今から38年も前のことである。片岡鶴太郎司会による、懐かしのテレビドラマを振り返る特別番組をぼんやりと眺めていた。すると、大好きだった『傷だらけの天使』の、見慣れたタイトル映像が流れてきた。

 軽快なロックンロールに乗せて、主演の萩原健一(当時24歳)がベッドから起き上がる。つづけて小さな冷蔵庫から食べ物を取り出すと、乱暴な手つきで次々に口へ放りこむ。トマトを丸ごとかじる。クラッカーをほおばる。そして缶入りコンビーフにかぶりつく。

 その最後で驚いた。1974年の本放送では流れなかった映像が、出てきたではないか。ビン入りの牛乳を飲むまでは放送版と同じだが、その直後に、残りの牛乳をカメラに向かってぶちまけ、画面が真っ白になったのだ。カメラをにらむ萩原のまなざしが怖いくらい挑発的で、思わず心臓を射貫かれた。数日後、売り出し中だったとんねるずの2人が、深夜のラジオ番組でこの映像の話を持ち出して、「あれ、初めて見たよ! カッコイイー!」と興奮していたが、まったく同感だった。

 果たして、あの「牛乳ぶっかけ」は何だったのか。放送で使われなかった理由が、関係者たちの証言から、少しずつわかってきた。

 萩原健一は、バンドでの歌手活動を経て役者業を始め、その直後にドラマ『太陽にほえろ!』の新人刑事役に選ばれた。放送は夜8時。家族がそろって見る時間帯なので、日本テレビの岡田晋吉ひろきちプロデューサーは、犯罪の動機としてセックスを扱うことや、公序良俗に反する描写を禁じた。たとえば萩原が、本番中に即興で道ばたにツバを吐いても、そのくだりを編集で切ったのだ。萩原は自らの感性になじまない制作方針に不満を募らせ、1年後に降板、意気投合したスタッフと、新たな主演ドラマの構想を練り始める。その顔ぶれは『太陽に~』のプロデューサー補だった清水欣也(当時日本テレビ)、かねてより親交があった脚本家の市川森一らである。

『傷だらけの天使』、通称『傷天』を作ったのは、東宝と当時、萩原が所属していた渡辺企画。萩原が「現役で活躍中の映画監督に撮ってほしい」と希望し、東宝出身の映画監督である恩地日出夫が、前から親しかった深作欣二と、萩原と仕事の経験がある神代くましろ辰巳と工藤栄一を誘って、撮影が始まった。

 タイトル映像はその恩地が演出した。だが撮影の日程にゆとりがなく、萩原が自ら考えたアイデアを、カメラを止めずにワンカットで撮った。牛乳をぶちまける場面は、カメラの前に板ガラスを立てて撮ったが、ビデオで見返すと、その場面でカットが変わっているので、少し間を置いてから撮ったのだろう。

 プロデューサーの岡田晋吉は『傷天』では助言者として関わったが、撮り終えた映像を見て「牛乳ぶっかけ」を切るように命じた。理由は、食べ物を粗末にしてはいけないから。非常識を嫌う、岡田らしい判断である。では「牛乳ぶっかけ」の映像はなぜ廃棄されず、しかも撮影から12年も経って、突如として放送されたのか。真相は今もわからない。

『傷天』のタイトル映像には、もう一つ世に出なかった物がある。当初は萩原の顔を描いたイラストを使う予定だったが、途中でボツになったのだ。プロデューサーの一人だった工藤英博(当時渡辺企画)いわく、この決断は日本テレビ側の意向とか。イラストの作者は、売れっ子の和田誠。かつて当人に直接尋ねたら「イラストは、演出の恩地さんから頼まれたと思う。ぼくは彼が撮った映画『めぐりあい』に参加したことがあるから」とのこと。その後のいきさつは覚えがなく、描いたイラストも手元に戻らなかったそうだ。

 では『傷天』はどんな内容だったのか。都内の演劇博物館が所蔵する番組の最終企画書を読むと、テーマは現代の若者が抱える心の「渇き」。これを体現したのが修(萩原健一)と弟分の亨(水谷豊)で、2人の青年は、狡猾で冷徹な社長(岸田今日子)が営む探偵社の下働きとして、危ない仕事ばかりを請け負う。彼らは満たされない生活から抜け出したいが、情に流されやすく、いつも最後で社長の命令に背いて、自らの正義を貫いてしまう。

 撮影は屋外が多く、照明を当てない盗み撮りもしばしば。しかも、萩原が段取りに囚われることなくセリフをしゃべり、動くので、現場のスタッフは対応力が試された。撮影担当の田端金重はこう証言する。

「当然のことながら、キャメラも走ったり転んだり殴られたり、はたまたヌレたり……。時には三脚を全然つけずオール手持ちもザラで、こんなに好き勝手に撮っていいのかなあと、ふと考えてみたりして」(「映画撮影」1975年1月号)

 その田端も参加した最終回にゲスト出演した、俳優の柴田美保子さんに話を聞いた。

「本番では萩原さんが顔を近づけてまくし立て、私を脅すのですが、セリフはほぼアドリブ。でも、私は演技経験が10年ほどあったので、うろたえませんでしたが。あのとき私はおかっぱ風のかつらを被りましたが、その前に時代劇でご一緒した、監督の工藤栄一さんからの提案でした」

 実は柴田さんは、『傷天』に企画から関わった市川森一の奥様。夫を通じて以前から萩原と交流があり、市川と同棲中だった自宅に、萩原が遊びに来たこともあるそうだ。

 初放送こそ視聴率は悪かったが、再放送を重ねるごとに評価を高めた『傷だらけの天使』。この伝説のドラマの成り立ちにも、興味深い物語があった。それは次の回で。