カナダ国境の街を抜け、四○一号線に乗って、一路西へ。途中の街のモーテルに宿をとったところで、礼央は久方ぶりに自分のスマホを手に取った。
「礼央!」
母親の高揚した声が聞こえてきた。
無理もない。母が礼央の声を聞くのは、三ヶ月ぶりのことだからだ。
「あなた、いったいどうしてるの? お互いの生活には干渉しないようにしているから、こちらから連絡することは控えていたけど、随分長いこと音沙汰がないから気になっていたところだったの」
「便りがないのは良い知らせっていうだろ? こっちは元気でやってるから、心配いらないよ」
「仕事の方はどうなの? コロラドで元気でやってるの?」
母親には、博士課程での研究を一旦中断し、教団で放線菌の研究を行なっていると伝えてあった。
「実はね、教団との間でちょっとトラブルがあってね……」
「やっぱり……」
母には思い当たる節があるらしい。
「やっぱりって、何かあったの?」
礼央が訊ねると、
「少し前に教団の人からあなたの居場所が分からなくなった。何か連絡がなかったかって、電話があってね。以来毎日電話があるし、ここを訪ねてきたこともあったの」
さもありなんだ。
身内と呼べる人間は、母一人のようなものだし、今や母は「大和の命」の信者にして、放線菌の効能を知るごく僅かな人間の一人である。
「理由は今度詳しく話すけど、事態は深刻でね。明日アメリカを出ることにしたんだ」
「アメリカを離れるって、どこへ行くの?」
「日本……」
「日本って……」
母は絶句する。しかし、それも一瞬のことで、
「あなた、日本へ行ってどうするつもり? 頼れる人がいるわけじゃないし、職のあてがあるわけでもないんでしょ? どうやって生活するつもりなの?」
今度は慌てた様子で、矢継ぎ早に質問を重ねた。
「金は十分持ってるし、日本で職を探すのもいいかなと思って……」
「職を探す?」
「日本語と英語はネイティブなんだもの、職なんかすぐに見つかるさ」
「あなた、教団とトラブルになっているんでしょう? 日本には『大和の命』の本部があるのよ。逃げるつもりで国を離れるのなら、別の国にするべきじゃないの?」
「トラブルはそう長くは続かないよ。早晩決着がつくし、その時点で教団は僕を追うのを止めるはずだ」
「解決する目処が立っているのなら、アメリカにいたっていいじゃない。なぜ日本なの?」
「世界中で日本以上に安全な国はないからさ。今抱えているトラブルは教団、もちろん僕もそうだけど、オール・オア・ナッシングの形でしか決着がつかないんだ」
「それ、どういうこと?」
「つまり、教団が追うのを諦めざるを得ない状況に陥る前に、僕が捕まれば彼らの勝ち。逃げおおせれば僕の勝ちってことだよ。そして、万が一にでも僕が捕まれば……」
礼央は、そこで言葉を呑んだ。
続きを母親に話すのは、酷にすぎると思ったからだ。
しかし、そう聞けば察しはつく。
「命に関わるってことね……」
母の声からは恐怖と緊張感を覚えている様子が伝わってくる。
「僕を追っているのは、プロ中のプロで構成されている組織でね。教団の依頼は生かして捕らえろなんだけど、そうしなければならない理由があるんだ」
どうやら母は、トラブルの原因に感づいたらしい。
「教団が目的を果たしたら、あなたは用済み。後はどうなるかわからないってわけね……」
「だから日本なんだよ。教団が雇ったのは、アメリカの組織だ。もちろん銃も持っているし、殺しも請け負う連中だ。でも日本では銃の入手はまず不可能だし、アメリカ人が土地勘を持っているとは思えないから、僕を追うことなんて出来やしないからね」
「その点は、あなたのいう通りだとは思うけど……」
言い淀む母に、礼央はさりげなく言った。
「それに、日本には一度行ってみたいと思っていたんだ。だって、親の祖国だからね」
「確かにルーツは日本だけど、私はアメリカ生まれなのよ。祖国は――」
礼央は母を遮った。
「父親は日本人なんだろ?」
「えっ……」
母は絶句して沈黙する。
「今まで母さんは一度も父親のことを話してはくれなかったし、僕も訊ねたことはなかったけど、それはね、物心ついた頃から触れてはいけないことだと思い込んでいたからなんだ。だけど、自分の外見はどう見たって東洋人。確たる根拠はないけれど、同じ東洋人でも中国系や韓国系とはちょっと違うような気がしていたんだよ」
母は黙したまま言葉を発しないでいる。荒い息が聞こえてくるところからして、間違いなく動揺しているようだ。
そこで礼央は、核心をついてみることにした。
「もしかして、父親って『アサクラ・キョウスケ』って名前じゃないの?」
「えっ?」
母は短く漏らし、再び沈黙する。
沈黙は肯定だ。どうやら図星を突いたらしい。
それでも礼央は答えを待つことにした。
やがて、母は口を開くと、
「その名前……どこから……」
か細い声で問うてきた。
