「確かに、それは一つの手段ではあるな……」
肯定的見解を返したものの、それで問題が解決するわけではない。
「しかしね、男はACK66が入った水は、既に広く出回っていると言ったんだ。広くというからには、ACK66を培養するラボと、応分の規模の生産工場を持っていると考えて間違いない。そこを無きものにしない限り、水として出回り続けることになる」
「広く出回っていると言ったそうですが、配布方法については何も?」
「入金が確認されたら教えてやると言ってね。それも七百万ドルも要求してきたんだ」
「七百万ドル?」
ハンセンは片眉を吊り上げ、初めて表情に変化を見せる。「そりゃまた、大きく出たもんですね」
「ACK66の存在を闇に葬ることができるなら安いものだがね……。ただ、配布しているのはおそらく組織だ。ACK66を分散して所持していることも考えられるし、製造拠点もまた然りだ」
「その点については、何も言っていなかったのですか?」
「ああ、何も……」
「訊かなかった?」
ケリーは自分の迂闊さを突かれたような気がして、思わず答えに窮した。
「多分、ラボ、生産施設も、一箇所でしょうね」
ハンセンの声に確信が籠っているように感じるのは気のせいではあるまい。
「なぜそう思う?」
「その男が、製造に深く関与していると思われるからです」
そこで、ハンセンはぐいと身を乗り出すと、「男は水を無料で配布している。病が治癒した謝礼として患者が金を持ってくると言ったのですね」
念を押してきた。
「ああ……」
「しかも、病が治癒したのはACK66の効能によるものではない。つまり『水』ではない、他の何かのおかげだと考えている……」
ハンセンは組織の正体に気がついている。
直感したケリーは、黙って彼の言葉を待つことにした。
果たしてハンセンは言う。
「宗教でしょうね」
「宗教?」
「水ではない。他の何かの恩恵に与ったとなれば信仰する神の力しかないでしょう。だから、感謝の印として金を持ってくるんですよ」
「なるほど、宗教か!」
さすがはハンセンだ。
謎の一端が解けたような気がして、ケリーは思わず感嘆の声を上げた。
「だとしたら、ACK66も生産工場も複数箇所ということはまずないでしょうね」
「なぜそう思う?」
「ACK66は教団の神体そのもの、宗教にとって唯一無二の存在でなければならないからです。イスラム教の聖地メッカには、日々世界中から多くの信者が押し寄せてきますが、そこには『カアバ』があるからです。水にACK66が含まれているのを信者は知らないのですから、難病が治癒したのは信仰の賜物と信じ込んでいるのでしょう。そりゃあ、感謝の祈りを捧げようと、信者は聖地に押しかけますよ」
ハンセンが言う『カアバ』とはサウジアラビアのメッカにあるイスラム教最高の聖地と見做されている『カアバ神殿』のことである。
イスラム教とは無縁のケリーにしても、マスジド・ハラームの広大な中庭の中央に置かれた立方体の神殿を取り囲む大群衆の姿をテレビ画面を通じて何度も目にしたことがある。
「ACK66は神体か……」
ケリーはハンセンの推察に感心し、唸るしかなかった。
「だとすれば、取るべき手段は一つしかありません」
ハンセンは、核心の籠った眼差しをケリーに向けてきた。
「どうするんだ?」
「破壊するんです。物理的に、かつ徹底的にね……」
「しかし、ヤツらの正体を掴まないことには──」
「金を払ったらいいじゃないですか」
ハンセンはケリーを遮って、あっさりと言う。
「金を払う? 七百万ドルも?」
既にケリーの中で、ハンセンの推測は、確信へと変わっていた。
確かに、その程度の金額はエマーソン・ジョシュアにとってみれば、大金とは言えない。しかし、それでも支払いに戸惑う言葉を発したのは、そこまで察しがついているのなら、相手の正体を突き止める手段はいくらでもあるように思ったからだ。
「費用対効果の観点からです」
そうハンセンは言って続ける。「既に連中は『水』を配布し始めていると言うんです。そして、水を持ち出し、我々に送りつけてきた男がいる……。私の読み通り配布しているのが宗教団体だとしても、特定するまでには応分の時間を要します。第一、水を送りつけてきた男には、要求を飲むと言ったんでしょう?」
言った……。確かに言った……。
ケリーはもごもごと口を動かしながら頷いた。
ハンセンは重ねて問うてきた。
「入金を確認した時点で、水を製造している者の正体を明かすとも」
「ああ、その通りだ」
「期限は?」
「三日以内……。もちろんすぐにでも支払うことはできるが、まずは君に相談してからと考えたものでね……」
