第1弾の放送から、すでに57年。今も新作が放送中のウルトラマンは、テレビが生んだ特撮ヒーローの代表格だろう。だがその初期シリーズは、やや趣を異にした。正義の使者が悪を倒すだけでなく、登場人物の人間性を掘り下げたり、ゆえなくしいたげられる者たちの怒りや哀しみも描いたのだ。

 その傾向が強くなったのは、シリーズ途中からTBS側の担当プロデューサーになった、橋本洋二の存在が大きい。氏には計4回取材したが、そのなかで特に興味を持ったのが、入社してからディレクターとして10年間携わった、ラジオ番組の数々に関する裏話である。

 橋本は1931年に生まれ、現在の筑波大学で社会科学を専攻。卒業後、厚労省への就職を決めたが辞退し、TBSの前身ラジオ東京へ。初めて制作に関わったドキュメンタリー『伸びゆく子どもたち』では、2年半にわたって各地へ出かけて、少年少女にマイクを向けた。自らの意見を堂々と口にする彼らは「現代っ子」と呼ばれ、流行語にもなった。

 敗戦から立ち直りつつあった当時の日本。だが、まだ差別を受けたり貧しい人たちが、大都市から離れた地域ほど多くいることを、現地に出向いて強く感じたという。

 たとえば沖縄では「表面の政策がどう変わろうとも、基地沖縄の持つ矛盾は、少しも解決されていない(略)。もちろん、難しい問題はたくさんある。しかし、それを沖縄の人たちだけに押しつけて、対岸の火事を見ているような態度では、解決の日はなかなかやってこないだろう。日本人共通の問題として考えるべきである」(「部落」59年7月号より)。

 その後はラジオドラマを演出。『死ヌトキハ虫ノヨウニ』(64年)は会津地方の学校を舞台に、辺地教育を取り上げた。また、長崎で被ばくした少女のその後を描いた『ヨブの娘たち』、ヒマラヤ登山隊が苦難に立ち向かう『海抜八一五○』(共に65年)は、共に逆境に立たされた人たちの物語だった。

 35歳のとき志願してテレビ制作へ。きっかけは、『ウルトラマン』を見て「映像表現の可能性」を感じたからだ。以後、およそ10年にわたって、主に子ども向け連続ドラマの企画プロデュースに携わった。

 橋本に、ドラマ作りの信条を尋ねた。

「脚本を作るときに、最初に担当の脚本家、監督そしてプロデューサーのぼくの三者が意見をぶつけ合い、そこから着地点を見つけます。そうすることで、それぞれが、持てる力以上のものを出せると思うんですよ」

 橋本はラジオのディレクター時代に、取材を通して、つらい環境にあってもたくましく生きる人物と数多く出会い、彼らの素顔に触れた。果たして、のちに子ども向けのテレビドラマを作るようになっても、脚本家たちが描く登場人物にリアリティーを求めた。

 上原正三は『ウルトラセブン』(67年)を書いた際に、2代目プロデューサーの橋本から問いかけられた。「隊長が発令する『出動!』も毎話違うはずだというのだ。人間はその日によって感情も違う。隊長がその時どんな思いで『出動!』を発令するのか? そこまで考えてセリフを書いているのか」(『上原正三シナリオ選集』より)。

 上原が『帰ってきたウルトラマン』(71年)で書いた「怪獣使いと少年」は、橋本が担当だったからこそ生まれた会心の作だ。なぜなら上原は、若き日の橋本も訪れた沖縄の出身。しかも彼は、劇中に登場する少年に異邦人としての自分を重ね、少年が抱く疎外感を痛々しいまでに描き出したからである。

 のちに橋本がドラマ制作の現場を離れても、脚本家たちとの交流は続いた。彼らが発起人となった「はしもと会」がしばしば開かれ、橋本と酒を酌み交わし、熱く語り合った。

「橋本学校なんて呼ぶ人もいるけど、ぼくは脚本家を育てたつもりはない。担当したドラマをより良いものにしたかっただけです」

 当人はそう振り返るが、シナリオを書く上で橋本が求めたことは、脚本家にとって「試練」だったはずだ。そこで逃げ出した新人もいたが、奮起した若手も多かった。その筆頭が上原正三である。

「局内の別室で直しを重ねたが、橋本さんも居残って書き直した原稿に目を通してくれた。帰宅が深夜になることもしばしばで、その時、『奥さんに』とトップスのケーキを渡してくれた。それが心のスタミナになった。きついけれど熱意が伝わるから耐えられた」

(前出の著書より)

 また長坂秀佳は、『日本沈没』で担当の橋本と何度も衝突した。「『オマエはドラマを知らない』『橋本さんこそ1時間ドラマがわかってないんじゃないの!』(略)わたしは橋本さんに『父親的』なものを感じていたのではないか」(『長坂秀佳術』より)。

 橋本に鍛えられた若き脚本家たちは、ほどなくして活動の場を広げていった。

 今は亡き佐々木守は、持ち前の企画力を生かして、高視聴率ドラマを量産した。市川森一(故人)は軸足を大人向けドラマに移し、NHKの大河ドラマも3度担当。上原正三は東映作品を中心に、亡くなるまで、数多くの子ども向けヒーロードラマを世に送った。

 脚本を書きながら、小説も執筆して評価された人もいる。長坂秀佳は、第1作『浅草エノケン一座の嵐』が江戸川乱歩賞を獲得。また阿井文瓶は「阿井渉介」の名で、今までに30作ほどのミステリー小説を発表している。

 自分くらい脚本家とやり合ったプロデューサーはいないと思う、と橋本。「その後も活躍した人たちは、私の言う通りには絶対に脚本を直さなかった。気骨があったんですね」。