いつもの席で談笑している桜子とすいちゃんの姿を、視界の端でとらえた。気づかないふりをしたまま、窓際のカウンター席のほうへ向かってまっすぐ歩いていく。柱の陰になっているあたりに座れば、二人には見つからないはず――
「あ、ひーちゃん、こっちこっち!」
そのとき、聞きなれたソプラノが、リフレッシュルーム中に響いた。すいちゃんの「すみませーん!」はどんなに混みあった居酒屋でも、厨房の奥の奥まで届いてしまう。
つまり、これを無視するのはあまりに無理がある。響は観念して二人のもとへ向かった。
桜子は自作のブリトーを食べている。最近、メキシコ料理にはまっているようなのだ。ダイエット中のすいちゃんは、ホットジャー入りの野菜スープ。
「ねえ今、わたしたちを無視して、一人で座ろうとしてたでしょ」
正面に座った響に、桜子は見透かすような目つきで言った。
「ええ? そうなの? わたしたち、嫌われちゃった?」
そう大げさに言うすいちゃんに、響は「違います!」と慌てて否定した。「そうじゃなくて、あの、一人で考え事……というか、計算がしたくって」
「計算?」と桜子。「何の計算」
「えーっと、お金の計算です」
二人は口をつぐむ。この会話を先へ進めるべきか、目くばせしつつ思案している顔。しばしの無言ののち、桜子が口を開いた。
「そういえば、わたし最近、昔のトレンディドラマを見るのにハマってるって前に話したじゃない? 昨日からね、あれを見はじめたの、『抱きしめたい!』」
「懐かしいわ、ダブル浅野ね」
「そうそう。バブリーで面白いわよ。何が面白いって、オープニングが最高なの。ダブル浅野がリゾート地のビーチでくつろいでるところにね」
「あ! カルストトシキ!」
「カルロストシキね。そのカルロストシキの歌が流れる中、二人が水着になったりして、で、そこへ男のキャラクターたちが次々やってくるわけなんだけどさ、なんでかしらないけど岩城滉一、そう、ドラマの中でダブル浅野が取り合いをする岩城滉一ね、その岩城滉一が、ウエットスーツに酸素ボンベしょってんの。なんでそんな格好のやつがビーチにいるのよって笑っちゃって。沖へ出ろ、沖へ」
アハハハハハ! と二人は軽やかに笑う。響は二人の顔を交互に見ながら、「別にお金に困ってるわけじゃないんですけど」と言った。
「何よ」桜子が大仏のような無表情になって言う。「借金でも申し込まれるかと思って、無理やり話題変えたのに」
「そんなことしません。ただ……この間、リカちゃんが言ってたことを、ちょっと真剣に考えてみようとふと思って」
「リカちゃんが何を言ってたの?」とすいちゃん。
「女の人生は五十を過ぎてからが本番だけど、そのときに金、健康、友達、この三つがないと楽しみが半減するよって言われたんです。だからもし、もしも自分が結婚せず、このままずっと独身だったとして、五十代以降もある程度ゆとりのある生活を送り続けるには、今からどのくらい節制すべきか、ちょっと計算してみようって、さっき急に思い立って……」
「そんな心配いる? だって」とすいちゃんは周囲をちらちら見ながら、ささやき声になる。「ほら、ひーちゃんはさ、まだ先のことかもしれないけど、ご両親から相続するものが……」
「そんなのないですよ」と響はきっぱりと言った。「あったとしても、ひょっとしたら借金です」
「ええ! そうなの?」
「そうですよ。うちの父……まあ、わたしにとっては義理の父で、母の二番目の夫ですけど、事業が火の車で、母のお金も全部吸い上げられてます」
話しながら、自分でも意外な気持ちだった。親の資産について詮索されることはしょっちゅうあるが、適当にごまかすのが常だった。本当のことを言って「なあんだ、そうなの」と安心されるのも不快だし、「いやいや、本当は土地とかいっぱいあるんでしょ」なんて更なる詮索が発生するのはもっとうっとおしい。放っておいてほしい、という表現がおそらく本心に一番近い。
けれど二人には、こんなにも簡単に話してしまった。
「それなら、まあ自分でなんとかしなきゃね」と桜子が食べ終わったブリトーの包み紙を丸めながら言い、咳払いした。「今の時点でいくら貯金があるかしらないけど、いくらあったとしても、もう十分ってことはないだろうからね。物価も社会保障費もどんどんあがって、これからますます厳しい時代になっていくわけだし。生涯独身女性の先輩として、お金に関していくつかアドバイスをあげましょう」
響は姿勢を正した。「お願いします」
「まず、一つ。働き続けること。まあ、これは当たり前ね。早期リタイアとか、悪魔の言葉に惑わされないように。ただし、健康を損なうような労働はダメよ。病気になる、と思ったらどんなに給料のいい仕事でも辞めなさい。そして二つ目。誰かの口車に乗せられて、不動産を手に入れようとしないこと。本当にその家に住みたいならいいけど、損得で判断はしないように。ま、これも大丈夫かしら?」
「た、多分……」
「三つ目。自分へのご褒美という名の、つまらない消費をやめる」
「どういうことですか?」
