初放送は48年も前なのに、今も新たなファンを生み出している。のちに数々の名作を監督した宮崎駿と高畑勲も参加した、フジテレビの『アルプスの少女ハイジ』である。スイスの大自然のなかで暮らす少女の成長を、1年をかけて描いた名作アニメだ。
その冒頭で毎回流れたのが、オリジナル曲の「おしえて」。歌は伊集加代子(現・伊集加代)で、作詞は詩人の岸田衿子である。
「口笛はなぜ 遠くまで 聞こえるの あの雲はなぜ わたしを 待ってるの」
作曲は故・渡辺岳夫。私と友人2名は、13年前に氏の仕事仲間らに取材し、『作曲家・渡辺岳夫の肖像』というタイトルで書籍化したが、取材の際に、「おしえて」の録音にまつわる、初めて知る話を耳にした。
この曲の前奏、間奏そして後奏で流れるのが、女性が歌うヨーデルである。これはスイスのアルプス地方に古くから伝わる、裏声を使った独特の歌い方で、番組の始まりで、視聴者を物語の舞台であるスイスの高原へと誘ううえで、絶大な効果があった。
このヨーデルを『ハイジ』のテーマ曲に取り入れると決めたのが、番組を企画制作した高橋茂人だ。その5年前に、同じフジテレビでアニメ『ムーミン』を手がけるなど、すでにプロデューサーとして実績があった。
学生時代に山登りを楽しみ、ヨーデルにも馴染みがあった高橋は、さっそく本格的にヨーデルが歌える人を探したが、身近にはいなかった。ならば現地で見つけて、そこで録音しよう。だが制作費は、通常の倍以上もかかる。でも、良い曲は必ず売れると信じて、スイスでの録音を決行した。
「おしえて」のレコードが、日本コロムビアから発売されることが決まり、担当ディレクターの木村英俊は、スイスへ飛ぶ準備を始めた。さっそく会社に、旅費の前払いを頼んだのだが……。
「出発間際になって経理部長から呼び出されて、『スイスに遊びに行くんだろう』と、こう言うわけですよ。こっちは『冗談じゃない、時間がないんだから何とかしてくれ』って言ってもダメで」(前述の本より)
アニメ主題歌の海外録音は、日本では前例がなく、社内でも理解されなかったのだ。やむなく木村は自ら旅費を払って、録音技師とともに機上の人となった。
録音場所は、スイス最大の都市チューリッヒ。木村たちと現地で落ち合ったプロデューサーの高橋茂人が、目的地に着いた。
「録音スタジオはこぢんまりとした建物で、現場に行って驚きました。床は今にも抜けそうだし、音は外へもれるしで、いやあー参ったなと」(前述の本より)
歌手探しも苦労した。売れっ子のヨーデル歌手たちは、海外公演のために出払っていたからだ。探し回ってようやく出会ったのが、スイス人のシュワルツ親子、すなわち母フレネリ、娘ネリーである。
この2人を迎えて、1973年の11月5日に先ほどのスタジオでリハーサルを行ない、翌6日と7日にヨーデルを録音した。曲名は「おしえて」と「まっててごらん」で、さらに娘のネリーは、単独で挿入歌の「アルムの子守唄」を歌唱。録音に立ち会った編曲の松山祐士は、日本語が話せない彼女に根気強く発音を教えながら、作業を進めた。
録音後、高橋プロデューサーは、親子の労をねぎらうために夕食会を開いた。ネリーは艶やかなチャイナドレス姿で登場し、出席者から喝采を浴びた。そのそばで、母フレネリが穏やかな表情で娘を手助けしていたという。
その2ケ月後に『アルプスの少女ハイジ』の初回が、全国に放送された。人気はうなぎ上りで、「おしえて」のレコードを発売すると大ヒット。宣伝を兼ねてシュワルツ親子を日本へ呼ぼうという声も上がったが結局、立ち消えとなった。また、スイスで録音した際の写真も残されておらず、その後この親子は、有名な曲に参加したにも拘らず、顔さえわからぬ「幻の歌手」となってしまった。
では、この母と娘は何者だったのか。
今回、各所で調べたところ、親子が一緒にヨーデルを歌ったレコードが、母国スイスで数点、発売されたことがわかった。そのなかには「おしえて」を録音した時期に発表されたらしいアルバムもあり、ジャケットには、スイスの民族衣装を着た2人の姿が写っている。ふくよかな体型で、優しそうな笑顔の母フレネリ。当時はおそらく20代で、面差しが美しい娘ネリー。またフレネリ(別名フレニ)は、1950年代から複数のレコードに歌を吹きこんでおり、その内の1枚は、60年代の半ばにわが国でも発売されている。
この原稿を書くにあたって、親子が『ハイジ』のために吹き込んだ3曲を、改めて聴いた。「おしえて」のヨーデルは、明らかにネリーだが、毎回の最後に流れた曲「まっててごらん」のそれは、ネリーと母の歌声に聞こえる。CDなどには、ヨーデル担当はネリーと記されているが、もはや真相はわからない。
次に、2人のその後を追ってみた。ネリーは、結婚してネリー・ネロの名前で歌手を続けたとの情報もあるが、確証は得られなかった。また、80年代には作曲の仕事を始め、彼女の作品が収められたアルバムも世に出たが、その後、若くして亡くなったという。母のフレネリも歌手活動を続けたようだが、年齢から考えて、すでに故人だろう。
果たして、この親子は知っていたのだろうか。自分たちが歌った『ハイジ』の曲を、その後も多くの日本人が愛し続けていることを。