かったものではないのだ。
そこで、礼央は花音に問うた。
「ってことはだ。複数箇所で製造するとなると、僕は霊泉の原液を製造するレシピを公開しなければならなくなるよね」
「効率性の点からも、そうなるわね」
「本当に申し訳ないんだけど、レシピを公開するつもりはないんだな」
礼央は断固として、それでも柔らかな口調で返した。
「どうして?」
「どうしてって、レシピを知るものが増えれば増えるほど、コントロールするのが困難になるからだよ」
「コントロール?」
花音は意外な言葉を聞いたとばかりに、小首をかしげる。
「いいかい」
礼央は顔の前に人差し指を突き立てた。「霊泉の効能は素晴らしいものだけど、今のところはの話なんだ。病に効くってことは薬なんだよ。霊泉が万能薬になり得る可能性を秘めているのは確かかもしれないけれど、中長期に亘って飲んでも大丈夫なのか。別の病を発症したり、副作用的ものはないのか、害についての検証はされてはいないんだよ」
「今更そんなこと言うわけ?」
花音は棘を含んだ声で言う。「おかしいじゃない。礼央さん、アマゾンの未開の集落では、原住民が毎朝飲んでいる。なのに、全員の健康状態に問題はなさそうだったって、キンジー博士のレポートに書いてあったって言ったじゃない」
言った……。確かにそう言った……。
思わず答えに窮した礼央に向かって、花音は畳みかけてくる。
「それに、当のキンジー博士と奥さんも、長年に亘って放線菌入りの水を愛飲してたんでしょ? そのお陰でリウマチが治ったし、長生きしたんでしょ?」
「キンジー博士は、原住民の日常を間近で観察したからね。食生活とかも、彼らの日常に近づけようとしたかもしれないし、日常的に服用する薬だって制限したかもしれない――」
「その点は、聞かなかったの?」
花音は礼央の言葉半ばで問うてきた。
「夫人と会った時は、そこまで頭が回らなかったんだよ」
礼央はすかさず返した。「最も気になるのは、他の薬との飲み合わせでね。サプリだって、天然成分だけでできているものばかりじゃない。人工的に作られた成分を含んでいるものは山ほどあるし、それが霊泉に含まれた成分と反応して、何らかの害を及ぼす可能性もないとは言い切れないんだ。つまり、今我々がやっていることは、新薬の開発過程で行われる治験の段階なんだよ」
取ってつけたような言い草だが、そうとでも言わないと、レシピの公開を拒む理由を説明することができない。
それでも、ある程度の説得力を持ったらしく、花音は胡乱げな眼差しを浮かべながらも沈黙する。
そこで礼央は続けた。
「今のところ、いい報告しか上がってはこないけど、もしも……、もしもだよ、ある日突然霊泉を飲んだ信者の中から、別の病を発症したとか、体調が悪くなったとかの報告が相次ぐようになったら、どうなると思う?」
「どうなるの?」
「そこでまた霊泉に頼る人もいるだろうけど、それでも改善に兆しが見えなければ、医者に行くさ。そこで、どんな薬やサプリメントを服用しているのかからはじまって、色々尋ねられた挙句、霊泉を常飲しているなんて言われてみろ。医者は霊泉の成分を分析しにかかるだろうさ」
「コロラドの新本殿で採取された、水ってことになっているのに?」
「霊泉は管理当局の成分検査はおろか、ミネラルウオーターとしての条件をクリアしてるのかどうかを含め、何の検査も受けていないんだぜ? そんな代物を多くの信者に飲ませていたことが発覚したら、厄介なことになるぞ」
「厄介なこと?」
「さっき当局の検査って言ったけど、詳しく説明すると、アメリカにはFD&CA、連邦食品・医薬品及び化粧品法、つまり日本の薬事法に匹敵する法律があってね。放線菌を含んだ水を人間に飲ませるためには、事前にFDA(アメリカ食品医薬品局)の承認を得なければならないんだ。つまり、今僕らがやってることは立派な違法行為なんだよ」
『違法行為』という言葉が効いたのか、あるいは不意を衝かれたのか、花音は困惑した表示を浮かべ沈黙する。
礼央は続けた。
「現時点では、直接全米各地の教会に足を運んできた信者限定、かつ礼拝の際に霊泉を飲ませているから外部に持ち出される恐れはないけど、このやり方だっていつまで続けられるか分かったもんじゃないんだぜ? だってそうだろ? 全米に教会がいくつある? この広いアメリカに分散している信者、それも病にかかっている信者に、教会に足を運ばなければ霊泉が飲めないなんて酷ってもんだろ?」
花音は考えを巡らすように、暫し沈黙すると、
「確かに病状によっては、教会に足を運べない信者さまもいるでしょうからね。そうした人に、どうやって霊泉を飲ませるかとなると、家族に託して持ち帰らせるしかないものね……」
視線を落とし、自らにいい聞かせるように漏らす。
「それでも秘密が守れるのかな? 患者の身内だって必死なんだぜ。『大和の命』の神様のお力添えに是非とも与りたい。そう懇願されたら、宗教家として断りきれない。絶対に患者以外の第三者に渡さないという条件で、分け与えてしまうケースが出てくるんじゃないのか?」
花音は再び沈黙し、考え込んでしまった様子だったが、やがて口を開くと、
「なるほどねえ……。そういうことが起きる可能性は捨てきれないわね……」
納得した様子で言うのだったが、あっさりと引き下がるところが気になった。
そこで礼央は言った。
「霊泉が入信者を獲得するツールになるのは間違いないさ。だから、他国でも製造したいって気持ちはよく分かる。だけど、やるならやるで綿密なプランを立てて、慎重に運ばないと、どんな騒動に発展するか分かったもんじゃない。霊泉の効能が世に知れ渡ることになれば、製薬、医療業界は存亡の危機に直面することになるんだからね」
「分かった……。礼央さんの指摘を踏まえた上で、改めてこの計画を考えてみることにするわ」
そう答える花音の瞳に、一瞬だが怪しい光が宿ったのを礼央は見逃さなかった。
(つづく)