不慮の事故は、いつ誰の身に降り掛かっても不思議ではない。毎年一定数の人間が事故に遭い、死亡する者もいれば、それを遥かに超える負傷者が発生するのもまた事実だ。そして不思議なことに、不慮の事故に見舞われる人の総数は、まるでそこに神の意志が働いているかのように一定している。
「なるほど……。で、リスク回避のために教団と共有すべきだっていうのは、誰の考えなんだ? 今の言い方からすると、お前個人の考えじゃない。誰かの命を受けて、こんな行動に出たように聞こえるが?」
「私、個人の考えですよ」
セルフィッシュは間髪を容れず返してきたのだったが、嘘に決まっている。
思わず鼻を鳴らしてしまった礼央に、
「考えてもみてくださいよ。霊泉が製造できなくなったら、私はお払い箱。無職になるんですよ? 霊泉の恩恵に与れなくなったら、信者だって離れていきますからね。教団の財務状況は間違いなく悪化。今や宿泊施設から上がる利益は、製造工場どころか、神殿の維持費を補ってもあまりあるほどですが、それも霊泉があればこそ。信者が来なくなったら――」
セルフィッシュは畳み掛けるような勢いで続ける。
「理由はそれだけか?」
礼央は言葉半ばで遮った。「レシピを知ったところで、お前への報酬が変わるわけじゃないだろ? 私は出来高に応じて報酬をもらっているが、お前は定額じゃないか」
霊泉の製造を開始するにあたって、礼央への報酬は霊泉の効能に与った信者からの感謝の印。要は謝礼金の一定割合がキックバックされることになっていた。しかし霊泉の効能が知れ渡るにつれ、常飲を望む信者が激増したこともあって製造量も激増。そこで礼央は報酬額の算定基準の変更を申し出、製造量に応じて支払うことを教団に飲ませたのだった。
「俺が存命でいる限り、レシピを知ったところで、お前には何のメリットも生じないってことになるが?」
礼央が続けると、さすがにセルフィッシュは黙ってしまった。
図星を指されたのだ。
重い沈黙が二人の間に訪れた。
「レシピを知れば、お前にとって俺は邪魔な存在になる。それ以前にレシピを明かさない俺は、教団にとって苦々しい存在になっていたはずだ。そりゃそうだよな。霊泉は信者を獲得するキラーツールそのものだ。宗教、国家を超えて世界中で信者を獲得できるんだからな。そこで一つ訊くが、その果てにあるのは、何だと思う?」
今度の問いかけにもセルフィッシュは答える様子がない。
表情を硬くして、冷たい視線で礼央を見据えるばかりだ。
「『大和の命』の教祖が、世界に君臨する絶対権力者の座を手にするってことさ」
かつて花音と交わした会話を思い出しながら、礼央は断言した。「戦争でもない。国力でもない、政治力でもない。健康であることを望んで止まない、人間の生への執着を叶えてやれば、世界に君臨する絶対権力者の座を手に入れることができるのさ。それに気がついたからこそ、是が非でもレシピを我が物にしたい願望を抑えきれなくなった人間が、お前にレシピの入手を命じたんだろ?」
突然、今までの沈黙を破って、セルフィッシュは呵々と笑い始めた。
そして、ひとしきり笑い続けたところで、
「さすがだね。そこまで読んでいたのか。いや、大したもんだ」
しかし、目は笑っていなかった。
見据える彼の眼差しに、覚悟の色が灯っているのを礼央は見逃さなかった。
「だったら、もう一つ言ってやろうか……。レシピの入手を命じたのは花音。そうだろ?」
セルフィッシュは失笑なのか、苦笑いなのか口元を歪めると、僅かに俯き、薄く目を閉じる。
だが、体は正直だ。礼央は、微かだが、セルフィッシュの腕の筋肉が膨らみ、体全体に行動に出ようとする時特有の動きが現れたのを感じ取った。
こいつ、格闘技の心得があるな。
今までついぞ見せることがなかったセルフィッシュの気配に、礼央は備えた。
次の瞬間セルフィッシュはカッと目を見開いた。
瞳孔が小さくなっているのは、確実な打撃を与えるべく獲物に照準を定めたからだ。
果たしてセルフィッシュは、凄まじい勢いでパンチを繰り出してきた。
ストレートで顎を狙ってきたのだ。
備えはできていた。
それをすんでのところで払いながら、礼央は彼の横腹目掛けて回し蹴りを入れた。
格闘技に心得があることは、誰にも話してはいない。
おそらく彼は、礼央を学者崩れのヤワなやつと思っていたに違いない。
