それから三年。
フロアーはタンクがずらりと並んだ、『霊泉』を製造するエリアと、ガラス窓が嵌め込まれた放線菌やその他の成分を培養する作業部屋に分かれている。そこには顕微鏡や各種分析機器、精密計量器、ビーカーや試験管が並び、ここでキンジーが残したレシピに従って、アマゾンの水を再現するのだ。
コロラドの凄烈な天然水がタンクを満たしたところで、放線菌やその他の成分を配合した『素』を投入。直ちに攪拌を行う。常温でも十分効能があることは分かっているが、念を入れてアマゾンのジャングルの温度と湿度を調べ、可能な限り原住民の集落があったと推定される地域に近づけるべく設定、管理し、三日間ほど馴染ませてみることにした。最終工程のボトリングには、二百リットル入るステンレス容器を用い、改めて攪拌した後、全米各地にある支部に送り届けるのだ。
ただ、問題がないわけではない。
これまでは、個人で消費する分だけの水を作ればよかったのだが、各支部で信者に飲ませるとなるとそうはいかない。礼央も量産するのは初めてだし、キンジーもまた同じで、確立されたノウハウはないのだ。
要は、ぶっつけ本番。結果については全く分からないのだが、それでも製造に踏み切ったのは、自分自身の経験から、常飲しても害はなさそうだし、母の病状の改善ぶりからして効果が期待できると考えたからだ。
攪拌機の音が止んだ。
「ボトリング、始めます」
礼央が頷くと、セルフィッシュが攪拌機の底についたコックを捻る。
勢いよく流れ出す水が、ステンレス製の容器の中に流れ込んで行く。
満杯になったところで、セルフィッシュはコックを捻り、流れを遮断すると、容器を封印する。
二百リットルはドラム缶と同じサイズだ。人力で持ち上げるのは不可能な重さだから、搬送にはすくい板がついた手押し車を使いエレベーターに乗せる。
製造工場の存在を知る者は、礼央とセルフィッシュ以外にはアメリカ本殿の最高責任者のみ。エレベーターも一般信者はもちろん、職員にさえも知られぬよう、本殿内の立ち入り厳禁区画に設けた。仮に迷い込んだ人間がいたとしても、エレベーターホールに続くドアのロックを解くにはパスワードが必要で、番号を知るのは礼央とセルフィッシュのみ。さらに、エレベーターを起動させる際には、指紋認証によるセキュリティーを解除しなければならず、こちらもまた登録してあるのは二人だけだ。
そうこうしているうちに、四本のステンレス容器が満杯になった。
セルフィッシュは、それらを貨物用のエレベーターへ運び込む。
地下一階の裏は職員と、ここを訪れた信者が利用する駐車場になっている。その一角は荷捌き場となっており、一日に二度、民間の配送業者がやってきて、水を全米各地の支部に配送するのだ。
エレベーターのドアが閉まるのを見ながら、礼央の期待は高まるばかりだ。
なにしろ、本当の意味での『治験』がいよいよ始まるのだ。
もし、この放線菌入りの水が奇跡のような効果を発揮したら……。
そう考えただけでも、礼央は胸の底から込み上げてくる高揚感に、自然と目が細まるのを感じた。
2
「正直なところ、全く理解できないデータばかりです」
本殿二階にある会議室で、ケビン・山岸が唸るように漏らし、
「これは何かの間違いなのでは?」
胡乱げな眼差しで問うてきた。
「間違いとは?」
礼央が訊ね返すと、
「いや、多種の癌、それもほとんど全てのステージにおいて、進行が止まったどころか、改善傾向が見られるなんて、どう考えてもあり得ませんよ。少なくとも、私は今に至るまでこんな症例は、一度も見たことがありません」
山岸は断言する。
彼は三十八歳。幼少期から『大和の命』の信者で、現在はカリフォルニアの大学病院で胸部外科(CS)の医師をしている。
「私も同感です」
