自分でも、どうしてなのかわからない。彼女のことを、つい目で追ってしまう。今、彼女はリフレッシュルームのなじみの席――窓際の一番奥、二人用のテーブルの壁側の椅子――についたところだ。いつも持っている白のキャンバス地に黄色い花のリース柄が刺繍された手提げから、ビニールのパックを二つ取り出して並べると、あごの下でぱちぱちぱちと小さく拍手した。それは、毎日欠かさずおこなわれる儀式。おひるごはんがうれしくてたまらない、という熱い思いが、彼女のそのふくよかな体から世界に向かって放射されているかのよう。
 どうしてだろう、と頬杖をついて、また宇佐美響は考える。どうしてこんなに、あの人――うちの庶務のおばさん――のことが気になってしまうのだろう。
 仕事をしているときも、こうしてお昼休憩中に見かけたときも、なぜか目で追ってしまう。相手はどこにでもいる、本当にどこにでもいる、ただの小太りのおばさんだ。特別、容姿が美しいわけでも、持ち物や服装のセンスが目を引くわけでもない。髪型は地味なショートヘア。色味のない顔に黒縁めがね。洋服はお尻まですっぽり隠れるチュニックにジーンズをあわせていることが多い。駅のホーム、近所のスーパー、横断歩道、とにかく日本中のいたるところにいる、たぶんちょっとだけ体型を気にしている、おばさん。
 そのとき、彼女が「いけない、忘れてた」とつぶやいて、小走りでリフレッシュルームから出ていった。数分後、インスタントのみそ汁のカップを持って戻ってきた。忘れてた、と響も思う。汁もの。彼女は季節問わず、温かい汁ものを欠かさないのだ。
 すでに湯を入れてきたようで、カップから湯気がたっている。彼女は息をまだはずませながら、ビニールの包みをごそごそとあけはじめる。今日はいつものおにぎり屋で買ってきたようだ。週に何度か手作りらしき弁当を持ってくることもあるが、おにぎりの日が一番いい顔をしている、と響は思う。
「いただきます」
 ふたたびあごの下でぱちんと手を合わせる。それから、もう待ちきれないといった様子で割り箸を割ると、男のにぎりこぶしぐらいはありそうなサイズの大きないなりずしをはさんでもちあげ、一気に半分まで頬張った。
「あら、ちょっと、もう食べてるの?」
 そのとき、鮮やかなブルーのロングスカートの女性がやってきた。彼女はもぐもぐと咀嚼しながら「すいちゃん!」とうれしそうに答える。
 すいちゃんは彼女の正面の席に座った。体型は彼女とほぼ同じ。しかしすいちゃんはファッションが大好きらしく、いつもとても素敵なお召し物を身に着けている。
「あら、おいしそうなおいなりさん。佐藤さんのところの?」
「そうそう。きのこと栗のおいなりと、こっちは鮭のおいなり。鮭は新作らしいけど、結構いけるわ。あとはあまってたこんぶのおにぎり」
「いいわね~、秋らしくって。あら、からあげもあるじゃない。ここのからあげってさ、さめてもおいしいのよね」
「ていうかむしろ、さめてたほうがおいしいから」
「そうなの? そういえば一度、家に買って帰ったとき、あたためなおして食べたんだけど、なんだかいまいちだなって思った記憶が……」
「すいちゃん、ダメダメ! このからあげはあたためなおしちゃダメなの!」
 佐藤さんのおにぎり屋のからあげは、さめていたほうがおいしい。この話するの、何度目だよと響は内心くすっと笑いながら思う。彼女がからあげを買ってくるたびに、全く同じ会話を繰り広げている気もする。
「すいちゃん、今日は手作り弁当? あらオムライス、うまく作るのねー」
「うちのけんちゃんがさ、これから毎日弁当作ってくれって急に言うもんだから。朝六時起きよ。あら、その鮭のおいなりもおいしそうね。新作なんでしょ? 今度買ってみようかしら」
 とりあえず互いの食べているものをほめあう。これも、毎度欠かさずおこなわれる彼女たちの儀式。
 それから、二人は今年の秋の新米をいかにおいしく堪能したかについて、やいのやいのと盛り上がりはじめた。
「土鍋でこぶをいれて炊くっていうのを、ついにやってみたわ」と彼女。
「あら、いいわねー。出来はどうだったの?」とすいちゃん。
「もうね、おかずなんかいらないわ! お米だけで十分おいしかった。すいちゃんもやってみて」
「秋といえばさんまよねー。でも、さんまもお米もずいぶん高くなっちゃったわね」
「本当よ。たまったもんじゃないわ。あ、さんまといえば、みきちゃんっているじゃない? あの料理上手の。みきちゃんがね、さんまの混ぜご飯っていうのを教えてくれたの。すごく簡単。さんまを塩焼きにして、それから身をほぐして、それをお好みの薬味と一緒にご飯にまぜて、味付けはちょろっと醤油。それだけでばつぐんの味!」
「おいしそう! 絶対やるわ。やだ、ごはん食べてる最中なのに。おいしそうすぎておなかなっちゃったわ」
 キャハハハハハと笑い声。
 そのとき、響の手元でぶぶっとスマホが振動した。画面を見る。大学時代からの仲間五人のグループラインに、誰かがメッセージを投下したようだった。

 ご報告

 いろいろバタバタしていて遅くなってしまいましたが、ようやくついに! あこがれのニューヨーク生活がはじまりました! 物価高がすでに心配だけど、精いっぱいわたしらしく過ごして、たくさんのことを吸収できるといいな。あと淳、三十三歳の誕生日おめでとう! わたしたち、アラサーなんて言ってもらえる時期もそろそろ終わりだね。
 ああ、はやくもみんなに会いたいよ。I miss you!

