アメリカは移民の国、人種の坩堝だ。世界中に存在するあらゆる国の出身者と人種で構成されているのだが、構成比には偏りがあり、中でも日系人が総人口に占める割合はそう多くはないように思う。
そこで、ケリーは訊ねた。
「アメリカの日系人の人口はどのくらいなんだ?」
どうやら事前に調べてあったようで、リズバーガーは即座に答える。
「およそ百五十万人。全人口の○・四五パーセントですからマイノリティーですね」
「たった○・四五パーセントしかいない日系人に、奇跡としか言いようがない症例が集中しているのか?」
「少なくとも、このデータを見る限りにおいては……」
「しかも、そのデータを所持している医師も日系人?」
「ええ……」
リズバーガーは、こくりと頷く。
やはり何かある……と、ケリーは確信した。
こんな症例を集めたデータが、なぜ川添の手元にあるのか。何らかの意図があってのことに違いないだろうし、患者も全米各地に分散しているのだから、データを集めるのも川添個人では容易ではなかったはずだ。
そう考えると、思いつくのは一つしかない。
「さっき、君はデータを取り纏めたのは川添ではない、他の誰かだと言ったね」
ケリーは、改めて訊ねた。
「ええ……」
「君の見立ては正しいと私も思うね。患者の大半が日系人。データを所持していた川添も日系人というところからしても、ネットワークのようなものがあって、そこを管理している者、あるいは組織が集めたものと考えるのが妥当なんじゃないだろうか」
「ネットワーク?」
そこまでは考えが至らなかったのだろう。怪訝な表情を浮かべながら、リズバーガーは問い返してきた。
「そうとしか考えられんよ。全米各地に分散している患者のデータを、一人の医師が集めるなんて不可能だ」
一度口にしてしまうと推測は確信に変わり、言葉に勢いがつく。
ケリーは続けた。
「これは、やはり何かの効果の有無を確かめるために行なったテスト、治験結果としか考えられないよ」
リズバーガーは視線を落とし、しばし考え込むと、釈然としない様子で言う。
「しかし、これだけの効果を発揮する薬剤があるものでしょうか……。社長の推測通りだとしたら、それこそ万能薬になる可能性を秘めていることになりますが?」
その言葉を聞いた瞬間、ケリーは胸中に漣が立つ気配を覚えた。
万能薬なんてものがあるわけがないし、できやしないのは百も承知だ。仮にそれになり得る可能性を見出したとしても、製薬会社は研究もしなければ、開発にも乗り出さない。なぜならば製薬業界のみならず、医学界にとっても絶対にあってはならないのが万能薬で、そんなものを世に送り出してしまえば、医学、製薬業界は飯の種を失ってしまうことになるからだ。
「ドク、一つ調べて欲しいことがある」
ケリーはリズバーガーの視線をしっかと捉えた。「もし、これが何らかのネットワークを通じて行われた治験データなら、日系人以外にも共通点があると思うんだ。このデータにある患者について徹底的に調べてくれないか」
「それは構いませんが、徹底的に調べるとなるとMRの手に余るのではないかと……」
リズバーガーは困惑した表情を浮かべる。
理由は聞くまでもない。
彼は研究開発部門の統括者だ。治験者の背後関係を詳細に調べるのは職掌外。調査のノウハウもなければ予算もない。
「もちろん、外部の調査機関を使っても構わん。費用は私に回してくれ。とにかく早急に着手してくれ」
「分かりました……」
その言葉に納得したと見えて、リズバーガーは間髪を容れず返答すると、
「ではこれで……」
踵を返してドアに向かって歩き始めた。
2
リチャード・セルフィッシュは生粋のアメリカ人だ。
移民の国で『生粋』と言えるのは、厳密にはネイティブ・アメリカンのみなのだが、日本でも「三代続けば江戸っ子」と認められるのだから、第二次世界大戦前にアメリカにやってきた先祖を持つセルフィッシュをそう称してもいいだろう。
年齢は礼央より十歳年下で、ミシガン州立大学在学中に『大和の命』に入信。きっかけは当時交際していた女性が熱心な信者であったからだという。
本人曰く、「僕は、ノースダコタ州の田舎町の出身で世事に疎かったし、女性に耐性がなかったんですよ」と笑うのだが、さもありなんだ。
というのも、アメリカの田舎には西部劇映画から抜け出てきたような町がまだ残っていて、しかもノースダコタである。ただでさえ田舎とされているのに、そのまた田舎となれば、どんな街なのか想像がつくからだ。
実際、セルフッシュは自虐的な笑いを浮かべながら、こう語ったことがある。
「ウチは代々ノースダコタで農業をやっていましてね。半径五キロ圏内に、人家はウチだけだったんです。だから大学に入学して、キャンパスがあるイーストランシングに出てきた時には、世の中にこんなでかい街があるのかと驚いたんです。まさにカルチャーショックってやつですよ」
