そもそも、今回の事件の発端は、礼央が明かそうとしない霊泉の原液のレシピを、彼が留守の間に密かに入手するようセルフィッシュに命じたことにある。
いよいよとなれば強奪するつもりであったので、セルフィッシュを製造助手として採用するに当たっては、万が一に備えて武道や格闘技などの心得の有無も確認した。
おそらく、ノースダコタのど田舎から、全米から俊英が集うミシガン州立大学に入学した際に、コンプレックスめいたものを覚えたのだろう。ファッションセンスは一朝一夕に身につくものではないし、追いつこうにも金がいる。馬鹿にされないためには、周囲の人間を圧倒する『力』を身につけることだ。
力を見せつける必要はない。その気になれば、いつでも相手を叩きのめすことができるという自信が余裕につながるのだ。
とは言え、いくら力があってもレシピを密かに入手するのには何の役にも立たない。
原液を製造するラボに入室できるのは礼央一人。レシピを手に入れる方法は二つあって、一つは彼のパソコンに記録されているはずのデータを入手すること。もう一つは、ラボ内での彼の行動を観察し、どんな薬品をどの程度の割合で調合しているのかを確信が持てるまで観察することだ。
ただ、どちらにしても高い専門知識と腕力を兼ね備えた人材がそう簡単に見つかるわけがない。しかも霊泉の秘密は漏れてはならない。となると信者であることが最も望ましいのだから、人選は難航を極めるように思われた。
そんなところに浮かび上がってきたのがセルフィッシュだったのだ。
学部時代に過剰防衛で罰金刑を課された過去があったのも好ましかった。
聞けば、ガールフレンドと映画鑑賞に出かけた際に、夜の駐車場でタチの悪い輩たちに絡まれ、三人を相手に大立ち回り。全員を叩きのめし、重傷を負わせたと言う。
アメリカではこの手の事件は日常茶飯事とはいえ、三人相手は危険に過ぎる。拳銃はまだしも、ナイフ程度の凶器は所持していると考えるべきだからだ。
圧倒的に不利な状況下で、セルフィッシュが勝利を収めたのは、おそらく彼の外見から受ける印象のせいもあっただろう。
身長は百七十センチ台、色白の痩せ型で、着衣の下は強靱な筋肉で覆われているとしても外目にはひ弱に見え、格闘技の心得があるとは思えない。
肉食獣がそうであるように、襲う側も見るからに強い獲物は狙わない。仕留められる確率が高い個体、つまり弱い個体を選んで襲うものである。
彼らにはセルフィッシュが格好の獲物に映ったことだろう。ところが、楽な狩りに終わるかと思いきや、想定外の反撃に遭った。要は、不意を衝かれた結果の敗北であったのだろうが、そこがまた花音には好ましく思えた。
なぜならば礼央もまた、セルフィッシュには同様の印象を抱くだろうし、万が一格闘になった時には、暴漢と同じ結末を迎えることになると考えたからだ。
ところがである。
「ラボの状況はどうだったの? 格闘した痕跡は残っていたの?」
スコットは静かに首を振る。
「重要物を持ち出すだけで、整理整頓する必要はありませんから。書類の類は散乱していましたけど、格闘の痕跡と言えるほどのものではありませんでしたね」
そこで一旦言葉を区切ると、「セルフィッシュの死体の写真はご覧になりましたか?」
一瞬の間を置いて問うてきた。
「いいえ……。着いたばかりだから……」
「ご覧になりますか?」
スコットは所持していたファイルに手をかける。
「写真はいいわ」
断固とした花音の口調に、手を止めたスコットは、淡々とした口調で説明を続ける。
「致命傷は頭部に受けた衝撃です。幾分ですが着衣に乱れがありましたので、格闘になったのは間違いないでしょうが、倉科に明確な殺意があったかどうかは分かりません。ただ腹部には打撃を受けた痕跡が残っていましたので、かなり強い一撃を食らったようですね。おそらく、その際の衝撃で後ろに吹き飛び、頭部をテーブルの角に打ちつけた……。多分、勝負は短時間のうちに決着が着いたと思います」
「セルフィッシュは格闘技の心得があって、学生時代に暴漢三人に襲われた時には一人で全員を倒したと聞いたけど? しかも過剰防衛に問われたほどの重傷を負わせたのよ。そんな彼を相手に、あの倉科が――」
「彼は武道か格闘技の経験があったのでは?」
「聞いたことはないわね」
「履歴書には? 彼を採用するに当たっては、当然履歴書を提出してもらったんですよね?」
礼央との出会いは偶然そのものだったし、霊泉を製造することになったのも成り行きにすぎない。一連の経緯を説明すれば、自分たちがここで何を製造していたか、霊泉がいかなる効能を発揮するものかを明かすことになる。
「彼は、信頼できる人からの紹介で、ここで働くようになったの。経歴はその方から聞かされていたので、履歴書の類いは……」
製造工場の中に入った上に、データやレシピが残されていたかの有無を真っ先に訊ねたところからも、礼央が専門的知識の持ち主であることは気がついているはずだ。
しかし、スコットはそんな気配を微塵も見せず、
「私たちは、あそこで何が行われていたのか、倉科がどんな経歴を持つ人間なのか、全く関心がありません。依頼されたことを粛々とこなすだけ。それが私たちの仕事ですので……」
