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 速水は思いのほか憔悴していて、一晩休んでも体がつらそうだった。翌日、桜子は出社したが、速水は会社を休み、そのまま泊まっていった。三日目には実家に帰ったが、結局会社は四日休んだ。

 その後、社内では何の変化もなかった。花村は「おいぺちゃこ!」「そこの洗濯板、ちょっとこい!」などと速水をからかいあざけり、速水はへらへらと笑って受け流す。桜子は手術の同意書を見せてもらっていた。花村のサインがあった。本人の筆跡なのは間違いなかった。費用も彼が出したと聞いた。こんな悪魔みたいな男は、かつて一度も見たことがないと思った。

 速水が二度目の妊娠をしたのは、それから半年もたたない七月のことだった。

 そのときも、速水は夜、桜子のアパートの前で待っていた。すでに十週を迎えていて、間もなく初期の人工中絶は不可能になる時期に入っていると聞いて、桜子は目の前が真っ暗になる思いだった。気づくのが遅かったのか、それともほかに理由があるのか、恐ろしくて聞けなかった。本人の中に少しでも迷いがあったのだろうか。もしそうなら、自分はどうするべきなのか。迷っていてほしくないと思った。そんな苦しみを、受け止めきれない。自分はそんな器の大きな人間じゃない。

 速水の本意はわからないまま、手術当日を迎えた。同意書には前回と同じく、花村本人の筆跡のサインがあった。桜子はその日、朝から出社したあと午後休をとり、速水を迎えにいった。

 速水は前回以上に衰弱していた。粥やうどんを作ってやっても、半分も食べられない。それでも、速水は目を真っ赤にして、限界まで口に食べ物を詰め込もうとした。一秒でもはやく、体力を戻すためなのだろう。それは無論、一秒でもはやく仕事復帰するため。桜子は見ていられなかった。

 本当は二晩だけのはずだったが、手洗いさえふらついてまともにいけないので、三日目の晩も無理やり引き留めて泊めることにした。桜子はその日も休まず出社し、どこにもよらず急いで帰宅すると、かきたまうどんを作ってやった。術後、はじめて速水は残さずすべて食べきった。

 その夜、布団を並べて寝ながら(二度目の手術前日に、布団一式買い足した)、桜子は見知らぬ女に追いかけられる夢を見た。街灯もない真っ暗な夜道を必死で走ろうとしても、ちっとも足が動かないのだ。背後で女はキイキイと妙なうめき声をあげていた。やがて、その細い手が自分の肩をつかんだ。そのまま体にのしかかられ、頭にかじりつかれた。ようやく女の顔が見えたその瞬間、「滝沢!」と叫びながら桜子は飛び起きた。

 隣で速水が泣いていた。キイキイと妙な声を立てながら、こちらに背を向けて。何か話しかけたかった、けれど、言葉がのどにつっかえて何も出てこない。しばらく、その細い背中を見ていた。やがて、速水は静かなそよ風みたいな寝息をたてはじめた。

 翌朝、桜子は少しはやく起きて、いつもより手の込んだ朝食をこしらえた。速水の好きななめこのみそ汁と、速水の好きなツナマヨおにぎりと、好きかどうかわからない、甘い甘い卵焼き。

 ちゃぶ台にそれらを並べて、二人そろって「いただきます」をした。

 にぎりたてのおにぎりに海苔を巻き、速水はかじりついた。ぱりぱりっと小気味いい音が鳴った。しばらく無言で咀嚼して、それからぼそっと「おいしい」と言った。

「珍しい!」桜子は思わず声をあげた。「速水がそんなことを言うなんて」

 速水は基本、食べることに興味がない。何を食べているときでも、あんまりおいしくなさそうな、なんだか妙に難しい顔をしている。滝沢が以前、「速水ってさ、容疑者の噓を暴こうとする刑事みたいな顔でものを食べるよね」と言ったのがとてもおかしかった。お昼はいつも、コンビニのツナマヨおにぎりと、なめこのみそ汁だけ。一度、なぜ毎回ツナマヨとなめこなのかと尋ねたことがある。「別に。一番マシな味だし、考えるのが面倒だから」と速水はやっぱり面倒そうに答えていた。