「もちろん現金や、小切手の類ではありませんよね」
「仮想通貨で支払え……。セキュリティ・キーの番号を教えろとね……」
セキュリティ・キーは、仮想通貨の口座を使用する際に必要な、パスワードのことである。
「やっぱりね……」
この点もハンセンは先刻見通していたらしく、鼻を鳴らすと話を続ける。
「だったら、なおさら早期のうちに決着をつけなければなりませんね。三日以内に入金が確認できなければ、男は我々との接触を断って、二度と連絡してきませんよ」
「それで、どうするというんだ? 連絡を断ってしまったら、金を手に入れることはできなくなってしまうんだぞ?」
「それは私にも分かりません」
ハンセンは、ゆっくりと首を振る。「ただ、男がACK66を所持しているのは間違いありません。その存在を公にするとか、あるいは別の宗教団体に持ち込んで、金と引き換えに水の製造を始めるとか、手はいくらでも考えられますからね」
「だったら、男を野放しにしてはおけないじゃないか。ACK66が、その男の手にある限り、また金を要求してくるかもしれないし、他の宗教団体に持ち込むことだって考えられるんだろ?」
「その可能性は捨てきれませんが、まずない……と私は思いますね」
「その根拠は?」
「危険すぎるからですよ」
ハンセンは間髪を容れず返してきた。「使い捨ての携帯を使っているとはいえ、正体を掴まれるリスクは、接触を持つ回数に比例して高くなりますからね。それに、彼は我々が『水』を製造し、配布している組織の正体を知れば、放置しないことを承知しています。だから、水を送りつけてきたんです。つまり……」
「つまり?」
「彼の狙いは金を手に入れることともう一つ。水を製造し、配布している組織を壊滅させ、彼らが二度とACK66が入った水を配布できないようにすることにあると思うんです」
「男が組織を裏切ったというわけか?」
「逆でしょうね……」
ハンセンはゆっくりと首を振る。「裏切ったのは組織だと思います」
「なぜ、そう思う?」
ハンセンは短い間を置き、その理由を話し始める。
「男がどんな役割を果たしていたのかは分かりませんが、ACK66が発見された経緯を知っていることからしても、かなり重要な役割を担っていたのは間違いありません。ACK66を入手して、組織に持ち込んだ本人なのかもしれません」
ハンセンの話にはまだ続きがありそうだ。
ケリーは頷き、先を話すよう目で促した。
「麻薬ビジネスに譬えると、理解し易いと思うのですが……」
果たしてハンセンは続ける。
「市場性が極めて高い新種の麻薬を開発した人間がいたとしましょう。大量に生産するためには、応分の規模を持った製造施設が必要です。開発者が十分な資金を持っていたとしても、販売網がなければ宝の持ち腐れになってしまいます。そこで、開発者は販売網を持つ麻薬組織の力を借りることになるわけです。もちろん、組織が手にした利益の一定割合をもらうことを条件にです」
なるほど、そう聞くとハンセンが言わんとすることが読めてくる。
「麻薬が売れれば売れるほど、開発者に支払う報酬は増えていく。そのうち、報酬を支払うのが惜しくなるってわけか」
「社長だって、覚えがあるでしょう? 大きな市場性を持つ新薬には大抵特許があるじゃないですか。それをモノにした研究者には、黙っていても莫大な特許使用料を支払い続けなければならないのでしょう? 中には部下であるにもかかわらず、社長よりも高額な報酬を手にしている研究者だっているんじゃありませんか?」
「確かに……」
「研究者は法で守られますが、男の場合は違うんです。水を配布している組織が、ACK66の培養、水の製造方法を把握したら男は用済み。彼に支払っていた報酬は、そのまま組織の利益になる。そう考えたら、男を消しにかかっても不思議じゃありませんよ。そして、その時男に身を守る手段がなかったら?」
「ACK66が世に出たら困る相手。つまり、我々の力で組織を攻撃させ、ACK66を闇に葬ろうってわけか」
「もちろん、そうなったとしても、男はACK66を所持し続けるでしょうが、先にお話ししたように、二度と世に出そうとは考えないはずです。ですから──」
「組織の正体。製造拠点を把握し、壊滅的打撃を与えるのが先決だ。そのためなら七百万ドルなんて安いものだと言いたいのだな」
ハンセンは無言のまま、顔の前に人差し指を突き立てた。
「やれるか?」
そう訊ねたケリーに、ハンセンは造作もないとばかりに、肩をすくめて答える。
「よし……男からの電話は三日後だ。すぐに動けるよう、準備を整えておいてくれ」
ケリーは断固とした口調で命じた。
(つづく)