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停電発生時とは比べ物にならない大きな爆発音が聞こえた。
腹に響くどころではない。地の底から湧き上がる轟音は窓ガラスどころかホテルの建物までをも震わせた。
何? 今度は何が起きたの?
身支度を整え終えて部屋を出ようとした花音は、慌てて窓際に駆け寄った。
部屋はホテルの最上階のスイートルームで、建物を取り囲む庭園の三十メートルほど先に、広大な森が広がっているのだったが、木々がオレンジ色の光を反射しているのが目に入った。
方向からして、光源は隣接する新本殿である。
しかし、新本殿はホテルと並んで建っていて、スイートルームからは死角となっている。それでも全容は見えないものの、凄まじい勢いで噴き上がる炎の先端が見て取れた。いや、炎なんて生やさしいものではない。次の瞬間にはオレンジ色の巨大な火球になったと思いきや爆発的に膨張していく。
位置からして地下駐車場の出入り口から噴き出したのだろう。火球は地上に噴き出した溶岩さながら、オレンジと黒のまだら模様を浮かべ、外壁に沿って新本殿を飲み込んでいく。
絶望的な光景を目の当たりにして、花音はその場で凍りついた。
とても現実とは思えなかった。悪夢の中にいるとさえ思った。
しかし、火勢は増すばかりだ。新本殿とホテルとは百メートルほどの距離があり、死角になっているにもかかわらず、窓越しにも炎の熱を感じて、花音は我に返った。
猛烈な恐怖が込み上げてきた。
命の危機を感じたのではない。世界進出の象徴である新本殿が焼失してしまう。それも、世界制覇の野望の鍵を握る放線菌のレシピを、倉科礼央から取り戻す目処すらたっていないうちにだ。
信ずれば「大和の命」の神の恩恵に与れる。奇跡が起きると、現世利益の味を占めた信者たちを教義だけで教団に留めておくのは不可能だ。
どれほど祈っても願いは叶わない。寄進を重ねても奇跡は起きないとなれば、退会者続出。新本殿の再建どころか、北米支部は存亡の危機に立たされることになる。
いても立ってもいられなくなった花音は、無意識のうちにドアに駆け寄り部屋を飛び出した。
花音の滞在中は、スイートルームがある最上階のフロアーに他の信者は宿泊できないのが決まりだ。停電中の廊下には、足元を照らす非常灯が点々と灯るだけで、人の姿は皆無である。
取り残されたような気がして恐怖は増すばかりとなったその時、非常階段に続くドアが開き、廊下に飛び出してくる人影が見えた。
十階建てのホテルの最上階まで、階段を駆け登ってきたのだろう。肩を上下させながら激しい呼吸を繰り返す。
そして花音の姿を見た途端、
「花音さま!」
名を呼ぶ男の声は北米支部長のものだ。
「支部長、いったい何が起こったの?」
「それが全く分からないのです。爆発音で目が覚めまして、明かりを灯そうとしたら宿舎もホテルも全館停電。原因を突き止めようと、防災センターへ連絡を試みたのですが、内線電話どころか、携帯電話にも電波障害が起きているようで……」
「支部長の携帯も使えなかったの?」
「花音さまの携帯もですか?」
「電波が『圏外』になったままなの。それで、防災センタ―とは連絡がついたの?」
「宿舎にいた職員にセンターに向かうよう指示いたしました。私は花音さまのことが心配で、ここに直行したのですが、階段を登り始めたところで大爆発が起きまして……」
「じゃあ、防災センターに向かった職員は――」
「巻き込まれてはいないと思います。時間的に新本殿に辿り着いたとは思えないので……」
「いったい何が爆発したの? 新本殿の中には爆発物なんて置いてなかったはずよ」
そこで、花音はラボの存在を思い出し、「まさか、ラボに?」と呟いてしまった。
支部長は製造施設の存在、「霊泉」の正体を知る数少ない教団幹部の一人だ。しかし、化学に関する知識はゼロのはずである。
果たして支部長は言う。
「あそこでどんな薬品が使われていたのか、倉科が逃亡した今となっては知る者がおりません。薬品のオーダーは彼が行っておりましたし、薬品名が分かったとしても、爆発物に該当するものなのかどうか……」
支部長は視線を落とすのだったが、
「その話はまた後で。とにかく今は、安全なところに避難すべきです!」
一転、切迫感のこもった声で花音を促す。
凄まじいとしか言いようのない巨大な火球を目撃したばかりだ。あの様子からして鎮火は不可能と見て間違いないし、消防署がある直近の街はラブランドだが、どんなに急いでも二十分はかかる。まして、外部との連絡は一切途絶されているのだ。火勢の凄まじさからして、ホテルに火の手が回る可能性も捨てきれない。
「安全なところってどこよ。ここに火が移ったら、敷地の中に安全なところなんて――」
「まずは、状況を確認してから判断しましょう。二度目の爆発音は新本殿の方から聞こえましたけど、意図的に起こされたものなら、まだ終わりじゃないかもしれません。それに、もし火災が起きているのなら――」
「火災?」
花音は、支部長の言葉を遮って声を吊り上げた。「火災なんて生やさしいもんじゃないわよ。爆発と同時に、凄まじい炎が新本殿の地下から噴き上がったのを見なかったの?」
「凄まじい炎?……」
支部長は絶句する。「ですから私、爆発音を聞いたのは階段を登り始めた時でしたので、外の様子は――」
「部屋からは死角になって全体は見えなかったけど、凄まじいなんてもんじゃないわ。大爆発が起きたの。あんな炎は消せやしないわよ」
「でしたら、直ちに避難しましょう!」
支部長は断固とした口調で言う。「施設から出なければなりません。ラブランドでもデンバーでもいい。とにかく人目がある場所に行きましょう。これは只事ではありません。ひょっとすると……」
支部長はそこで言葉を飲み込んだのだったが、何を言わんとしたかは聞くまでもない。
花音に害を及ぼすのが目的なのではないかと言いたかったのだ。
確かに、尋常ならざる事態である。何者か正体はわからぬが、明確な意図に基づいた破壊工作が行われたと考えて間違いあるまい。
いったい誰が? 何を目的として?
再びそこに思いが至ると、改めて恐怖が込み上げてくるのを感じて、
「行きましょう!」
言うが早いか花音は、自ら非常階段のドアを開け、階段を駆け下り始めた。
(つづく)