4
ハノーバーを離れた礼央は、オンタリオ湖からエリー湖沿いに陸路西に向かい、二日後にはミシガン州に入った。そして三日目の午前九時、予告した通りケリーに連絡を入れた。
コロラドを離れて以来、移動中は一貫してモーテルに宿泊した。
もちろん、それには理由があって、モータリゼーションの本場アメリカにはモーテルが至る所にあって、空室があれば道路沿いの看板に『VACANCY』と表示されており、予め宿泊場所を確保しておく必要がないからだ。
つまり、当の本人でさえどこに泊まるかは気分次第なのだから、「大和の命」が礼央の居場所を把握するのをより困難にすると考えたのだ。
テーラーから受け取った使い捨て携帯電話は五台。足がつくとは思えないが、ケリーに連絡を入れるに当たっては、念を入れて前回とは違う機材を使った。
「ハロー……」
呼び出し音が聞こえてくるや、連絡を待ち構えていたのだろう。秘書を介することなく、ケリー本人の押し殺した声が聞こえてきた。
「グッド・モーニング、ミスター・ケリー」
礼央は努めて明るい声で切り出した。「ハウ・アー・ユー・ドゥイング」
「大金をむしり取られるってのに、気分がいいわけないだろう……」
苛立ちの籠った声でケリーは答える。
「それはちょっと違うんじゃないか? 会社が存亡の危機に立たされるのを未然に防げると考えたら、七百万ドルなんて安いもんじゃないか。放置していたら、あんたたちのビジネスは終わるところだったんだぜ?」
前回同様ボイスチェンジャーを使っているので、ケリーはドナルドダックを相手に話しているように感じているはずだ。
会話の内容はシリアスなのに、相手の間の抜けた声に苛立ちを覚えるのか、あるいは図星を突かれた悔しさからなのか、ケリーは一瞬押し黙ると、
「入金は確認したよな」
ぞんざいな口調で問うてきた。
「ああ、確認したよ……」
仮想通貨での支払いをアドバイスしてきたのは、テーラーである。
彼は元SEALsの隊員だが、所属している組織はCIAを始めとするアメリカの情報機関で工作任務に就いていた者ばかりで構成されており、マネーロンダリングや不正送金等の手口を熟知している。もちろん現役時代は摘発する側であったのだが、その分だけ安全に金を受け取る方法にも通じているのだ。
礼央が指定した口座もまた、テーラーが用意してくれたもので、入金を確認した時点で即座に全額を別の複数口座へ転送。これを繰り返し、最終的にはタックスヘイブンの銀行口座に入金することにしていた。
「さて、そうなると今度は君が約束を果たす番だ……」
ケリーは有無を言わせぬ口調で促してくる。
「あの水を製造しているのは、日本に本部を置く『大和の命』という宗教団体だ」
礼央が正体を明かすと、
「やっぱり宗教団体か」
意外にも、ケリーは察していたように言う。
「ほう、なぜ分かった?」
思わず礼央が問い返すと、
「君の話の中には、製造者につながるヒントがいくつかあったからね。病が治癒した患者は、『水』の効能だとは気づいていない。他の何かの恩恵に与ったと信じ込んで金を持ってくると言った。となれば神、つまり『水』を製造しているのは宗教団体しかないじゃないか」
馬鹿にするなといわんばかりに忌々しげに言う。
「なるほどね。よく気がついたな」
「で、その『大和の命』は、どうやってキンジー博士が発見した放線菌を入手したんだ?」
「それを話すことはできないな。第一、いまさら入手した経緯を知ったところでどうなるものでもないだろ? 『大和の命』が放線菌を手に入れて、信者に飲ませているのは事実なんだ。まずは、それを止めさせるのを最優先にすべきなんじゃないのか?」
「確かに……」
ケリーは素直に同意すると、「で、彼らはどこで『水』を製造しているんだ?」
続けて訊ねてきた。
「製造施設は一箇所だけだ。彼らは『水』の製造を始めるに当たって、コロラドのデンバー郊外に広大な土地を購入して、新本殿を建設したんだ。そこの地下二階に放線菌を培養するラボと製造施設を設けたのさ。近くの湖から、水を引いてね……」
「コロラドか……」
「知っているとは思うが、あそこは天国を感じさせる場所だからね。高地なだけに太陽の光は眩いばかりだし、豊かな自然に恵まれているから大気も澄み切っている。そこに広がる大森林の中に、新本殿が聳え立っているんだ。そりゃあ一目見ただけで信者は神の存在を感じるさ。現に難病が治癒したという噂は、信者の間に広まっていてね。もちろん『水』の効能だとはつゆほども思っちゃいないよ。信心の賜物と信じて疑っちゃいない。だから、新本殿を訪れる信者は全米各地から押し寄せて来ていてね。教団は新本殿に隣接して宿泊施設を建てるまでになったんだ」
「宿泊施設?」
「まあ、早い話がホテルだね」
礼央は、笑い声を上げた。「仏教には『お布施』、神道には『初穂料』というのがあるそうでね。寺や神社に金銭を献じる習慣……、さしずめドネーション(寄付)といったところなんだが、信仰の深さ、感謝の印を表すのはやっぱり金なんだよ。だから、信者たちは新本殿を頻繁に訪れる。その度に、願いを叶えてもらえるよう、あるいは病を克服できた感謝の印として、相当な金額を教団に寄付し、さらにホテル代まで支払って帰っていくんだ。ボロい商売だろ?」
「それもこれも『水』が絶大な効力を発揮しているからってわけか……」
「噂が広まるにつれて、信者の数も順調に増えているらしいね。当たり前さ。現代医学では治療困難とされる病が『大和の命』に入信したらあら不思議、奇跡が起きるんだもの、そりゃあ入信希望者が殺到するさ」
礼央はケリーに焦りを覚えさせようと、噂が広まっていること、信者の数が激増していることをさりげなく伝えた。
「信者の数が増えている?」
果たして、ケリーの声に緊張感が増す。
「噂ってもんは一旦火がつくともの凄い勢いで広まるものだからね。しかも、『大和の命』の神は奇跡を起こすんだもの、そうなるに決まっているじゃないか。とは言え――」
礼央は、そこで思わせぶりにいったん言葉を区切った。
「とは言え、なんだ?」
「いずれ、奇跡は神が起こしたものじゃない、水のせいなんじゃないかと気がつく人間が必ず出てくるだろうね」
礼央の発した言葉が胸に突き刺さったのか、ケリーは一瞬の沈黙の後、
「ラボと生産施設は、コロラドの新本殿の一箇所だけなのか? 全米各地から信者が集まってくると言ったが、教団は他にも教会を持っているんだろ?」
と訊ねてきた。
「教会は全米各地にあるが、ラボと製造施設はコロラドの一箇所だけだ」
「それじゃ、水の配布は、全てコロラドから行っているんだな?」
「ああ……。コロラドで製造された『水』はボトリングされて各教会に配布されているんだ。信者がコロラドに詣でるのは、イスラム教のメッカ巡礼のようなものなんだけど、考えてみればおかしな話でね。御神体は日本にあるってのに、コロラド詣でを繰り返しているんだからね」
しかしケリーは礼央の言葉に反応することなく、呟くように言う。
「そうか……コロラドの一箇所だけか……」
彼が何を考え、次にどんな行動に出るかは、その一言で分かろうというものだ。
そこで、礼央は問うた。
「他に何か聞いておきたいことは? 約束は果たしたことだし、私からは二度と連絡を取ることはないよ。もちろんこの番号にかけても、つながりはしないが?」
ケリーはすぐに言葉を返してこなかった。
(つづく)