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 速水が今日、桜子宅にいるのは、桜子宅にたくさんある古本を受け取るためだったらしい。いずれ緩和ケア病棟に入ったあとの、暇つぶし用だそうだ。お茶を飲み終わったあと、何十冊と詰めこんだダンボール箱を、速水の車まで響が運んでやることになった。

 道中、会話はなかった。数分前に雨があがったばかりで、濃い草の香りがあたりに漂っている。速水は少し先を歩きながら、鼻歌を歌っていた。少しして、それが「はいからさんが通る」だと気づく。

「あ、そうだ」

 ふいに速水が、こちらを振り返った。

「日吉はあなたの、いい見本?」

「はい?」と響は聞き返した。

「日吉はあなたの、いい見本?」と速水は同じ言葉を繰り返した。

「えーっと、はい、多分」

 ははは、と軽く笑う。「じゃあよかった」と言って再び背を向ける。その後ろ姿は、軽く押すだけであっけなく地面に倒れて、そのままガラスのおもちゃみたいにバラバラに砕けてしまいそうに細かった。が、よく見ると背中は電柱みたいに妙にまっすぐで、ぴしっとしている。

 

 それが、速水の姿を見た最後になった。

 桜子の話では「治療をすれば余命一年半、しなければ一年。で、もうしないと決めたときから半年たってるから、多分あと半年」という話だった。が、三人でツナマヨおにぎりを食べてから二週間もしないうちに高熱を出して緊急入院となり、それから十日余りで亡くなった。

 故人は直葬を望んでいた。その頃、桜子が疲れのせいか体調が芳しくなさそうだったので、そちらの手配は響が引き受けることにした。呼んでほしい人は誰もいないと言っていたようだが、念のため、何人か連絡先を聞いていた親類には知らせたという。が、当日になって火葬場に現れたのは、滝沢麗子、ただ一人だった。

 若かりし頃、原宿でスカウトされて芸能活動をしていたこともあると聞いていたが、その面影は全くなく、桜子と同じぐらいふくよかな体型の、どこにでもいるおばさんだった。桜子とはちょくちょく連絡を取り合っていたようで、顔を合わせるなり「やだもう、喪服が入らなくって急いで買ったわよ」「わたしもよ」「あんたがこんなにデブになるなんてね」「あんたの中年太りは既定路線だったけどね」などと言いながら、お互いの肩をばしばしたたき合っていた。

 読経も省略したので、本当に火葬するだけだった。火葬炉に入れるのを三人で見送ったあとに待合室で待つ間、桜子が九州の姉と電話するためにどこかにいってしまい、滝沢と二人きりになった。すると滝沢は「最近、孫が生まれたの」と言って、スマホで撮った写真を見せてくれた。赤ん坊を抱いてベッドに座っている女性の周りを、十数人の大人や子供が取り囲んでいて、みんなそっくり同じ笑顔を浮かべていた。「『インターステラー』の最後みたいですね」と響が言うと、「え? 何? インターチェンジ?」と言っていた。どうして速水と桜子とこの人は仲良くなったのだろうと響は不思議に思った。

 すべてがおわり火葬場を出たあと、三人でこれからパフェでも食べにいかないかと誘われたが、断った。「せっかくなので同期水入らずで同窓会をやってください」と響が言うと、二人して「やだ、二人じゃ何も話すことないのよ、お願いよ」「ほんとよ、気まずいわ」といつまでもやいのやいのうるさく、仕方なく付き合うことにした。

 遺骨を持ったままタクシーに乗り、向かった先は西新宿の喫茶店だった。昔、三人でよく通った店だという。滝沢はコーヒーとメロンパフェ、桜子は紅茶とクリームあんみつ、響はコーヒーだけにしようかと思ったが、結局、自家製プリンも。着席するなり、桜子と滝沢は響には全くわからない昔の同僚の噂話や悪口(『イノマタさんって覚えてる? あの人、会社のお金、横領してたのよ』『え? イノマタさんってカトウさんと不倫してた人よね?』『違うわよ、それはシンドウさんよ』『シンドウさんは、あれでしょ? 小指の爪伸ばしてた人よね?』『そうそう! 耳掃除するために伸ばしてたのよね』)と盛り上がりはじめた。何が「二人じゃ何も話すことないのよ」だと思ったが、もちろんそんなこと口にはしなかった。結局、三時間近く店に居座り、出る頃にはすっかり日が暮れかけていた。

