夜遅くに帰宅し、眠い目をこすりつつテレビの電源を入れた。すると女優の樹木希林と小林聡美が関西弁で漫才をやっている。芸達者な二人だけに、息もぴったりで面白い。コントかと思ったらドラマだった。題名は『おやこどん』。のちにネットで何度も調べたが、なぜか情報がない。あれは夢だったのか。
そこで調査を始めた。放送直後に書き留めたメモによると、放送局はフジテレビで、演出は小泉守。現在は番組制作会社を率いる氏に会って、話を聞いた。
「演出を頼まれたときは、すでに出演者が決まっていたが、脚本を読んでやる気になった。特に事件が起きず、劇中の会話もありふれている。なのに、そこについ忘れがちな大切なものがあって、心が温かくなったんです」。
小泉に声をかけたのが、プロデューサーの三宅川敬輔さんである。
「ドラマ『LUCKY 天使、都へ行く』に参加した際、出演者の小林聡美さんと、所属事務所の安藤社長と知り合った。その後、社長から、聡美さんと樹木希林さんの主演でドラマができないか、と提案されました」。
実は樹木と小林は、その前に映画で2度、親子役を演じている。かつて取材した希林さんいわく、自分の丸い顔が小林と似ていることを面白がり、2回目の共演作『さびしんぼう』では、わざと髪形も髪飾りも同じにしたという。もう一度、小林と親子を演じたい。その思いが『おやこどん』で実を結んだのだ。
物語の主人公は、大阪で活動中の漫才師、サンデー・イキルのぞみ。46歳のイキル(樹木)と娘のぞみ(小林)のコンビである。
なかなか売れない2人に、運が向いてきた。まずのぞみにラジオ出演の話が舞いこみ、ある青年との間に淡い恋心が芽生える。一方、イキルは言語学者で漫才好きの猫田(岸部一徳)と出会い、引かれ合う。だがのぞみは、悩んだ末にラジオ出演の依頼を断ってしまう。もし自分だけが売れたら漫才ができなくなる。母がそう心配すると思ったからだ。また青年との恋も実らず、イキルの方も、猫田と婚約したものの「結婚アレルギーや!」と一方的に別れを告げてしまう。そして、なんとなく大阪に居づらくなった2人は夜逃げをし、着の身着のまま夜行列車に飛び乗るところで、物語は終わった。
脚本は新人の妻鹿年季子。のちに夫となる和泉務と「木皿泉」の名前で創作を始めたばかりで、話題のドラマ『すいか』を書くのは十年後である。彼らの名を広めたフジテレビの人気ドラマ『やっぱり猫が好き』への参加は、その『すいか』にも主演した、小林聡美の推薦がきっかけだった。無名時代の木皿が書いたラジオドラマに出演した小林が、その内容を気に入っていたからだ。
のちの木皿ドラマと同じく、『おやこどん』でも、平凡な会話から、真理を突いたりクスっと笑えるひと言が飛び出す。たとえば、いつもは冗談ばかり言うイキルが、珍しく娘ののぞみに人生を語る。「人は誰でも、泣いて、忘れて、また生きる。ええがな」。また、劇画家のつげ義春が好きなイキルは意外に物知りで、自戒をこめて犬につぶやく。「人間は楽な方へ流れてしまうからなぁ。慣性の法則やね」。博識だが浮世離れした猫田が、のぞみに幸福論を語る。「タコ焼きがまん丸に焼けるのを見てると、幸せなんです。でも家で一人で焼いたタコ焼きは、半円になる。うまいこと球にならない、不幸なタコ焼きです」。特に傑作なのが、のぞみが生まれて初めて発した言葉で、母イキルに「バイバイ!」と言ったというのだ。タコ焼きの話は、関西出身の妻鹿の実感から出たセリフか。また見せ場の親子漫才は三度あリ、軽妙なボケツッコミのかけ合いが愉快である。このあたりは、漫才の台本を書いてきた夫の和泉務も、アイデアを出したのかも知れない。
撮影は大阪市内で行なわれた。だが親子漫才だけは、都内の浅草にある演芸場の木馬亭で収録し、三宅川プロデューサーも立ち会った。自身が大阪出身なので、東京の下町で生まれ育った樹木と小林に、地元ことばの微妙な言い回しについて助言したのだ。「そうしたのは、関西出身ではない役者さんが使う大阪弁に、前から不自然さを感じていたから。それから主人公の親子を、訳あって東京から大阪へ逃げてきたことにして、もし関西弁に難があっても不自然ではないようにしました」。
衣装担当は石田節子さんで、ほぼ前例がなかった着物専門のスタイリストとして修業中だった。「ドラマ『やっぱり猫が好き』に参加した際に、小林聡美ちゃんの事務所の社長と出会い、その流れで『おやこどん』も頼まれました」。イキルのぞみが身につける着物を選び、舞台衣装を自ら作った。「外見がそっくりな親子なので、対のイメージが思い浮かび、年代ものの振り袖を二つに切って仕立て直し、黒い方を希林さん、オレンジの方を聡美ちゃんに着てもらいました」。撮影後、着物好きの樹木に声をかけられ、彼女が所有する着物の仕立て直しを任された。交流は樹木が亡くなるまで続き、『おやこどん』の台本を、記念の品として今も大切にしている。
撮影は1992年で、金曜夜9時から2時間ドラマとして放送されるはずだった。だが予定が変わり、数年後、深夜にひっそりと放送された。「殺人もサスペンスもないので、2時間ドラマとしては地味。でも実現したい内容だったので、フジテレビには半ば強引に企画を通しました」。こう振り返る三宅川も演出の小泉守も当時、名演出家の久世光彦が率いたKANOXに所属。だが同社はのちに解散し、映像の所在もわからない。この掛け値なしの名作、どなたか録画していませんか。