第四章


「さあ、始めようか」
 純白のカバーオール(ツナギ)に身を包んだ礼央は、助手を務めるリチャード・セルフィッシュに声をかけた。
「了解です」
 気合いの入った声で答えたセルフィッシュがパネルの前に歩み寄る。コントロールパネルにあるスイッチを押すとブザーが鳴り、整然と並ぶ機材が稼働し始める。
 ここはコロラド州の森林地帯の中に、『霊泉れいせん』の製造目的で新設した工場だ。
 完成したのは一ヶ月前、以来テストを重ね、本格的に製造を開始したのは三日前のことだった。
 あの日花音は礼央に、放線菌を含んだ水を量産する計画を持ちかけてきた。
 花音は、「もし、この放線菌の存在が、製薬会社の思惑で闇に葬られてしまったのが事実なら、人類に対する背信行為、いや許し難い犯罪行為だわ」と断じ、「私はこの放線菌を世に送り出したいの。信者様が効果を実感すれば、いずれ世に知れ渡る。それが人類を幸福に導くことになるなら、こんな素晴らしいことはないじゃない」と言い、協力するよう願い出てきたのだ。
 趣旨は理解できたが、礼央はその場での返答を保留した。
 というのも、放線菌の効果はキンジーの書き残したレポートや夫人の体験談、製薬会社が多額の金を使ってまで存在を封印してしまった事実からも明らかなのだが、実際に不特定多数の人間に飲ませるとなると、解明すべき点が多々あるからだ。
 礼央自身に持病はない。だから効能と言えば気分が落ち着くというか、高揚感めいたものを感じるといった程度のものでしかない。
 もっともエレンは、リウマチが治ったと言っていたし、製薬会社の動きからも効果があると見て間違いないだろう。しかし、いずれにしても傍証であり、まだまだサンプルが少な過ぎるのだ。
 そこで、常飲し始めた母の容態を経過観察した上で、改めて返事をすることにしたのだった。
 それからおよそ一ヶ月後。母が受けた精密検査の結果は驚くべきものだった。
 診察室のドアを開けると、そこにはモニターに浮かぶMRI画像を食い入るように見ながら、首を傾げる主治医の教授の姿があった。
 教授は画面に目をやったまま咳払いをし、ようやく視線を向けてくると、
「ミズ・クラシナ……。どうぞ、そこにおかけください」
 デスクの前に置かれた椅子を勧めた。
 そして理解に苦しむとばかりに、困惑した表情を浮かべ、
「幸運にも前回の検査から全く変化はありません。他臓器への転移も広がっている様子も見られません」
 と、今度は不思議そうな眼差しで母を見つめる。
 ほっと安堵のため息を漏らし、こちらに視線を向けてくる母の気配を感じ、礼央は思わず目をやった。
 目元を緩ませる母は、「やっぱり……」と効果のほどを確信したように小さく頷く。
 礼央もまた笑みを浮かべ、膝の上で拳を握り締めて応えた。
 その間に再び画面に目をやった担当教授は、今度は検査データに目を転ずる。
「ステージ3から4の膵臓癌の進行が止まった例には初めてあいました。もちろん喜ばしいことなのですが、正直なところ、抗癌剤治療を拒否なさったあなたに何が起きているのか、今後どう展開するのかも、私には説明することができません」
「きっと神に祈りが通じたんだと思います。毎日、必死にお祈りを捧げて参りましたので……」
 普段通り、落ち着いた口調で答える母だったが、やはり声はいつにも増して明るく聞こえる。
「神に祈りを捧げるのは大切なことですが、このまま進行が止まったら、それは奇跡としか言いようがありません。膵臓癌もここまで進むと――」
 それから担当教授は、末期に差し掛かった癌は、ほぼ方程式どおりに終焉に向かって進行すること。確かに、奇跡的に生き長らえる患者もいないではないが、天文学的に低い確率であることを説明し、
「ミズ・クラシナ、これは大変貴重な症例です。今後は十日の間隔で、検査をお受けください。もちろん、費用はご負担いただかなくて結構です。全額こちらで持たせて頂きますので……」
 今度は、極めて珍しい症例に出会った興奮を露わに申し出てきたのだった。