 ビルとビルの間の紫色の空に、半月がぺっかりと光っていた。滝沢が「あ!」と大きな声をあげて、頭上を子供みたいにまっすぐ指さした。

「ねえ、昔、あんなふうなイヤリングをよくつけてたよね、速水」

「ああ、つけてたつけてた」と桜子も見上げる。「ゴールドの大きなやつでしょ。ここぞ、というときに、よくつけてきてたよね」

 もう誰も、何も言わなかった。それから新宿駅まで無言で歩き、滝沢と別れた。

 

 速水が亡くなる少し前に、桜子は疾病休暇(病名・急性腰痛症)を終えて仕事復帰していた。ハゲちゃびんこと溝口マネージャーから直々に雇止めの撤回の申し出を受けたが、桜子は一も二もなく断り、そのまま契約満了を待たずに退職した。

 そして、しばらく間をおいたあとの九月、響の所属するクレジット管理センターの委託会社管轄部門であるカスタマーセンターの庶務として、再就職を果たした。

 契約社員だが、定年はなし、時給は前職より百五十円もアップした。委託会社と話をつけたのはもちろん、生前の速水だ。

「あ! ひーちゃん、ひーちゃん!」

 勤務初日の昼休み、社員食堂の窓際の席で、桜子は響を見つけると席を立ってぴょんぴょんと飛びはねた。

「こっちこっち!」

 初日にしてすでに友達ができたらしく、桜子の隣には彼女と同年代ぐらいの女性がいた。肩まで伸ばした髪はほぼ九割が白髪だが、つやつやと光り輝いていてまるで高級毛皮のようだった。よく見ると首にさりげなく巻いているのはエルメスのスカーフだし、時計はダイヤで縁取られたシャネルだし、ピンク色のブラウスも妙に品がよく高級そうで……。

「こちらね、もんちゃん。この人ね、わたしの正社員時代の二年後輩なの」

「そうなんですか」と答えると同時に、気づいた。今、目の前にいるのは、当社で現在唯一の、女性の取締役だった。

「門仲久美子です」と彼女は言って、にこっと笑った。「お話はかねがね伺ってますよ」

 そのときになって、周囲の人々が不思議そうにこちらをちらちら見ていることに気づいた。役員クラスが社食にくることはめったにない。しかも、一緒にいるのは委託会社の非正規庶務おばさんだ。

「あ、えっと、はじめまして」と響は立ったまま頭を下げた。「クレジット管理セ……」

「そんな堅苦しいことやめてよ」と言いながら、門仲久美子は顔の前を手であおいだ。「ひーちゃんでしょ? しってるから。わたしのことはもんちゃんって呼んでね。はやく座って」

「そうよ、座りなさい」と桜子。「はい、ひーちゃんの分」

 響は恐る恐る桜子の正面に座りながら、差し出されたものを受け取った。佐藤さんのおにぎり屋のおにぎりだった。

「具はこんぶとたらこ。いつものやつね。この子ってば、食べ物に保守的で、おにぎりの具はいつも同じなの」と隣のもんちゃんに話しかける。「あとね、こっちはからあげと卵焼き」

「この唐揚げ、おいしいわね」ともんちゃんが言った。「さめててもおいしい」

「そうなのよ! ねえもんちゃん、よく聞いて。この唐揚げはね、冷めたままがいいの。あたためなおしちゃ絶対ダメ!」

「あら、そうなの」

「そうなのよ。それとね、このお店、実は夜がいいのよ、夜が。夜限定のおにぎりがあってね。わたしのおすすめはエビ天……」

 響は二人の会話を聞きながら、小さく深呼吸する。いつまでもどぎまぎしているのも空気が読めていない感じがする。おにぎりを一口食べて、落ち着こう。プラスチックの容器をあけて、こっちがこんぶでありますようにと祈りながら、右のおにぎりをつかみ取り、かじりつく。

