それから、一カ月あまりすぎた九月はじめの朝、更衣室で制服に着替えていると、すでに身支度を済ませた滝沢が、うれしそうに話しかけてきた。
「ついに今日、彼が来るよ」
振り返って滝沢を見て、おや、と思う。休みの日にしか見ない、大ぶりのイヤリングをつけている。
「彼って?」
「例の新しい課長だよ!」
ふーんと答えたあと、桜子はふっと息をとめてスカートのホックを留めた。また少しきつくなってきた。
「さっき会社にくるときね、駅前でちらっと見かけた気がするの」珍しく興奮した口ぶりで滝沢が言った。「その人、すっごく背が高くて、脚がすらっと長くて、歩くのがとってもはやくて、あっという間に遠くにいっちゃった、絶対、あの人が新しい課長だと思う!」
この間、滝沢の実家にいったときに、速水が話していた。次の人事異動で、神奈川支社からトム・クルーズにそっくりの人が異動してくるらしいと。
速水によればその人物は政治家一家出のサラブレッドで、年齢は二十九歳、今回の異動で、わが社において最年少の課長就任になるという。トム・クルーズに似た人が神奈川にいるらしいという噂は、以前からたびたび耳にしていた。桜子はひそかに、そいつはトム・クルーズになんか全然似ていなくて、せいぜいマイケル富岡に似ていれば御の字といった程度だろうと思っていた。この会社は噂に尾ひれがつきやすい。
「ねえ日吉、襟が曲がってるよ。ちゃんと鏡見なさいよ」
滝沢がお姉さんの顔で、桜子のブラウスの襟を直してくれる。そのとき、いつもより口紅の色が濃いことに気づいた。もしかして、香水もつけている?
そのあと、二人そろって生活営業部のフロアに向かうと、一課の課長席のあたりに人だかりができていた。その人々の塊から、大きくて広い肩と、真っ黒な頭がぴょっこり突き出ている。こちらに背を向けているので、顔はわからない。
「やっぱり、駅で見た人だ。同じ背中だもん」と滝沢が小声で言った。
そのとき、そのぴょっこり突き出た頭がふいに振り返った。桜子は思わずぷっと小さく噴き出した。やっぱりそうだった。トム・クルーズになんか全然似ていなかった。マイケル富岡にすら似ていない。でも、誰かには似ている。えーっと、えーっと、トゥギャザーしようぜの……。
「あ! ねえ、あの人さ、ルー大柴に……」
「やっぱりトム・クルーズにそっくりね!」滝沢が顎の下で手をあわせて言った。「ダブルのスーツが、とっても似合ってる!」
桜子は何も答えなかった。彼を囲む人だかりの端に、速水の姿を見つけたからだ。休みの日にしか着ない白のワンピースに、やっぱり休みの日にしかつけない大きなイヤリングもしている。似非トム・クルーズ新課長を見つめるそのまなざしは、運動部の先輩にあこがれる少女のそれだった。その少しそばには、町田がいた。速水のほうを見ながら、お局仲間とひそひそ話をしている。
「遊びにきてるんじゃないわよ」
「色気づいていやね」
そんな会話が、聞こえてくるようだった。
「あ、時間だ、朝礼始まるよ」滝沢が言った。「新課長の挨拶、ちゃんと聞かなきゃ」
桜子はため息をつきながら、自席に向かった。なんだか妙な予感がする――嫌な予感、かもしれない。これから、とてつもなく面倒なことが、起こりそうな気がするのだ。
新課長の花村は、桜子がこれまでの人生で出会った男たちの中で、トップクラスに嫌なやつだった。
まず何が嫌といって、異様なほど声が大きいことだった。目の前にいるのに100メートル先にいるかのような大声で「日吉!」と呼ばれるたび、鼓膜が破れそうになる。そしてその大きな声で、一日中誰かの容姿をからかい、けなしているのだ。
薄毛の男性社員が彼に話しかければ、「まぶし!」と目をほそめ、太っている人が立ち上がれば、「お! 地震か?」などと言って周囲の反応をうながす。もちろん、部下たちは愛想笑い。中でもとくにターゲットにされているのが、速水だった。
速水の胸が小さいことを、毎日毎日飽きもせずからかうのだ。桜子は一度気になって、朝から晩までひそかにカウントしてみた。その日は十七回も言っていた。
「お前、今日もぺったんこだなー」
「お前はアレだろ? AどころかAマイナスってやつだろ?」
「お前は一生痴漢もされないだろうし、むしろラッキーだな」
「小さいほうが感度がいいともいうしな」
そんなしょうもないことを、本当に一日中言っている。さらに桜子をいらだたせているのは、それに対する速水の態度だった。
これまでも、営業担当の男性社員からセクハラまがいの発言をされることは日常茶飯事だった。そんなとき、速水は相手にせず無視するか、ときには「失礼ですよ」と毅然と言い返していた。ところが花村に何を言われても、体をくねくねさせながらへらへら笑っているだけなのだ。しかも、花村だけでなく、ほかの男性社員に対しても同じ態度をとるようになった。
ある日たまらず、桜子は速水に言った。「あんなこと言われて、腹が立たないの?」と。