 メッセージに続いて、何枚もの自撮り画像が送られてくる。なぜだかすべてなんらかのドリンクの容器を顔におしつけている画像だった。背景はよくわからない。蒼は商社勤めの夫のニューヨーク転勤が決まってすぐ、それまで勤めていたテレビ局をやめた。今後はニューヨークの大学に入学して、MBA取得を目指すらしい。そのとき、別の誰かがメッセージを返信した。

 蒼、新生活おめでとう。はじめての海外生活はいろいろ大変だろうけど、困ったときはいつでも相談してね! こっちはかつての発展途上国の様相はすっかり変わってしまって、今では大都会! なかなかの物価高で大変だよ。

 やはり同じく自撮り画像が数枚連続投下される。こちらはうまく背景が映り込んでいて、バンコクの雑多だが熱気のある雰囲気がよく伝わってきた。優紀は大手デベロッパー勤務で、去年の夏からタイのバンコクに赴任している。同い年の夫は優紀を支えるため、役所勤めをやめて専業主夫となった。来年就学予定の息子は現地のインターナショナルスクールに入れるつもりらしい。
 同じ大学の仲間五人のうち、海を渡ったのはこれで三人目だ。淳は二十八歳のときにワーキングホリデーを利用して韓国へいき、そのままずっとむこうに住み続けている。現地で知り合ったフランス人女性とはじめた美容関係のビジネスが、ずいぶんうまくいっているようだ。残りの一人の朋子は今こそ日本に住んでいるけれど、大手航空会社勤めで、二年前までフランクフルトにいた。最近、外資系に転職したらしいので、いずれまたどこかにいってしまうのだろう。
 ずっと同じ場所にいるのは、自分だけ。
 胸がすん、と少し重たくなる。肺に小さな砂袋をひとつ、放り込まれたような気分。
 何も見なかったことにして、スマホの画面を切った。
「あ、そういえば、今年も山形の親戚からラフランスが送られてくるの。またおすそわけするわ」
「うれしい! すいちゃんのあのラフランス、ジューシーなのに、普通のナシみたいにさくさくした歯ごたえもあって、とってもおいしかったわあ」
 彼女の顔は、すいちゃんのとてもとても大きな背中に隠れてしまって見えない。わたしは、と響は思う。わたしは彼女と、友達になりたいのかもしれない。