「何?」と速水はふてくされたように口をとがらせて、桜子を上目遣いで見た。「別にいいじゃん、おいしいぐらい言ったって」

 ふふふ、と桜子は思わず笑った。「これね、マヨネーズにおだしまぜたり、ご飯にもほんのり味をつけたり、いろいろ工夫したんだよ。コンビニのやつよりずっといいでしょ。ちょっとはわたしを見直した?」

 速水は数秒きょとんとした後、フンと笑った。「あんたって……相変わらず食べ物のことしか興味ないんだね。ていうか、今、制服何号?」

「うるさいな。速水こそ、もっと食べて少しはお肉をつけないと、はやくおばあさんになっちゃうよ」

「あんたのお腹はもうすでにおっかさんって感じだけどね」

「ひどーい」と頰を膨らませる桜子を見て、速水はぷっと噴き出した。そのまま、長々とおかしそうに笑い続けていた。桜子はずっとぷんすか怒っているふりをしていたが、それは“おっかさん”を認めることが嫌だっただけで、本当は一緒に笑ってしまいそうになるのを、必死に顔に力を入れて耐えていた。

 なんだか、昔に戻ったみたいだね。

 そう言えたら、よかったのに。けれど、やっぱり言葉はのどでつっかえて、出てこなかった。

 そのあと、ふいに速水は真顔になり、口をつぐんだ。そのまま、また何も話さなくなった。

 朝食を終えてすぐ、速水は唐突に「今日、会社いく」と言った。それから持参していた会社用のシャツとスラックスに着替えると、化粧もせず、桜子より先にアパートを出ようとした。

 洗い物をする手を止めて、桜子は玄関でパンプスをはく速水の、電柱みたいに細くてまっすぐな背中をしばらく見ていた。なぜか速水はてこずって、かかとのところを指でおさえて何度も何度もはきなおしていた。わざと時間をかけているようにも見えた。何か言わなきゃいけない。このまま、何にもしらないふりをして、速水を会社に戻していいわけがない。桜子は自分をしかりつけるように思った。相変わらずこの女の口は悪いし、自分のことをあからさまに見下している。それはわかっている。でも、これまで助け合ってきた同期であり、社会人になってはじめてできた、大切な友達の一人なのだ。

 今まで何も言えなかった。苦しんでいるはずの速水を、見て見ぬふりしてしまった。友達なのに。

「速水」と発した自分の声は、なぜか鼻声だった。

 速水は振り返らなかった。ただ、パンプスのかかとに指を入れた姿勢のまま、石になったみたいにかたまっていた。

「お願いだから」その言葉が、自然とこぼれてきた。そのまま、流れるままに吐き出した。「あんな人とは別れてよ。あんな悪魔みたいな……」

「あんたに何がわかるわけ!」振り返って、速水は叫ぶように言った。目がいちごみたいに赤くなっていた。「何にもしらないくせに、口出ししないでよ」

「何にもしらなくない!」と桜子も同じく叫ぶように言い返した。「だって、二回も……」

「だとしても、あんただけには説教されたくないね」速水は早口でそう言いながら、急いでパンプスをはく。さっきはあんなにてこずっていたのに、なぜかスムーズにはけている。

「あんたなんか、なんの苦労も努力もしてないくせに。お茶くみだのコピー取りだの、誰でもやれる仕事やって、ちょっと手際いいぐらいでほめられて調子に乗っちゃって、バカじゃないの? 何が一人で生きるのが夢だよ。あんたみたいな役立たずが会社に残ったって、厄介者のお局扱いされるだけ。あんたみたいな女はね、若いときに数年雑用したら、さっさと嫁にいって会社を去るのが義務なの。変な夢なんか持たなくていいから、さっさとあこがれの寿退社して、どこか遠くにいってよ。わたしの視界から消えてなくなってよ」