すると速水は見下すように鼻で笑って、こう言った。
「あのぐらい笑顔でかわせないようじゃ、キャリアウーマンなんて到底無理だから。あんたはお茶くみさえやってればお金もらえるから、のんきでいいよね、本当」と。
桜子は、腹をたてたりはしなかった。いつものことだったからだ。
それをきっかけに距離をおこうとしたのは、むしろ速水のほうだった。会社で話しかけてもそっけなくなり、週末の誘いも断られるようになった。はじめのうちは滝沢と二人で会っていたが、滝沢も滝沢で二課の同期の人たちと過ごすほうが楽しくなってきたようで、次第に、どちらからともなく声をかけなくなった。以前は昼休みもなるべく三人で一緒にとっていたのに、気づくとそれもなくなった。
桜子は一人になった。
けれど、それは決して悪くなかった。三人いると各々の希望がぶつかってばかりだが、一人ならなんでも自分の好きに決められる。お昼は財布だけ持って会社の周辺を一人歩いて、気になる店にふらっと入る。お気に入りのお店のお気に入りのメニューを、次々に見つけていった。昔ながらの喫茶店の昔ながらのカツカレー。きざんだかまぼこが妙にいい味を出している中華屋のチャーハン。たちぐいそば屋であっという間に売り切れる大きなかきあげ。外食でお金を使う分、ほかのところではきちんと節約した。休日は自分で玉子焼きとおにぎりだけの弁当を作って近所の公園にいったり、レイトショーで映画を見たり。周りの同世代の人たちは、夜遊びや買い物、海外旅行に夢中のようだった。自分はナンパにもディスコにもルイヴィトンにも、一切興味がない。上京している地元の友達とときどき会うこともあったが、基本的にはいつも一人。でも不思議と、さみしいと思うことがなかった。
小さいときから、一人遊びが好きだった。家族のことは嫌いじゃないが、心のどこかでいつもうっすらと、一人になりたいと思っていた気がする。
会社も、前ほどは嫌な場所でなくなりつつあった。このところコンピュータ導入による業務のデジタル化が著しく、生活営業部でいちはやく対応したのは桜子だった。営業の男性たちからますます頼りにされ、花村もときには「日吉さ~」と猫なで声でパソコンの操作について助けを求めてくるときもあった。桜子はこれまでのいびり、意地悪を不問に付して、デジタル化にもっとも出遅れていた町田にも優しく教えてやるようにした。すると町田の態度も徐々に軟化して、以前は挨拶しても当たり前のように無視していたくせに、ときどき雑談をしかけてくるようになった。はじめは誰かの悪口ばかり聞かされていたが、相手にしないでいると、おいしい季節の食べ物や好きなパン屋の話をするようになり、やがて、ときどき自宅で作った菓子やパンをおすそ分けしてくれるようにまでなった。
桜子の社会人三年目も、徐々に終わりに近づきつつあった。次の夏で二十二歳になる。クリスマスケーキの歳までにはまだ少しあるが、余裕たっぷりというわけではない。地元の友人たちの結婚ラッシュはすでにはじまっている。中学からの付き合いの一番の親友は、すでに二人目を妊娠中だ。
このまま、今の生き方を続けていくのは無理なんだろうか。そんなことを、ときどき考えるようになった。昼休み、行きつけの喫茶店のカツカレーを待ちながら。金曜日、まだ空が明るいうちに退社したあと、駅前の立ち飲み屋に寄っていくか迷いながら。休日の夜、近所にいつもくるラーメン屋台のチャルメラの音にひかれつつ、外にふらっと出かけながら。自分一人のために働いて、自分一人の生活のために家事をする。それじゃあ、ダメなんだろうか。キャリアウーマンでそれを実現している人は、きっといるのだろう。でも、そうじゃなくて、もっと負担の小さい仕事で、自分にもできる働き方で、そんなにたくさんお金はなくていいから、とにかく、一人で気楽に、楽しく暮らしていくことなんて、無理なことなんだろうか。そんな人を、今まで見たことがない。一人で生きている人はいても、その人はさみしい人、人生に負けた人だ。そう教えられてきた。じゃあ、どうしたらいいのか。そんなことを、ときどき、いや毎日のように考えながら、社会人三年目の最後の月を迎えた。
三月半ばの金曜の夕暮れどき、その日は初夏のような陽気で、会社を出たらまだ空は明るく、それだけで歌いだしたいほどうれしくなった。こんな日は、飲んで帰らなきゃ――そう心の中でひとりごとを言いながら、ガード下の立ち飲み屋によって、生ビールを二杯飲んだ。あてはたこわさとつくねと子持ちシシャモ。そのあと、上機嫌にまかせて日本橋まで散歩して、町田に教えてもらった夜遅くまでやっているうどん屋に入り、町田おすすめのきつねうどんで〆た。黄金色のつゆはかろやかに甘く、最後の一滴まで飲み干してしまった。なんて、なんて最高な金曜なんだろうと幸せいっぱいの気持ちでアパートに帰ってくると、ドアの前に雪みたいに真っ白な顔をした速水が立っていた。