 昼休憩が終わって席に戻ると、午後の定例ミーティング用の資料の束が、デスクの真ん中に置かれていた。一番上の資料に、正方形のポストイットが一枚貼られている。

 次回から、会議資料の作成など急ぎでない仕事は、前日までに依頼くださるようお願いいたします。庶務

 はあ、とため息をついて、向かいの席にいる後輩の上野に渡す。
「はい、これ」
「ありがとうございます」
 と上野は立ち上がって受け取ると、顔の前で手を合わせた。今朝、彼に「庶務のおばちゃんにかわりに頼んでほしい」とお願いされたのだ。
「今度から自分で頼むか、ちゃんと前日までに依頼してください」
「えー、そんなこと言わないでくださいよ。だっておばちゃん、おっかないんだもん」
 ミーティングルームに移動する途中も、「あのおばちゃん、本当におっかないんすよ」と上野が話しかけてきた。
「今朝なんかマネージャーにむかって、俺らの請求書のまとめ方が雑すぎるって学校の先生みたいに叱り飛ばしてましたよ。見ました? まじで、自分を何様だと思ってるんだろ」
「みんながきちんとやらないからじゃない?」と響は言った。
「だって、こっちは繁忙期でそれどころじゃないんですよ。ちょっとは空気を読んでくれてもいいのに。俺の持論すけど、中年女性って結婚してるかしてないかでやさしさの度合いが全然違うっすね。独身で庶務のパートなんかやってるあのおばちゃんみたいな人が、一番性格が悪い。ここで長年、何人もの庶務を見てきた俺にはわかります」
 長年って……ほんの五年かそこらでしょ、と思ったが響は何も言わなかった。そもそも彼女は本当に独身なのだろうか? 何か根拠はあるのか? ないに違いない。勝手に決めつけているのだ。上野はすたすたと先を歩いていく。
 この会社は日本でも有数の大手エネルギー関連企業で、従業員数はグループ全体で一万人を超える。他企業との厳しい競争を勝ち抜くため、ずっと以前からコンプライアンスだのダイバーシティだのと社内啓蒙活動に力を入れているが、古く保守的な体質は、なかなかかわらない。とくに、響が今所属している東京近郊の支社ともなるとなおさらだ。社内はハラスメントすれすれの噂話が毎日のようにとびかっている。
 響がさいたま支社法人営業二課に異動してきたのは、今から三年前のことだ。それまでは、もっぱら本社勤務だった。三十歳前後で地方の支社の営業部に異動し、結果を出す。それはわが社では出世の定番ルートだった。
 支社には計七つのミーティングルームがあり、それぞれの広さに合わせて、トカゲ、ミドリガメ、ワニなどの爬虫類の名前がつけられている。最大の二十人~三十人用の大会議室はコモドドラゴン、最小の四人用はイモリ。今日、響のチームが押さえているのは、十人規模のスッポン。
 ドアをあけると、チームのメンバーはほとんどそろっていた。一番奥のホワイトボードの前に、リーダーの黒木が立っている。黒木は会議のとき、絶対に座らない。壁から壁へ、ずっとうろうろ歩き続ける。やせ型の高身長なので、暇をもてあましたキリンみたいだと響は毎度思う。目が合うと、いつもはすぐにそらされるが、今日はなぜかきつく睨み返された。
 この金曜午後の定例ミーティングは、黒木が半年前、チームのリーダーに着任してすぐはじまったものだ。黒木の前のリーダーは地元採用の高卒社員で、とてものんびりした人だった。チーム全体ものんびりしていて、誰もが目標を“次の異動までミスしない”に設定しているように見えた。ところが黒木が隣の一課から異動してきた途端、すべてが様変わりしてしまった。一番やる気のなかった上野まで、「結果をだして本社にいく」と息巻き、会議では我先にと発言するようになった。
 やがて、ミーティングがはじまった。さっそく上野が手をあげて、今取り組んでいる自分の営業計画をまとめた資料をくばりはじめる。響はただじっと、この部屋の利用可能時間がすぎるのを待つ。気配を消して。時間がくれば、強制的にを終了するしかない。
「あー、もう終わりだ」一時間半後、ようやく黒木が言った。「この部屋、次、どこかとってる?」
「はい」と新入社員の林が答える。「ネットワークサービスグループが五時までとってます」
 ちっと舌打ち。「じゃあ、ここで切り上げるか。ま、来週もこんな感じで、それぞれ取り組んでいることに力を注いでくれ。ところで、宇佐美」
 すでに席をたって出入り口に向かっていた響は、名前を呼ばれるとは思っておらず、驚きのあまり転びそうになった。白い壁に手をついて、はい、と答える。
「例の件、どうなった」と黒木。「操さんの」
 なぜ彼は、母のことを勝手に操さん、と呼ぶのか。知り合いというわけでもないのに。
「すみません、今回も無理そうです」
 響は言った。ずっとふにゃふにゃごまかし続けるわけにはいかない。
「えー、またダメなの」と横から口をはさんだのは、響と同じタイミングで本社から異動してきた橋本だった。「宇佐美さんと同じチームになったら、いろいろ楽勝だと思ってたのになあ。あのさあ、使えるコネならなんでも使わなきゃ。大手メーカーの社長がお母さんなんて、この国では最大級の武器だよ」
 お前にコネと学歴以外、何があるんだよ。以前、泥酔した彼にそう言われたことがある。本人は忘れたふりをしているが、響は一言一句、脳に刻み込んである。
 今回黒木から頼まれていたのは、駅前で開発が決まっている大型ビルへの売り込みについてだった。もしビル全体で一括でエネルギー需給関連の契約がとれたら、黒木にとって、いやチーム全員にとっての、かなり強力な実績になる。
 黒木から母に対する口利きや仲介を頼まれるのは、今回だけに限ったことじゃない。管轄エリア内で大型物件の開発や商業施設の建て替えなどの大規模な案件が持ち上がるたび、なんとか母のコネを利用して契約をとれないかと持ち掛けてくるのだ。母の操は大手電機メーカー初の女性社長だ。何か頼めば、一つぐらいは協力してくれるかもしれない。堅苦しい人では全くない。実際、あちらの社内では「みさちゃん」の呼び名で通っているらしい。「困ったことがあったらいつでも言ってね」と会うたびに言われもする。
 頼みたくないわけじゃない。ただ、めんどうくさい。それだけだ。
「うちはメーカーで、不動産でもデベロッパーでもないから、なにもできないって。すみません」
 響は仕方なく頭をさげる。そのままちらっとだけ目線をあげて、黒木の顔を確かめる。ぶちぎれている。はっきりと。が、彼はすぐいつものステキング(一課の若い派遣女子が命名した彼のあだ名。社内で一番素敵だから、らしい)なスマイルをうかべて、「まあ、宇佐美だって、いつまでもママのおっぱいを吸ってるわけにはいかないよな」と言った。
 ハハハと廊下に複数の笑い声が響く。また肺に、小さな砂袋がひとつ。何もかもがめんどうくさい。何もかもがいやだ。

 

(つづく)