7
深夜の森の中での射撃練習は、二時間に及んだ。
グロックの操作方法から始まり、実弾を撃ちながら特性を教わり、命中率を上げるためのコツを学んだ。
実弾を何発発射したのかは分からない。アドバイスを受けながらでも、数百発は撃った。
それでも、的に当てるのはなかなか容易ではない。
しかし、それもテーラーに言わせると、
「悲観することはない。元々拳銃の命中精度は高くなくてね。状況にもよるが、よほどの近距離でもない限り、そう簡単には当たらないものなんだ」
「と言うことは、サブマシンガン同様、急場を凌ぐ道具ってわけですか?」
礼央が訊ねると、
「映画やドラマでは、射撃練習で的のど真ん中を射抜くシーンが出てくるけど、あれはシューティングレンジでのことでね。狙いを定める余裕もあれば、時間もある。その点、実戦は違うからね。身を護りながら相手を倒さなければならないんだ。君は追われている立場にあるわけだから、銃を使うのは危機的状況に直面した時になるはずだ。まずは相手を倒すより、逃れるのを最優先にすべきだ……」
「追われている立場」と言われて、自分が既にそうした状況下に置かれていることに礼央は改めて気がついた。
ハノーバーの街に向かって突き進むラムのハンドルを握りながら、
「ところで、これからどうするつもりだ? 行く当てはあるのか?」
唐突にテーラーが訊ねてきた。
正直なところ、そんなプランはありはしなかった。
真っ先にテーラーを訪ねたのは、これまでは唯一の身を守る術である格闘技を教えてくれた師匠であり、かつてSEALsの隊員であった彼ならば、身を隠す手段、逃走に役立つ知恵を持っていることを期待したからだ。
ボーダースクールは全寮制で、日本流に言うなら『同じ釜の飯を食った仲』の親しい友人は幾人もいる。大学、大学院時代もまた同じなのだが、追われる立場になった今、彼らが役に立つとは思えないし、迷惑がかかる可能性だって十分考えられるのだ。
礼央は答えに詰まってしまった。
テーラーは先刻お見通しとばかりに言う。
「やっぱり、ノープランか……」
「宗教団体は、私の身柄を確保するまで絶対に諦めませんからね。なんせ、新薬のレシピと原料を入手できるかどうかに、教団の命運がかかっていますから、彼らだって必死です……」
「しかし、アメリカ国内にいる限りは、いずれ居所を掴まれてしまうぞ」
テーラーはそう言い、「逃走資金は?」
と問うてきた。
「コロラドを出る際に銀行口座を解約して、全額現金に換えましたから、一年やそこらは困りません」
「大金を、それもゲンナマを抱えて逃走してるってのか?」
テーラーは、驚いた様子で片眉を吊り上げながら礼央を見る。
「途中で銀行に立ち寄ったり、クレジットカードで決済すれば、足がついてしまうんじゃないかと思ったんです。現金を持ち歩くのは危険ですが、捕まるのは絶対に避けなければなりませんから……」
「確かに……」
テーラーは頷く。「当面の逃走資金に心配ないのなら、君が真っ先に私を訪ねてきたのは幸運だったな。飛び切りのプロが揃っているとはいえ、君の居場所を突き止めるのは困難を極めることになってしまったからね」
「どうしてですか?」
「私が捕獲メンバーに加わったからだよ」
テーラーは愉快そうに答える。「私は実戦要員で、君の居場所を把握する任務には当たらない。居場所の特定に目処がついて初めて動くんだ。つまり、私に指令が下されない限りは捜索中。組織も君の居場所を把握できてはいないってことになる」
「でも、把握されたらチャックの出番になるわけでしょう?」
「指令が下った時点で、君に知らせるよ」
「知らせても、チャックが私を捕らえるまでは監視の目が――」
「逃れる方法はいくらでもあるさ」
テーラーは礼央を遮って簡単に言う。「追跡チームの手の内は知り尽くしているからね」
「どうしてそこまで?」
「弟子を裏切るより、組織を裏切る方が罪は軽いだろ? 君の危機につけ込んで金を稼ぐほどの悪党にはなれないんだよ。弟子は謂わば戦友だからね」
「チャック……」
礼央は、想像だにしなかったテーラーの言葉に、胸が熱くなった。
「居場所が把握されそうになったら、君に連絡を入れる。だから、君は組織に捕まることなく、逃げおおせられるだろう。だがね、いつまでも逃亡生活を続けるわけにはいかんよな」
「確かに……」
どんな結末を迎えるにせよ、これから先、逃亡生活が続くのかと思うと、暗澹たる気持ちになるのは否めない。そして、『大和の命』は霊泉のレシピと放線菌の入手を諦めるはずがないのだ。
「一旦、アメリカを出たらどうだ」
テーラーは唐突に言う。
「アメリカを出て、どこへ行くんです?」
「そんなのどこでもいいさ。アメリカを出てしまえば、組織の追跡能力も格段に落ちるからね」
「でも、出国すれば記録が残るし、飛行機を使えば乗客名簿から――」