 こんぶだった。この出汁の風味と甘みと、醬油と辛さ。これこれ、この味と小躍りしたくなる。

「ねえ、ひーちゃん。もんちゃんはね、この会社に入ってきたとき、わたしと同じ一般職だったのよ」

「そうなんですか」

「そうよ。わたしが三年目のときに入ってきて、やっとわたしの代わりにお茶くみとか給湯室掃除とか面倒くさい雑用やってくれる人がきてくれたと思ったら、半年ぐらいで秘書課に異動になっちゃったの。そしたら当時の重役の誰かの右腕として八面六臂の活躍をして、気づけば大出世。すごいのよ、本当に」

「ちょっと待って、省略しすぎ。もっといろいろあったんだから」

「いろいろってあれ? その重役と不倫したあげく奥さんから略奪したこと?」

「ねえ、この話何回した? 不倫なんかしてないって。あのお方が勝手に勘違いして、離婚なさっただけよ」

「もんちゃんって、本当に魔性の女よね。家事が一切できなくて家がゴミ屋敷なのにね」

「最近は家事代行っていうのがあるのよ。ド庶民のあなたはご存じないかしら」

「ま! 失礼ね! ていうか、そんなもの利用するぐらいなら、わたしを家政婦として雇ってよ。月三十万でいいわ。三食昼寝付きね」

 こんぶのおにぎりを食べ終えた響は、二人のくだらないやり取りを右から左へ聞き流しつつ、窓の向こうに目をやった。空は曇り空、眼下のビジネス街を歩く人々の足取りは、どことなく重そう、いや確実に重い、誰も彼もがうつむいて辛そうに歩いている。

 だって会社員なんて、大抵は面白くもなんともないんだから、と響は思う。嫌なことばかり。でもだからといって、ほかにやりたいこともない。特別な趣味もない。恋人もいない。だけど自分のところには、こうしてまた楽しい仲間が近くにきてくれた。今はそれでいい。なんとかしばらくは、一人でもやっていけそうだ。

「ところで、ひーちゃん」

 響は窓のほうへ目を向けたまま、「はい」と答えた。が、すぐに桜子の顔を見た。なんだか少し声のトーンが妙な気がしたからだ。

「わたしもね、がんになったの」

「えっ」

「でもでもでも!」と早口で繰り返しながら、両腕をこちらに伸ばして激しく手を振る。「本当に初期の、初期のやつで。全然大丈夫。来月、簡単な手術をして、そのあとは多分、放射線治療だけ。抗がん剤もいらないんだって。だから、心配しないで、シリアスにならないで。わたしがそういうの苦手だって、しってるでしょ」

「はい、わたしも苦手です。深刻な話、受け止めるの苦手です」

 桜子は驚いたように目を見開き、口をすぼめた。少しして、ぶーっと噴き出した。「そうよね、わたしたち、双子だもんね」

「えー」ともんちゃんが眉をしかめる。「全然似てないけど。こちらはかわいいお嬢さんで、こっちは……」

「こっちは、何?」ときっとにらみつける。

「ねえ、そんなことより、もしよかったら今晩、桜子先輩の歓迎会しない? 今日は会食もないし、遅くても七時には仕事終えられるから。昔、一度連れて行ってくれた立ち飲み屋にいきましょうよ。あそこ、一時期営業休止していたけど、今また再開したのよ」

「いいわね! ひーちゃんもいくでしょ」

「もちろんです」

 それから、桜子ともんちゃんは何を飲もう、あては何にしようとやいのやいの盛り上がりはじめた。響はからあげを指でつまんで口に入れた。ああこの味だと心の中で小躍りした。

 

(了)