そんな純朴な青年が、キャンパスで全米から集まってきた同年代の若者と出会い、そしてガールフレンドまでできたのだ。しかもミシガン州立大学は、世界のベスト百にもランクインしている名門である。それまでの価値観や人生観も一変したであろうし、自分が流行に乗り遅れた存在だと自覚すれば、一気に巻き返しにかかるのは田舎者の常というものだ。
まして、初めてのガールフレンドができたとなれば、絶対に逃すまいと、歓心を買おうとする行動に出るのは想像に難くない。
彼女に誘われるまま『大和の命』に入信し、いつしか熱心な信者となったのだったが、霊泉の製造助手を命じられたのは、彼が大学時代に微生物学を専攻していたからだ。
性格は至って温厚だし、指示も的確にこなす、助手としては申し分のない人物ではあったが、礼央は完全に心を許してはいなかった。
と言うのも、折に触れ霊泉の素となる成分のレシピを探るような言動や質問をしてくることがあったからだ。
以前、花音が霊泉を世界各地の支部で製造したいと申し出てきた際には、うまく言い逃れることができたものの、霊泉は信者獲得のキラーツールそのものだ。
それゆえに、あれ以来花音が一言も霊泉の現地生産を持ち出してこないことが、礼央には気になっていたのだ。
セルフィッシュを巡って衝撃的な事件が起きたのは、そんなある日のことだった。
霊泉の製造を担当する二人の勤務は週休二日制である。
新本殿には日々多くの信者が訪れるが、週末の人出は桁が違う。
完成して暫くの間こそ、全米各地から集まってくる信者は、直近の町ラブランドにあるホテルに宿泊していたのだが、霊泉の効能に与った信者たちからの献金は膨れ上がる一方で、それを原資に教団は敷地内に宿泊施設を併設した。
部屋数六百室。ツインルームが基本だが、エクストラ・ベッドを使うことも可能で、週末ともなると二千名を超える信者で満室。もちろん有料だから、教団の新たな資金源になると同時に、礼央にもより効率よく、高い精度で計画生産を行えるというメリットをもたらすことになった。
宿泊施設の予約は六十日前から可能で、利用する信者の大半は霊泉の入手が目的だ。予約状況から新本殿で配布する量、日々各支部へ送付する量が事前に把握できるようになって、生産量を適時調節することが可能になったのだ。
とはいえ、霊泉の原液を製造するレシピはセルフィッシュに明かしてはいないので、長期の休暇は一週間が精々だ。
季節は初夏。
高地にあるコロラドは、地球温暖化の影響下にあっても、まだまだ快適そのもので避暑地に暮らしているようなものである。夏を過ごすには最適の場所と言えるのだが、今回礼央がフロリダを訪ねることにしたのは、キンジー博士の妻・エレンが半年前に亡くなったことを知ったからだ。
習慣というものはなかなか抜け切らないもので、研究者の道を断念してからも礼央は論文誌の購読を欠かさないでいたのだが、かつての恩師ウイリアムズが書いた論文が掲載されているのを目にして、久しぶりに電話をかけたのだ。
その際にふと思い出したように、「そうそう、そう言えばキンジー博士のことを覚えているかね? 彼の奥さんが亡くなったんだよ」とウイリアムズが語ったのだ。
キンジー自身はとうの昔に亡くなっていたし、その妻である。なぜウイリアムズが彼女の死を知っているのかは分からないのだが、会ったのは一度きりとはいえ、人生に大転換を齎した人物である。エレンの亡骸はサラソタ近郊の墓地にキンジーと並んで埋葬されたと聞かされて、休暇を兼ねて墓を参ることにしたのだ。
デンバーからタンパへ飛び、レンタカーでサラソタに向かって墓参りを済ませ、その足でマイアミへ。キーラーゴのホテルを拠点としてキーウエストをドライブという、まさにアメリカの大学生の夏休みの定番旅行なのだが、礼央にとっては久方ぶりのバケーションである。
普段通りに仕事をこなしていたつもりでも、やはり気が緩んでいたのかもしれない。旅に出るまでに一週間分の原液をストックしておかなければならず、出発前夜は作業に没頭したせいもあっただろう。
出発当日の未明、荷造りをしている最中に、ラボに腕時計を忘れたことに気がついたのだ。
原液を製造するにあたっては、カバーオールを着用し、手にはラテックスの手袋をはめることもあって腕時計を外すのが常である。今の時代、時刻はスマホで知ることができるとはいえ、いざ腕時計がないとなると、腕のバランスが悪く感じてしかたがない。
そこで空港に向かう道すがら、ラボに立ち寄ることにしたのだが……。
昨夜セルフィッシュは先に退勤したので、消灯は礼央自身が行ったのに、なぜか製造工場に煌々と明かりが灯っているのだ。
まだ日が昇ってもいない早朝である。セルフィッシュが出勤してくるには早すぎる。第一ここへ入る手段はエレベーターのみだし、指紋認証によるセキュリティーをクリアしなければならず、それも登録してあるのは礼央とセルフィッシュの二名だけなのだ。
いったいこれはどういうことだ?
(つづく)