「陸路なら記録を残すことなく出国できるだろ? パスポートは持ってるんだよな」
「ええ……」
旅行に必要なアイテムは、ホルダーケースに入れて常に携行している。
頷いた礼央にテーラーは言う。
「だったら、いっそ海外に行ったらどうだ? メキシコなら陸路で入れるし、出国時にパスポートを提示する必要がないし……」
「メキシコねえ……」
だが、この提案については気乗りがしない。
ロサンゼルスに住んでいれば、メキシコに行くというだけなら日帰りも十分可能だ。
国境近くの街サンディエゴまでは車で約二時間。メキシコとの国境までは、そこから三十分もあれば十分だ。そのまま車でメキシコに入国することもできるし、出入国管理棟には広大な駐車場が併設されている。
しかも、アメリカからの出国時には、パスポートの提示すら求められることはなく、回転式のゲートをくぐれば、そこはメキシコ国境の街ティファナである。帰国時にはパスポートが必要だが、アメリカ人はもちろん、日本人でさえ窓越しに提示するだけで審査の類は一切ない。つまり、ゲートはメキシコや南米諸国からの不正移民を阻止するためのもので、先進国の国民は事実上フリーパスなのだ。
「メキシコ……って言っても、ティファナに何度か行ったことがあるだけですけど、肌が合わないというか、どうも好きになれなくて……」
実際、その通りなのだ。密集する住宅はアメリカ人のスタンダードからすればスラムのようだし、行き交う車は薄汚れたものばかり。空気さえも汚染されているように感じてくる。
もっとも、カンクンのような世界に名を馳せるリゾート地もあるのだが、メキシコで安全と快適さを求めるとなると相応の金がかかってしまう。当面、金銭的な不安はないが、この逃避行がいつまで続くかを考えると、メキシコはあまり適した国とは思えない。
「君が、何を考えているかは想像がつくがね。一旦アメリカを出て、そこからさらに他の国に行くという手もあるじゃないか」
「他の国?」
「たとえば君の家族の祖国、日本とか……」
「日本?」
意外な国名を聞いて、礼央は問い返した。
「カナダへの入国も、パスポートを提示するだけで出国の記録は残らないのは同じだし、そこから他の国に行くこともできるが、その際には出国記録が残ってしまう。カナダとアメリカは密な関係にあるし、出入国管理も厳密だ。そこから君の足取りが把握されてしまうおそれがある。その点メキシコは……」
そこまで聞けば、テーラーが言わんとしていることは明らかだ。
「両国は親密な関係にあっても、ラテン気質と言うか、大らかと言うか、何かと杜撰なところがありますからね」
礼央はテーラーの言葉を先回りしたのだったが、メキシコから他の国に飛んだとしても、逃避行が続くことに変わりはない。
礼央は即座に続けた。
「でも、根本的な問題は解決できないことに変わりはありません。教団は私の身柄を確保し、レシピと原材料が入手できるまでは諦めるわけがありませんからね」
テーラーはすぐに言葉を返してこなかった。
前方を見据え、暫く何事かを思案している様子だったが、やがて口を開くと問うてきた。
「一つ聞いてもいいかな?」
「ええ……」
「君が開発したのは、癌の特効薬だと言ったね」
「実は癌だけじゃないんです。信者に服用させてみたところ、多くの病に劇的な効果を発揮することが分かってきたんです」
「多くの病って?」
「多くの……。つまり万能薬になる可能性が極めて高いんです」
「そんなことってあり得るのか? しかも信者に飲ませたって、薬なら錠剤だろ? そいつを飲んで癌が治ったってんなら、人の口に戸は立てられない。信者だって黙っているはずがない。あっという間に、世間に知れてしまうだろうさ」
「薬として飲ませたならね……」
「って、ことは――」
「聖なる水として飲ませているんです」
礼央はテーラーの言葉を遮ると、すかさず続けた。「教団は『大和の命』と言いましてね。発祥地は日本で、在米日系人を中心にアメリカにも結構な数の信者がいるんです。私の母親も信者なんですけど、膵臓癌を患ったのが入信するきっかけだったんです」
「膵臓癌は、厄介だって言うからな。神に縋るしかない。藁をも掴む思いで宗教に走ったってわけか?」
「まさにそれです……」
礼央は顔の前に人差し指を突き立てた。「薬効を発揮するのは、修士課程を終えた大学でかつて教鞭を執っていた教授が随分昔にアマゾンから持ち帰った放線菌でしてね――」
それから礼央は、キンジー博士が書き残したレポートに記されてあったこと。フロリダに在住していた彼の妻・エレンを訪ね放線菌とレシピを貰い受けたこと。それを元に、放線菌入りの水を製造し母に飲ませたところ、癌が消滅したこと。こんな奇跡に巡り会えたのは信仰の賜物と神に感謝の祈りを捧げようと、ニューヨークにある『大和の命』のアメリカ総本部を訪ねた際に、教祖の孫娘に出会ったことを順を追って話して聞かせた。
(つづく)