「母さんの書斎にあった、卒業アルバムからさ。ブラウンには世界中から学生が集まってくるけど、母さんが在学していた当時は、日本人の学部生はほとんどいなかったからね。もちろん、年齢は同じとは限らないけど、同学年の学生が父親じゃないかと思って、見てみたのさ。そうしたら……」
「そうしたら、何が分かったっていうの?」
「顔立ちが似てるんだよね。そのアサクラ・キョウスケって人と……。母さんも、そう思わないか?」
母はまたしても沈黙する。
つまり肯定したのだ。
「ピンときたよ……。この男じゃないかってね……」
その言葉に嘘はない。
母が父親のことについて、一切触れないのは相応の理由があるに違いない。触れてはいけないことなのだと、ずっと思ってきたのは事実である。
だが、シングルマザーが珍しくないアメリカとはいえ、思春期に差し掛かると、さすがに自分の体にどんな男の血が、遺伝子が流れているのか気になるようになった。
それでも切り出せぬまま時が流れたのだったが、ある日、母の書斎の書棚に置かれたブラウン大学の卒業アルバムが目に留まったのだ。
「それ……いつのこと?」
「ダートマスの四年生の冬休みで、ニューヨークに戻っていた時だよ。卒業論文の準備をするため、母さんの机を借りようと、書斎に入ったら、書棚に置かれた卒業アルバムが目に留まったんだ」
「そう……」
母は短く言い、ため息をつく。「卒業アルバムか……。迂闊だったわ……。まさかそこから、父親が分かってしまうとは思いもしなかった……」
「やっぱり、アサクラ・キョウスケで間違いないんだね」
おそらく、母は頷いているはずだ。
その証拠に、観念した様子で父親のことを話し始める。
「恭介とは、ブラウンの同級生でね。日本人の学部生は数人しかいなかったのは、あなたが言う通りなんだけど、すぐに親しくなったってわけじゃなかったの。孤高、いや孤独な人でね。キャンパスでも、いつも一人でいて、話しかけるのも憚られるような雰囲気があって……」
「でも、親しくなったんだろ?」
「そりゃあ、あなたを身籠ったんだもの……当たり前じゃない」
「朝倉とはなぜ結婚しなかったの? 母さんが妊娠したことは知っていたんだろ?」
「それはね、とても不幸な出来事に巻き込まれてしまったからなの」
「不幸な出来事?」
「人を殺してしまったのよ」
「人を殺したって、殺人?」
「裁判の結果は、正当防衛で無罪になったけど、殺したことに変わりはないわ。まともな仕事には就けないし、汚名は一生ついて回る。自分と一緒にいたら、私も子供も不幸になるって言って、卒業するとすぐに姿を消したの……」
「それって勝手すぎないか? 正当防衛が認められたんだろ? 汚名が一生ついて回るなんて――」
「孤独な人だったの……。可哀想な人だったのよ……」
母は礼央の言葉を遮り、恭介の心情が理解できるとばかりに言う。「高校生の時に、航空機事故で両親を失って、そこに親戚の人が現れて賠償金や保険金を奪い取ろうとしたのよ。そんなこともあって、人を全く信じられなくなってしまったのね。ただでさえそうなのに、今度は正当防衛が認められたとはいえ、人を殺してしまったんだもの、世間が自分をどう見るか、察するものがあったんだと思うの」
「じゃあ、母さんは朝倉の言い分を理解したってわけ?」
「偏見、差別はいつの時代になってもなくなりはしないのよ。現に、私の両親がそうだったんだもの。私があなたを身籠ったって言ったら、即大学を辞めてコロラドに戻るよう命じてきたのよ。未婚の女性が妊娠するだなんて、なんてふしだらな、みっともないと言ってね。とどのつまり娘が、ひいては親がどんな目で見られるか、世間体が気になったってわけ」
「それで、その後朝倉はどうなったの?」
「さあ……」
「さあって……母さん連絡を取り合ったりしなかったの?」
「恭介はね、私たち親子の今後を考えたら、一切の関係を絶つべきだと言ったの。人の目はどこにあるか分からない。万が一にでも、子供の父親が自分だと知れてしまえば、将来が台無しになりかねないって……。私も、その通りだと思ったし、一人であなたを育てる覚悟はできていたから、恭介とはそれ以来連絡を取り合うことはなかったの」
理屈は理解できないではないが、心情的にはそう簡単に割り切れるものではない。
「で、朝倉はどこにいるのかな。アメリカなの? それとも日本に戻ったの?」
「知らないわよ。連絡を取り合ってないって言ったばかりでしょ……」
母は苛立ったように言い、「でもね、礼央……恭介のことは忘れた方がいいわよ」
意味ありげに言う。
「それはなぜ?」
「知らぬが仏って言葉があるでしょ? 恭介のことを調べたら、後悔することになる。日本に行くのも止めた方がいいと思う。騒動も収まる目処が立っているなら、日本以外の国に行くべきよ」
「だから、どうしてなんだ? 日本には朝倉の消息を知る何かがあるの?」
母は、またしても沈黙する。
やはり何かあるのだ。
日本に行く理由ができた……。
礼央は胸の中で呟きながら、
「とにかく、騒動が収まるまで暫く連絡しないけど、心配しないで。愛してるよ、母さん……」
そう告げると、通話を切った。
(つづく)