最初から読む

 

 画像に続いて記載された文章に目をやると、アリゾナ州パサディナにある病院名が書いてあった。
 パサディナ? どうしてこんなものを川添が?
 実に奇妙だ。カバーレターもタイトルもない。ただ、病状の変化を並べているだけで、いかなる治療の効果であるのかも、経過観察すらも記載されていない。
 こんな奇妙な記録を見るのは初めてだ。これがなんらかの治療、あるいは新薬の効果なら、まさに「使用前」「使用後」の単なる比較じゃないか。
 アーリントンは、最初のページをめくり、二枚目を見た。そして再び驚愕した。
 今度のMRI画像は肝臓癌のもので、こちらもまた腫瘍が極端に小さくなっている。病院の所在地は、オレゴン……。
 これは、いったいなんのレポートなのだ?
 もし、これがなんらかの治療、薬品の効果だとしたら、医療、製薬業界に革命をもたらす世紀の大発見だ!
 今度は興奮しか覚えなかった。
 アーリントンは三枚目、四枚目とページを捲った。そしてその度に驚愕した。
 最初は癌に限定されたものとばかり思っていたのだが、心臓病、糖尿病、高血圧、腎機能と多岐に亘る病状の回復ぶりが記載されていたからだ。
 あり得ないと思った。性質の悪い冗談だとすら思った。
 もっとも、糖尿病や腎機能、高血圧などは、既存薬で改善することができるから驚くほどのことではない。しかし、これらの症例が、一まとめにされているところからして、共通した何かがあるとしか思えない。
 治療法?
 いや、それは絶対にない。ならば、薬?
 それも、あり得ない。
 これだけ多岐に亘る病状に、一つの薬が効果を発揮するなんてことは絶対に考えられない。もし、そんなものがあるのなら『万能薬』になるのだが、病の誘因は様々だし、人体の機能もそれほど単純なものではない。
 ならば、これは?
 アーリントンは考え込んでしまった。
 少なくとも癌に関しての症例は、これほどの改善ぶりが見られたら、奇跡としか言いようがない。しかし、ごく稀にだが奇跡が起こるのは事実ではある。
 ひょっとして、川添は奇跡的回復を遂げた症例を集めて、その要因を研究しようとしているのだろうか……。
 だが、それでは癌以外の症例について説明がつかない。
 やはり、これらの症例には、共通した何かがあるとしか考えられない。
 推測は、堂々巡りを始めようとしていた。
 そうこうしているうちに、川添が部屋を出て行ってから十分が経とうとしていた。
 取り敢えず、このドキュメンツを画像に残しておこう。考えを巡らすのはそれからだ。
 そう思い立ったアーリントンは、スマホを取り出すと、ドキュメンツを写真に収め始めた。
 症例は、五十は優にあり、全てを撮影するだけの時間はない。
 二十枚を画像に収めたところで撮影を止め椅子に座ったその時、突然ドアが開き、川添が戻ってきた。
「失礼したね。話を続けようか。どこまで話したかな」
 川添は、急ぎ足で戻ってきたのだろう、息を切らせながら訊ねてくる。
「学会発表のお手伝いをさせていただけないかというところまでです……」
「ああ、そうだったね。だから、その件については――」
 もはや、そんなことはどうでもいい。
 アーリントンの関心は、既に別のところにある。
 エマーソン・ジョシュアが支援する多くの医師の中にあって川添は「重点支援」にカテゴライズされている。その理由はただ一つ。彼の医師としての将来性を見込んだからだ。
 製薬業界は数多の病の治癒を目的に、日々新薬の研究開発に心血を注いでいるのだが、慈善事業にあらず。立派なビジネスだ。そしてビジネスである限り、見返りを求めるのは当然のことである。
 将来性に溢れる優秀な医師を一早く見つけ支援するのも、医学会には厳密なヒエラルキーがあり、その最上部に位置する「権威」たちの意向、判断には異を唱えにくい世界だからだ。未来の「権威」を早い段階で手中に収めておく。それが肝要なのだ。
 この構造は、宗教界のそれと酷似していて、教祖、あるいは指導者層の教えに異論を唱えることができないのと同じで、権威に逆らえば、たちまち将来を絶たれてしまうことになる。しかも現代医学の研究は細分化が進み、専門性は高まる一方だ。臨床の場にしても同じで、例えば一言で外科と言っても、胸部、一般外科からさらに細分化が進み、心臓、呼吸器、消化器等々、それぞれに専門医がいて、手術内容によっては、複数の医師の共同手術となる。その結果、専門外の知識は乏しくなり、他分野の医師の治療には口を挟みにくくなる。