スコットは相変わらず無表情、かつ淡々とした口調で言う。「ですから、現場の状況から推測されることをご報告したまでです。セルフィッシュに格闘技の心得があって、三人相手に過剰防衛に問われるほどの技量を持っていたのなら、ずぶの素人相手に易々とやられるとは考えにくい、そう申し上げているだけです」
確かに、スコットの言う通りだ。
考えてみれば礼央の経歴で知っているのは学歴ぐらいのもので、それ以外のことについてはほとんど知らない。それもこれも、霊泉を製造できる唯一の人間で、作業をつつがなくこなしてくれさえすればよかったからだ。
「ミスター・スコット……」
そこで花音は話題を変えにかかった。「あなたの組織は、人捜しも請け負っていただけるのかしら……」
「もちろんです。ご所望とあれば、それ以上のことも……」
「それ以上とは?」
「合法、非合法のいかんを問わず、あらゆることをです」
物騒なことを口にしておきながら、スコットに躊躇する様子はない。
果たしてスコットは続ける。
「日本人のあなたには想像もつかないでしょうが、アメリカにはそうした仕事を専門に請け負う組織、人間がいましてね。もちろん、スキルには差がありますが、レブロンが使うのは各分野のプロ中のプロだけです」
「各分野?」
「クライアントの依頼内容は多岐にわたりますし、状況も異なります。任務を遂行するに当たっては、監視、追跡、盗聴、ハッキング等々、諜報分野のエキスパートとチームを組むことも多々ありまして……」
「エキスパートと言っても、スキルには差があるだろうし、初めてチームを組む人だっているんでしょう?」
「その点は、ご心配なく……。我々はレブロンの人選には絶対的信頼をおいておりますし、そもそも資質に欠ける人間を彼は採用しませんので」
冷静な口調でスコットは断言する。
こうなると、そのメンバーのバックグラウンドに俄然興味が湧いてきた。
「合法、非合法のいかんを問わずっておっしゃったけど、それって犯罪行為も辞さないってことよね。法を犯すことを躊躇しないって、いったいどんな人たちなの?」
「必要悪というものは、どんな世界にも存在するものでしてね。それは公的機関であっても同じなんです」
返答を拒むかと思いきや、スコットは平然という。「たとえば、アメリカには諜報機関と称される組織がいくつかあって、どの組織にも工作員がいます。彼らは選りすぐりの精鋭たちばかりで、厳しい訓練を受け、さらに現場で経験を積み重ね、スキルに磨きをかけていくわけですが、任務の内容は合法的なものばかりではありません。むしろ非合法、立派な犯罪行為の方が多いのです。もちろん発覚すればの話ですが、工作員たちがそうした活動に日常的に従事しているのは、誰もが知っていること、つまり暗黙の了解なわけです」
「それは、何もアメリカに限ったことではないでしょう? ロシアや中国、イギリスだって――」
「大国と称される国で、工作員が非合法活動を行なっていないのは日本ぐらいのものでしょうね」
スコットは口元を微かに歪ませ、花音の言葉を遮ると、すかさず続ける。
「ただ、工作員も組織の一員です。キャリアが長くなるにつれ昇進し、後進の養成を命ぜられたり、管理者としてデスクワークに就く者も出てきます。しかし、中には現場での緊張感やスリルが忘れられなくて、現役続行を望むものもいるんです」
そう聞けば、カシスが束ねる人間たちの素性が見えてくる。
国家の利害、安全がかかった現場で、工作任務に従事してきた人間たち……。
確かに「プロ中のプロ」には違いない。
花音が納得した様子を見て取ったのだろう。
「で、私たちはこれでお役御免なのでしょうか?」
そう切り出したスコットに、
「倉科礼央を捜してほしいの」
花音は即座に答えた。
「捜すだけでよろしいのですか? 処分することも可能ですが?」
「身柄を拘束して、ここにつれてきて。多少痛めつけても構わないけど、受け答えができる状態でね……。そこから先のことは、目的を遂げた後で考えるわ」
おそらく、「その先」の依頼については察しがついたらしい。
「分かりました」
スコットは、小さく頷く。「では、早々にレブロンにその旨を伝えてください。ここから先は、別料金になりますので……」
「料金のことについては心配いらないわ。いくらでも支払う用意がありますので……」
まずは霊泉のレシピを手に入れることが最優先だ。
教義を学び、人としてあるべき姿で生きる指針とするのが本来の宗教の在り方だ。ところが明らかにご利益がある、現生利益を得られるとなると、宗教に縋る目的も変わってくる。霊泉の出現以前と以降とでは、信者の意識が変わってしまった今、信仰しても何らご利益が得られないとなれば、あっという間に信者が『大和の命』から離れていくのは目に見えている。
「では、直ちに行動に移ります」
スコットはソファーから立ち上がると、真っ直ぐ出口に向かって歩いていく。
その背中に目をやりながら、花音は言った。
「急いで! 本当に時間がないの! どんな手を使ってでも、倉科をここに連れてきてちょうだい」
(つづく)