かつて大人気を博した任侠映画の看板役者といえば、俳優の高倉健である。演じた役柄は、いつも物静かで、義侠心にあふれ、情に厚い男。だが健さんは、邦画が下火になると古巣の東映を離れ、映画に出演しながらテレビにも進出し、83歳で世を去るまでに、計4本のドラマに主演した。

 その2本目が、1992年放送のNHK『チロルの挽歌』で、これは異色作だった。ここでこの名優が演じたのは、口の重い自分を変えたくて、おしゃべりになろうと努力する男。健さんの無口なイメージとの落差が大きく、非常に意表を突かれた。

 健さんが扮した中年男の実郎は、仕事熱心な鉄道技師だが、あるとき上司からテーマパークの運営を命じられて困惑する。生マジメな上におしゃべりが苦手で、冗談も言えない。そんな自分に、乗客を相手にするサービス業が務まるのか……。悩んだあげく実郎は、自らの性格を変えようと、ある「練習」に励む。それは新たな魅力を身に付けることで、男を作って家出した愛妻(大原麗子)を振り向かせるためでもあった。

 とりわけ笑いを誘ったのが、実郎が妻の父と再会し、畳に正座して小さなテーブルをはさんで向かい合う場面だ。実郎が「結構しゃべれるようになりました」と少し胸を張ると、義父が「ほんとか?」と疑う。直後に実郎が披露したのが、新たな職場に移ってから練習を始めたこと。それが早口ことばだった。

「親亀の背中に子亀をのせて、子亀の背中に孫亀のせて。生むぎ、生ごめ、生たまご」。 一度も突っかからずに言えた実郎が、ほっとした表情を見せる。これだけでも愉快なのに、さらに笑いをふくらませるひと言が飛び出す。義父が「たいしたもんだ!」と、大げさにほめたのである。その瞬間に照れまくる実郎が、何とも愛らしかった。

 脚本は名匠・山田太一。かつて当人に取材した際に語ったところでは、早口ことばの場面を書いたのは、「健さんの喜劇的な面を引き出すため」だという。意外なことに健さんは、コメディー系の映画やテレビ番組を見るのが大好きで、のちに志村けんに声をかけて、自身の主演映画に出てもらったこともある。山田はこの老練な俳優の知られざる一面を、しっかりと見抜いていたのである。

 山田は脚本を書く際に、登場人物の動作などを記した「ト書き」を、とても綿密に書くことで知られる。NHKのドラマ演出家・富沢正幸は、その理由について、山田は「自分の思いを他人に正確に伝えることが、どんなに難しいことなのかをよく御存知だからでしょう」と記し、自身が『チロルの挽歌』を演出した際、撮影後にト書きの読みちがいに気付き、その場面を撮り直したと告白している(「ドラマ」1992年5月号より)。

 この演出家は「早口ことば」の場面も脚本に忠実に撮っているが、ト書きにはない描写を足した部分がある。健さん扮する実郎が妻の父と対面した際に、きちんと正座し、さらに両手をひざに置いて身を小さくしているのだ。妻の家出を申し訳なく思って恐縮している感じが、よく出ているではないか。また早口ことばをしゃべる際には、視線を宙にやりながら、ひと言ずつ慎重にそらんじてみせた。絶対に言い間違いをしたくないという実郎の真剣さが、より強く伝わる芝居である。こうした描写はリハーサルの最中に生まれたものだろうが、動きなどを決める際に、健さんから提案したのかもしれない。

 当時の山田太一は、健さんのみならず、その他のベテラン俳優にも、その人のそれまでのイメージをくつがえす役柄を演じてもらい、新たな魅力を引き出している。

 TBS『岸辺のアルバム』(1977年)では、清純派の八千草薫が、夫に失望して不倫に走る貞淑な妻に扮した。TBS『深夜にようこそ』(1986年)では、アクションが得意な野性派の千葉真一が、仕事に疲れた巨大商社の企業戦士を演じ、人との温かな交流を求めて、素性を隠してコンビニで働いた。

 これも忘れがたいのが、健さんと並ぶやくざ映画のスターだった鶴田浩二が、吉岡という初老の警備員に扮したNHK『男たちの旅路』(1976~82年)。吉岡は自分より30歳も若い部下の女(桃井かおり)から、愛の告白を受ける。吉岡は独身で、この女に好意を持っているが、彼女が難病と闘っていることもあって、気持ちを受け止める勇気も覚悟もない。ほどなく彼女は亡くなり、吉岡は後悔と自責の念から仕事を辞め、酒びたりの日々を送るようになる。鶴田浩二は、映画で身も心も「強い男」を演じつづけた。だが吉岡には心の弱さがあり、脚本の山田は、そのことを愛情を込めて描いていた。

 また山田は、日本テレビ『ちょっと愛して…』(1985年)で、樹木希林に、それまで男に縁がなく、婚活を始めたものの成果が出ないデパート店員を演じさせた。物語の後半で、彼女は冴えない男(川谷拓三)と生まれて初めて口づけを交わし、のちに彼と結婚する。このときの、唇を重ねた瞬間、緊張のあまり全身が固まってしまう樹木の芝居が、とても可笑しかった。樹木が恋する女を演じたのも珍しいし、あのキスシーンは、俳優人生初の体験だったはずである。

 山田太一によれば、高倉健は『チロルの挽歌』の「早口ことば」の場面を、とても素直に、そして気持ちよく演じたという。喜劇的な場面では、俳優はあざとく笑いを狙わずに、ひたすら一所懸命に演じるべし。その鉄則を、健さんはよくわかっていたにちがいない。