だから、最初の一撃を防御されるとは想像だにしていなかっただろうし、まさか反撃してくるとは全くの想定外であったのだろう。
すっかり不意を衝かれて防御することもできず、礼央の蹴りはものの見事にセルフィッシュの脇腹、それもレバーの辺りにめり込んだ。
「グワ……」
重い呻き声を上げ、セルフィッシュは脇腹を押さえ、その場に蹲る。
試合ならば、一発ノックアウト。勝負ありだが、一旦目覚めてしまった格闘本能の炎は簡単には消え去らない。
いや、格闘本能とは明らかに違う。
かつて、覚えたことのない、明らかに違う何かが、自分の体内を満たしていくのを礼央ははっきりと感じていた。
その一方で、礼央は考えていた。
セルフィッシュの狙い、ひいては花音の狙いを知り、こうして一戦を交えてしまった以上、もはや関係を元に戻すことはできない。
セルフィッシュにしても、留守を狙って密かにデータを盗もうとしたのだろうが、もし目的が果たされていたなら、その時点で自分は無用の長物、邪魔な存在になる。
花音が礼央を裏切るからには、データを入手した後の礼央の処遇は考えていたはずだ。留守の間に、データが入手できなかった場合の代替案も考えていただろう。
それは何か――。
排除しかない。
原液のレシピがパソコンの中に記録されているのは、ラボの中で原液の製造に取り組んでいる礼央の姿を間近で見ているセルフィッシュは重々承知だ。パソコンさえおさえてしまえば、パスワードを解読しさえすればいいからだ。
問題は、それからの礼央の処遇だ。
気づかれることなくレシピが入手できたとしても、礼央をどうやって排除するのか。
盗んだことが知れれば、当然礼央は黙ってはいない。どういう行動に打って出たものか、現時点では考えは浮かばないが、教団に甚大なダメージを与える手段を講じるべく、知恵を絞るのは間違いない。
ならば、黙らせるためにはどうするか……。
金か? 教団内での地位か?
いや、それはない! 断じてない。
交渉で片をつけようとするのなら、そもそもこんな行為には出ないはずだ。第一、裏切り行為を働いた人間と、何事もなかったかのように関係を継続するほどお人好しではないのは、花音だって重々承知のはずだ。
となれば、どうやって排除する? 排除するための、最も確実な方法とは?
それは、抹殺だ!
考えを巡らしたのは一瞬のことだったが、見出した結論は礼央の中で確信に変わった。
どんな手段であろうとも、目的がレシピの入手にある以上、礼央を黙らせる最も確実、かつ有効な手段はそれ以外にないからだし、それならばセルフィッシュが突然、実力行使に打って出てきたことにも説明がつく。
それは不思議な感情の芽生えだった。
いや、感情というものが、一切吹き飛んでしまった不思議な感覚だった。
目の前に蹲るセルフィッシュを倒さなければ。そして完膚なきまでに叩きのめさなければ、自分が殺られるとしか思えなくなっていた。
意志の力では、もはや制御できない。
次の瞬間、礼央は蹲るセルフィッシュの顔面に蹴りを入れた。
頭部が後ろに大きく仰け反り、白く小さな何かが吹き飛んだ。
歯だ。
セルフィッシュの口から、大量の血液が流れ出す。
何も感じなかった。慈悲も、残虐な気持ちも覚えなかった。
だから手心を加える気持ちも、毛頭覚えなかった。
セルフィッシュの半開きになった目から覗く虚ろな瞳を見ながら、礼央はまた顔面に思い切り蹴りを入れた。
それは蟀谷にヒットし、吹き飛んだセルフィッシュの頭部がステンレス製の作業台に激突した。しかも、ちょうど角にである。
鈍く、嫌な音を立ててセルフィッシュの頭部がそこにめり込んだ。
半開きになった彼の口から長く、か細い息が漏れるのが聞こえた。
それはどれくらいの時間であったのだろう。長くもあり、ほんのわずかな時間であったような気がした。
そして、息の音が止むと、セルフィッシュの目に宿っていた僅かな光が消えていく……。
台にめり込んだ彼の頭部から流れる血が、リノリウムの床に広がっていくのを見ながら、礼央は絶命したことを確信した。
殺した? 俺が人を殺した?
不思議なことに、恐怖も覚えなければ、罪悪感も覚えなかった。
その時礼央は、自分の中に眠っていた、未知の本能が目覚めたことを悟った。
俺は、いったい何者なんだ……。
床に広がっていく血溜まりを見詰めながら、礼央は己に問いかけた。
(つづく)