今回は特別に映画のはなしを。

 昨年末に亡くなった脚本家の山田太一は、『ふぞろいの林檎たち』ほか、多くの名作テレビドラマを世に送った。だが、若き日に身銭を切って映画を作ったことは知られていない。なぜなら作者自身が、その映画について、のちに文章を書いたり語ったりしていないからだ。もしかして消したい過去だったのか。

 映画の題名は『ベンチ・リョード』。わずか15分の短編で、出演者は2人のみ。制作・脚本・監督のすべてを、当時35歳の山田が手がけた。1968年のことである。当時は、映画の助監督として8年間働いた松竹を退社し、脚本家に転じて3年目だった。

 以前から『ベンチ~』に興味があった私は、10年前にご当人に別件で取材した折に、勇気を出して尋ねてみた。すると山田さんは、私がその映画を知っていることに驚いたが、質問にていねいに答えてくれた。

 山田さんいわく「当時の僕は連続ドラマも書いたりして、松竹時代よりも少しは収入があった。そうしたら松竹の知り合いが『そんなに金があるなら、映画でも撮れよ』と言い出してね。僕には妻子もいたし、経済的な余裕もなかったけど、ケチと言われたくない、という気持ちもあったし(笑)」。

 撮影では、カメラの渡辺浩ほか松竹時代の先輩8名が、無報酬で協力してくれた。だが制作予算はわずか。そこで多摩美術大学の小さな写真スタジオを借りて、1日で撮った。

 その内容だが、ベンチに座った青年が、観客に語りかけるだけである。彼は「ぼくは大事なことだけを話したい」とくり返し言うのだが、やみくもに観客を罵ったり、父との断絶などを告白するだけで、結局「大事なこと」は語られない。

「当時キューバで反乱を起こした青年たちが放送局を占拠して、自分たちの思想や要求を、マイクに向かって喋ったんだけど、すぐ警官が来るので、たったの3分間で大事な思いを吐き出した、という話を聞いたんです。では僕が3分間を与えられて、お前の切実な思いを喋れと言われたら、うまく話せるだろうかと思った。もう自分の欲求はそんなにシンプルではなくなっている、僕らの生きている世界はもっと複雑化していると思ったし、それは今も同じじゃないかな」

 山田さんは、当時この映画について「私的内部の複雑性を獲得したい」と記している。

「あのころは、インテリの知識人は政治を語り、行動しないとダメだ、という風潮が強かった。まず自分の主張があり、それを世の中に伝える手段として映画や文学があった。でも僕は、実家は浅草の小さな大衆食堂だし、頭もそんなに良くなかったから、そういう考え方が嫌いだった。それでベンチという狭い領土から離れず、外の世界より自分の内面だけに集中する青年を出したんです」

 私が『ベンチ~』を知ったのは、映画の完成直後に発売された雑誌「シナリオ」の1968年6月号に載った脚本と、制作裏話をつづった山田さんの文章だった。それによると、リハーサルに3時間、撮影に9時間、編集に10時間を要したが(カット数が140もあった)、もっと時間をかけたかったという。総制作費は40万円だった。

 ついに映画が完成した。だが、関係者を招いた小さな試写会で披露したのち、フィルムは山田家の押し入れに仕舞われてしまったという。当初はなるべく安く仕上げるために、16ミリフィルムで撮るつもりだった。ところが、先輩たちの強い勧めで劇場用映画と同じ35ミリで撮ったために、一般公開できる上映場所が見つからなかったのだ。

 山田さんは、映画の出来ばえに満足できなかったようだが、実はのちの作品に『ベンチ~』の青年に似た人物を登場させている。72歳のときに初めて絵本のために物語を書き下ろした、『リリアン』である。

 主人公である6歳の少年が、自宅裏の路地で地面にチョークでマルを描き、その中央に座りこむ。誰が来ても、中へ入れようとしない少年。そこへ見知らぬ少女が現れ、少年は彼女に導かれて冒険の旅に出る。少年は『ベンチ~』の青年に重なって見えるが、途中から外の世界へ飛び出す点が大きく異なる。

『ベンチ~』以降の山田さんは、『リリアン』のように主人公と他者、とりわけ家族や夫婦との関わりをより深く見つめ、そこからストーリーを紡ぐようになる。

「独身者はより自分に集中できるし、自分がどう生きたいかだけを考えればいい。でも結婚して子どもを持てば、まず生活を考えざるを得ない。自分の理念や美意識は二の次になる。つまり家族のある主人公に比べて、独身の主人公には何かが足りないという感覚が、僕にはある。だからドラマの内容を考えるときも、誰か一人が物語の中心にいる話ではなく、そこになるべく他者を入れたい」

『ベンチ~』で青年を演じた山本亘は、その後、俳優の道へ。青年の前に現れる謎の美少女に扮した小川ローザは、撮影の翌年に出演したテレビCMが大きな話題となり、時の人となった。また演出家の大山勝美は、雑誌で『ベンチ~』の脚本を読んで山田さんに注目し、4年後に声をかけてドラマ『知らない同志』を制作。これに手応えを感じた大山は、のちに山田さんの代表作と呼ばれた『岸辺のアルバム』のプロデューサーを務めた。

『ベンチ・リョード』には、山田太一の当時の心境が深く刻まれている。フィルムが残っているなら、ぜひ観たいものである。(文中の山田発言は「映画秘宝」2013年7月号に載った、筆者が書いた記事から引用した)。