 そして、治療のガイドラインは各分野の権威のお墨付きを得て確立されたものばかり。しかもその権威たちは、若かりし頃から製薬業界の支援に与り地位を得たのだ。
 そればかりか、地位を得るには、数多くの論文を公表しなければならず、そのためには研究が欠かせないのだが、研究は製薬会社の資金提供なくしては成り立たない。新薬の治験には莫大な費用が必要だが、それを提供するのもまた製薬会社である。つまり医学会と製薬業界は一心同体と言える関係にあり、資金を提供する側、受ける側のどちらが強い立場にあるかは言うまでもない。早い話が、自社が開発した新薬の効能に、有利な評価を引き出すための見返りとして、製薬会社は資金を提供していると言ってもいいのだ。
 川添の話は、もはや耳には入らなかった。
 相槌を打ちながら聞き流す一方で、アーリントンはまた別のことを考え始めていた。
 それは、「これほど劇的、いや奇跡と言うしかない症状の改善例が、なぜこれまで公表されてこなかったのか」ということだ。
 真っ先に思い当たったのは、症例数と病院数との差である。
 アメリカには全米病院協会(AHA)に登録している病院が、五千五百余ある。翻って川添が所持している症例数は五十ほど。一病院あたりにすると限りなくゼロということになる。
 人体の構造はまだまだ神秘に満ちており、現代医学をもってしても、未知の領域は多く残されていて、解明とは程遠いのが現実だ。それゆえに臨床の場では、ごく稀ではあるが医学の常識では考えられない奇跡が起こることがある。
 余命名宣告を遥かに超えても、なお存命している。あるいは、癌が消滅したなどというのはその典型例だが、医学は科学、そして科学とは再現性である。病の進行予測も、余命宣告も、膨大な症例を元に、統計に基づいて患者に告げられるものだけに、大きく外れはしないのだ。
 だから特定の地域、あるいは一つの病院で、奇跡的回復を遂げた患者が続発したとなれば、関心を抱く医師もいるだろうが、なにしろ五千五百余に対して五十例ほどである。それこそ統計上では誤差、例外として除外される数字で、大抵の医師は、関心を抱くどころか気づきもしないであろう。
 なぜならば、医学にせよ薬学にせよ、対象はマスであり、レアケースを研究するのは、それこそ時間と労力、そして費用の浪費でしかないからだ。
 となると、新たな疑問が湧いてくる。
 というのも、そんなことは川添も百も承知しているはずだし、こんな症例を集め、要因を探りたいと提案されても、研究費を提供する病院はおろか、製薬会社などあろうはずもないからだ。
 そこに考えが至ると、ますます川添が何を目的としてこんな症例を集めているのか、何をしようとしているのかが分からなくなってきた。
 まして川添は、臨床と研究を並行して行なっている医師である。
 兼ねてより行なっている研究ですら、いくら時間があっても足りないはずなのに、こんなレアケースの研究に時間を費やす余裕などありはしないのだ。第一、たった五十ほどとはいえ、全米各地に分散している病院から、どうやってこのデータを入手したのか。
 ドキュメンツにあるMRI画像は各病院が撮影したもののようだが、書式からすると医師の手によるものではないようだ。それでいて、統一されていることからすると第三者、それも一人が取りまとめたもののように思える。
 ということは、元データはその人物が、なんらかの意図を持って入手し、まとめたもので、川添はその人物から、このドキュメンツを提供されたのだろうか……。
 だとすれば、その意図とはいったいなんだ……。
「というわけで、本当に申し訳ないのだけれど、今回は君たちの手を借りなくとも済みそうなんだ。理解してくれないかな?」
 もはや、そんなことはどうでもいい。
「分かりました……。学会に出発なさる当日は、空港にお見送りに上がります」
 アーリントンは引き下がると、
「では、帰り道のこともありますので、私はこれで……」
 椅子から立ち上がり、手を差し出して握手を求めた。
「遠路はるばる来てもらったのに、申し訳ないことになってしまったね」
 済まなそうに言う川添に向かって、
「仕事ですから……」
 アーリントンは笑みを浮かべながら言い、ドアに向かって歩き始めた。

 

(つづく)