 そこまで言うと、速水は一瞬、目を見開いた。桜子の表情を見て驚いたようだったが、桜子は自分が今、どんな顔をしているのかよくわからなかった。

 速水は再び桜子に背を向けて、ドアをあけた。朝の白い光が差し込んで、目がくらむ。その間に、速水は魔法のようにいなくなった。

 そのとき、床にぽとんと何かが落ちる。自分の涙だとわかるのに、少し時間がかかった。

 

 そのまま休んでしまおうかと思ったが、療養明けの速水が出社して、どこも悪くない自分が休むのも変だと妙な義務感にかられて、結局出社した。が、数分の遅刻になった。自席につくと同時に、朝礼がはじまった。

 いつも朝礼は課ごとに分かれてやっているが、今日は生活営業部全体で行うようだった。年末でもなければ決算期でもないのに変だと思いながら、二課の主任の佐藤がハンドマイクをいじっているのを見る。佐藤はお笑い芸人みたいにいつもおどけているお調子者だが、陰では人の悪口ばかりいっている嫌なやつだった。

「みなさん!」

 佐藤がマイクを通して話し出すと同時に、キーンとハウリングの音が響き、みんながしかめっつらになった。気にせず佐藤は話し続ける。

「おはようございます! 本日は七月最後の金曜日です。いかがお過ごしでしょうか。ところで本日はみなさんに、とってもとってもおめでたいご報告がございます!」

 そのときにはじめて、佐藤の隣に花村、そして滝沢が並んで立っていることに桜子は気づいた。

「こちらにあらせられますわが生活営業部の若きリーダー花村課長と、生活営業部、いや、本社一の美人との声も名高い滝沢麗子さんが、この度、ご婚約をされました!」

 静寂。まるで突然、目の前に巨大な怪物でも現れたかのように、誰もがぴたっと静止していた。そして、少しずつ、さざ波のような小さなどよめき。一人、二人と速水を振り返る。桜子のところからは人の陰にかくれてしまって、彼女の小さなかわいらしい耳元――滝沢がいつも、アサリみたいな耳だとからかっていた――しか見えなかった。その耳は今、火にあぶられたように真っ赤になっていた。

「いやいや、まさに美男美女、お似合いですよね。花村課長に合う女性は、滝沢さん以外には思いつかないですよ!」佐藤が何にも気づいていないふりをして、ことさら明るく言った。「それでは少し、お二人にインタビューしていきましょう。まずは未来の花村夫人。今後、お仕事はどうされるんですか?」

 マイクを渡された滝沢は、恥ずかしそうにうつむいたあと、得意満面の笑みをみんなに向けた。

「しばらくは、続けようと思います。彼が、いまどきは女性も社会に出ていきいきと働くほうがいいよ、と言うので。もちろん、家事をおろそかにしない程度ですけど」

「そうなんですね。ところで、お子様は何人のご予定?」

「えー!」と滝沢は大げさにのけぞった。「いきなりそんなこと聞くんですかあ……うーんじゃあ、えっとお、家族でオーケストラができるぐらいに」

 一瞬の間をおいて、誰かがアハハハッとわざとらしい笑い声をあげた。よくテレビのバラエティ番組でスタッフがやっているような笑い方だった。続けて何人かが同じような乾いた笑い声をあげ、誰かが「麗子さまー!」と叫んだ。滝沢の発言は先だって行われた皇太子妃内定の記者会見で、現皇太子妃が発した言葉を真似たものだと、桜子はようやく気づいた。

「お姫様気取りってわけね」

 そのとき、横で誰かが言った。町田だった。

「男も女も、誰も信用できないよ、この会社は」

 桜子は再び、速水の小さな耳を捜した。見つからなかった。

 

(つづく)