「例えば仕事で案件が一つまとまったら、ちょっとお高い入浴剤を使ってみるとか、誕生日にほしかったアクセサリーを買うとか、そういうことをやりがちでしょ? 一見、有意義なお金の使い方のように思えるけど、結局はただの消費行動でしかないのよ。で、その小さな消費が、意外と資産を削るの。逆にそれをやめれば、お金は簡単に貯まる。娯楽をやめなさいってことじゃないのよ。でも消費ってね、その言葉のままなの。費やして消えるもの。本当に自分の心を満たしてくれるものは、消えないから。その違いを見極めて、お金と時間を使うこと」
「耳が痛いわ」とすいちゃん。「この間、あたしまた通販でかわいいピアス買っちゃった。もう何十個も持ってるのに。使ってないなら、消えてるも同然よね」
確かにすいちゃんは買い物好きだ。そしていつも「お金がない」と言っている。
「そして四つ目。なんでもいいから資産運用すること。もうすでにしてたら、花丸。もししてないなら……その年齢でそれはダメね、恥をしりなさい」
「はい、お恥ずかしい限りです。今日中に証券口座の開設申し込みをします」
「桜子さんは偉いわよねえ」とすいちゃん。「なにせ、あの若さで源五郎丸さんの……」
「しーっ!」と桜子は見たこともないぐらい恐ろしい顔になって、口に人差し指をあてた。「その名はここでは禁句!」
「しまった! ごめん」
「え、なんですか?」と響は前のめりになって聞いた。が、そのとき、ぶっちーがあわてふためいた様子でこちらにかけよってくる姿が、視界の端に映った。
「大変、大変」とぶっちーは言いながら、三人のテーブルにやってきた。「リカちゃんのお母さんが、亡くなったって」
「え! いつ?」と桜子。
「お通夜は?」とすいちゃん。
「それがね」とぶっちーは困ったような顔で赤ぶちの眼鏡を持ち上げる。「もう何日か前のことで、多分、お葬式も終わってるの」
それから三人は、弔電や香典を送るべきか否かについて、いつになく真剣な様子で話し合いはじめた。響は頃合いを見計らってそっと席を立ちながら、記憶の箱の鍵穴を、何かがつんつんとつついているのを感じていた。
自席についてすぐ、鍵穴に鍵がぴったりとはまった。頭の中でかちりと音が聞こえた気さえした。
周囲を確認してから、目の前のラップトップでイントラネットを開く。そして「経営陣からのおしらせ」というリンクを見つけ、クリックした。すると、会社の取締役と執行役の一覧が出てきた。
いた。
常務執行役 源五郎丸太
役員たちに興味を持ったことなど、いまだかつてこれっぽっちもないが、この特徴的な姓だけは記憶の片隅にあった。本人のプロフィール欄には、入社以降の経歴と、顔写真も添付されている。オールバックに浅黒い肌をした、どこかギラついた雰囲気の人物だった。愛人がいそうかいなそうかでいえば、三人はいそう。入社時期は、おそらく桜子とほぼ同じ頃。
響は腕組みをして考える。さっきすいちゃんが口にした「源五郎丸さん」がこの人だとして、一体、桜子とどんな関係なのだろう。以前、隣の席の今野が話していたところによると、桜子は役員の誰かに雇用契約上で優遇措置を受けていて、その理由はその人物と不倫関係であるか、あるいはその人物の弱みを握っているかのどちらかなのではないか、ということだった。
ここ数カ月、桜子と親しく過ごしてきたが、男性の影はみじんも感じられない……とは決して言えない。ときどき謎の有休をとっているし、金曜夜の恒例となっている佐藤さんのおにぎり屋での飲み会も、毎回参加というわけではない。しかし、さっきすいちゃんは「あの若さで源五郎丸さんの……」と言っていた。それはつまり、現在進行形の話ではなく、おそらく桜子が二十代のときに彼との間で何かがあったことを、示唆しているとみるべきじゃないか。
彼と何らかのトラブルがあって、金銭的な賠償でも受けたのだろうか。そのトラブルとは、どんなものだろう。まさか前に今野が話していたように、彼との子を? そんなことがありえるのか? しかしさっきの桜子の尋常でない剣幕……。
「何を見てるの?」
ほとんど反射的にラップトップを閉じた。話しかけてきたのは、桜子だった。
業務中はめったに話しかけてこない桜子が、しかもそのめったにないときでも必ず敬語を使う桜子が、なぜかため口で話しかけてきた。背筋に寒気が走る。
「えっと……」
「はい、これ、健康診断の用紙です」
その声音は、いつもの“庶務のおばちゃん”モードに戻っている。
「もし人間ドックとか乳がん検診を申し込まれるのであれば、去年みたいにギリギリにならないよう気をつけてください」
庶務のおばちゃんは冷ややかにそう言うと、ブルーのB4サイズの封筒を響のデスクにぽんと放り、すたすたと離れていった。ほっと息をつきつつそれを持ちあげると、裏側にポストイットが張りつけてあることに気づいた。
今日は木曜だけど、八時半以降に佐藤さんのところに集合ね。
響はそのポストイットをすばやくはがすと、細かくちぎってデスク下のゴミ箱に捨てた。まるで秘密のやりとりをするスパイみたいだと思えて、少しおかしかった。