マイク・川添が続けて同意の言葉を口にする。「癌だけでなく他の病状、しかも慢性化していたものまで著しく改善し、完治したものまであるなんて、医学の常識からは考えられません。ごく稀に奇跡的に改善する場合はありますけど、そんなことはそう頻繁には起きませんからね。だからそうした症例は奇跡と称されるわけで、これはデータが間違っている……。いや捏造されたとしか考えられませんね」
川添は、クリーブランドにある総合病院の一般外科(GS)の医師である。こちらもまた二代続けての信者である。
量産を開始してから一年。
この間に、効果のほどを確かめるために、礼央はまず重篤な病、あるいは慢性化した病を抱える信者を対象に水を飲ませて経過を観察することにした。
放線菌の効能には疑問は抱いてはいなかったものの、飲む量や頻度、放線菌の濃度、つまり含有量によって差が出るのか否かを把握する必要があったからだ。
キンジーのレポートによれば、アマゾンの原住民は毎日飲んでいたとあるから、害の心配はまずないと思われた。
しかし、文明社会で毎日信者に飲ませるとなると、使い勝手が悪すぎる。
日々生活空間を共にする、未開の集落でなら部族全員に毎日、水を飲ませることは容易だが、信者が居住する場所が広範囲に散らばっているのだ。
毎日飲まねば効果はないのか。濃度を上げれば週一度、あるいは月一度でもいいのか。まずは、その点を調べることにした。
というのも、霊泉は『大和の命』がこれから先、多くの信者を獲得し、飛躍的な成長を遂げる起爆剤となることは確実で、絶対に門外不出、教団の極秘事項とすることに決まっていたからだ。
ペットボトルのような携帯式の容器に入れて配布したのでは、信者が効果を自覚すれば、病に苦しむ友人知人、あるいは身内の手に渡り、医師や製薬会社が入手してしまう恐れがある。かといって、毎日教会に足を運んでもらわないと飲めないのでは、遠方に居住する信者は恩恵に与ることができない。
そこでまずは、信者の中から重篤な病、あるいは慢性化した病を抱える人間を選び出し、教会近辺に住む者には毎日、週一回の来訪が可能ならば都度、遠方の者には月一回。濃度を変えた水を飲ませ、経過を観察することにしたのだ。
『治験者』になる信者を集めるのには全く苦労しなかった。
母がそうであったように、病に苦しむ人間が宗教に救いを求めるのは多々ある話で、『大和の命』もまた然り。神の力に縋って病の克服に祈りを捧げにやって来る信者は多くいて、神職に悩み、苦しみを打ち明けるからだ。
今、二人の医師が目にしているデータは、治験を開始してから一年の間、信者がかかりつけの医師から入手したものを礼央が纏めたものだ。
「あの一つお訊きしてよろしいでしょうか」
山岸が丁重な口調で確認してきた。
声のどこかに、緊張している様子が窺えるのは気のせいではない。
花音は、信者にとって教祖に最も近い人物の一人にして、普段は会うどころか、アメリカ在住の彼らが目にすることもできない。そんな彼女が同席しているからだ。
「なんなりと……」
礼央が頷くと山岸は言う。
「このデータは何を目的として集めたものなのでしょう。体裁は整ってはいますが、もしこれらのデータが本物だとしたら、何かしらの外的インパクト、つまり治療薬であるとか、治療方法であるとか、医学的行為によって症状が劇的に改善したことを検証するのが目的としか思えないのですが」
「それ以前に到底理解できない点があります」
間髪を容れず川添が続けて疑問を口にする。「今、山岸先生は外的インパクトとおっしゃいましたが、誰一人として外科手術を受けてはいません。なのにかなり進んでいた癌の進行が止まった、縮小した、中には消滅してしまったものまであるなんて、医学の常識では考えられませんよ」
川添の口調からは、こんなものを見せるために、わざわざコロラドくんだりまで呼びつけたのかと怒りを覚え、呆れている様子が窺えた。
「先生方がそうおっしゃるのも無理はありません」
礼央は落ち着いた声で答えると、「ただ、このデータは本物なんです」
二人の顔を交互に見つめた。
(つづく)