 かくして請われるままに、母は十日ごとに検査を受けることになったのだったが、二度目の検査で、膵臓癌本体に縮小する傾向が見られただけでなく、転移と思われた病巣が消滅したと判明した時の担当教授の驚きよう、興奮ぶりは尋常ではなかった。
「専門的な解説は致しませんが、抗体レベルが驚くほど向上しています。いったいどんな暮らしをなさっているのです?」から始まり、「何か特別なものを召し上がっているとか?」。「サプリメントの類は?」等々、矢継ぎ早に質問する。
 もちろん、放線菌を含んだ水を常飲していることは明かさない。
「ひたすら神に感謝とお力添えを請う祈りを捧げる日々を送っているだけです。祈りを捧げると、心が落ち着きます。進行が止まったと聞かされてからは特に……」
 母はしれっとした顔で答え、続けてこう言い放った。
「日本には『病は気から』という言葉があるんです。精神状態が安定していれば、病にはそう簡単には罹らない。科学とは無縁の暮らしを送っていた時代なのに、先人たちは病の本質というものを本能的に理解していたんですね」
 母の膵臓癌が、快方に向かったところで、ひとまずロサンゼルスに戻った礼央は、その時点で放線菌を含んだ水を世に送り出す計画に参加することを決意していた。
 理由は二つあって、その一つ目は、この先、研究者の道を歩んだとしても、キンジーが持ち帰ったこの放線菌以上の大発見に巡り会えるとは思えなかったこと。二つ目は、仮に巡り会えたとしても、医療、製薬業界に大打撃を与えるような発見と見做されれば、キンジー同様の展開を迎えることが明らかなように思えたからだ。
 礼央はすぐに花音とコンタクトを取り、「まだまだ解明しなければならない点」があることを告げた上で、申し出を受け入れる旨を告げた。
 それからの花音の動きは素早かった。
 早くも一ヶ月後にロサンゼルスにやってきた花音は、
「まず、アメリカで、重篤な病を抱えていらっしゃる信者様に放線菌入りの水を飲ませて、効果のほどを確認しましょう。製造工場を設けた上で……」
 と言い、工場建設から米国内にある協会への輸送プラン、信者への配布方法を記した詳細なプランを手渡してきた。
 あまりの手回しの良さに、苦笑いを浮かべてしまった礼央に、
「あっ、最初に言っておきますけど、このプロジェクトは片手間ではできませんからね。礼央さんには、アメリカ側で総指揮を取っていただきますので」
 既に決定事項であるかのように言う。
 これにはさすがに驚愕し、
「僕が?」
 礼央は、思わず問い返した。
 ところが花音は、
「当たり前じゃないですか。製造工場に必要な機材やレイアウトは礼央さんが誰よりも分かっているんですもの、他に適任者がいるわけないでしょ?」
 お嬢様気質丸出しで言い、さらに驚くべき計画を明かした。「この計画を機に、アメリアに新本殿を建設することが決まったの」
「新本殿?」
「そう、新本殿。それも壮大なものをね……。製造工場の存在は教団の最高機密。誰にも知られないよう、新本殿の地下に設けることにします」
「ちょっ、ちょっと待ってくれ」
 驚きの連続に、礼央は思わず顔の前に掌を翳し花音の勢いを制した。「そりゃあ、放線菌の効果は疑ってはいないけど、まだテストもしていないうちから、新本殿だとか、地下に製造工場だとか建てちゃって大丈夫なのか? もし問題が発覚したら――」
「その点はちゃんと考えてあるわよ」
 花音は平然と礼央を制し、全く予想もつかなかった答えを返してきた。
「新本殿はコロラドに設けることにしたの」
「コロラド? どうして?」
「理由は二つあってね。一つは、放線菌入りの水を全米の信者様にお届けするには、北米大陸の中心部に置くのが最適だから」
 確かにコロラドの州都デンバーには、北米有数のハブ空港があることからも、物流を考えれば最適地と言えるだろう。
「なるほど」
「二つ目は、上質な水が採取できること。信者様に飲んでいただくんですもの、水質はいいに限りますからね」
 言われてみれば、アメリカ産のミネラルウオーターの中には、ロッキー山脈のイラストが描かれた帯が巻かれているものがある。つまり水質、物流双方の条件を満たすとなると、確かにコロラド以外にはない。

 

(つづく)