桜子は前年の秋に川崎市にある女子社員用の独身寮から、駒込駅の近くのアパートに引っ越した。独身寮はほとんどが高卒社員で、二十三歳までに退寮するのが暗黙の規定になっていた。もちろん、大方が寿退社で出ていく。桜子は追い出しの声がかかる前に、自ら転居した。
だから、速水は今の住まいを知らないはずだった。仕事以外での関わりは、もうまったくなかったから。
「社員の住所なんて、調べれば簡単にわかるよ」玄関でお気に入りのフェラガモのパンプスを脱ぎながら、速水は言った。「社長の家だって、会長の愛人のマンションだって、社内じゃつつぬけよ」
小さなワンルームの真ん中に置いたちゃぶ台の前に速水を座らせて、とりあえずお茶を淹れた。桜子が向かいあって座るなり、速水は唐突に言った。
「妊娠中絶するから、その日、病院につきあってほしいの」
そのとき桜子が思ったのは、速水は速水のままなんだな、ということだった。前置きも、躊躇も、ほのめかしもなく、どんなことも単刀直入。どんなに悲しいことも、どんなにつらいことも。
「それは、花村課長の子?」
だから桜子も、まっすぐに尋ねた。速水は唇を引き結んだまま、ほんのわずか、見逃してしまいそうになるぐらいほんの少しだけ、首をたてに動かした。
花村と速水が男女の仲であることは、今や公然の秘密だった。きっかけはおそらく十月の社員旅行だ。伊東の温泉宿での宴会の最中、酔った花村が速水をしつこくくどいていた。明け方五時頃、花村が一人でとったスイートルームから速水がこっそり抜け出してくるところを、一番風呂に入りに行く途中に目撃したという町田の重要証言もある。さらに今年に入って二人は二度、ともに遠方へ出張し、その際にとった部屋は二度とも一つだけだった。本来であれば総合職の社員は四年目の春に異動するのが慣例だが、本社では速水だけ、辞令がでていない。花村が手をまわしたのは明らかだった。
花村は今も変わらず、業務中に速水の容姿、とくに胸のことをみんなの前でからかい、速水はおもちゃのフラワーロックみたいにくねくねしながら「やめてくださいよ」などと甘い声で応えている。周りの社員は、何もかもすべてわかったうえでの愛想笑い。その一員でいなければならないのが、桜子はいつもたまらなく不愉快だった。たったそれだけのことで、最近また会社をやめたいと強く思うようになっていた。
花村との関係を知ってからも、ずっと、速水に何も言えなかった。そしてこうなってしまった今も、桜子はやっぱり何も言えなかった。聞くべきことは、きっとたくさんある。なぜ、あんな男と付き合うのか。なぜ、中絶なのか。あの男は独身だ。だから責任をとれるはずだ。もっとも不可解なのは、なぜ、助けを求める相手が、自分なのか。
その中の一つだけ、聞かずとも答えを得られた。
「わたし、まだ実家だし、母親がああでしょ。少しの変化でも見逃さずに追及してくるから、うっとうしいの。手術の当日と、翌日ぐらいまで、ここに泊めてほしい。頼める友達、あんたしかいないの」
友達、という言葉が、雪の結晶のように心の中にふらふらと舞い降りて、底にはりつく。桜子は湯呑の中で揺れる茶柱をじっと見下ろし、ただ「わかった」とだけ、かすれた声で答えた。
病院の予約がとれた翌週の月曜、二人で有休をとった。とはいえ、桜子は最初から付き添ったのではなく、処置が終わったあとに迎えにいった。布団は一組しかないので、その晩、桜子は畳に座布団を並べて寝ることにした。
いつも滝沢に「あんたはのび太を超えてるね」と笑われていたぐらい、普段は横になるとあっという間に眠りに落ちてしまう。けれど、その晩は座布団のせいか、ちっとも寝付けなかった。明かりを消してから、何分経ったかわからなかった。桜子は小さな声で「速水、起きてる?」と聞いてみた。
「……起きてるけど」
返事が返ってくるとは、思っていなかった。少しだけドキドキしながら、桜子は「わたしね」と話しはじめた。
「速水と違って、わたしね」自分のかすれた声が、薄暗い闇の中に吸い込まれていく。「わたし、夢とか目標とか、何にも、本当になーんにもないじゃない? 前も話したけど、陸上だって、全国いったり実業団に入ったりもできたけど、なんだかそこまでやる気になれなくて、中途半端な感じでやめちゃったし。とにかく、なりたいものとか、やりたいこととか、特別好きなこととか、子供のときから、ないの。別にそれでもいいかと思いつつ、でも、あんたみたいな人を見てると、そんなんじゃダメかもしれないって、思ったりするときもあって。
でも、最近、よく考えることがあってさ。わたし、このまま一人で、ずっと生きていきたいなって思うの。それも、夢や目標になるかもしれないって。今みたいな、誰でもできる仕事でいいから、とにかくこつこつ働いて、自分を養うだけのお金を自分で稼いで、別に何か成果をあげられなくてもいいし、誰かにほめてもらえなくてもいいし、誰かに好きになってもらえなくてもいいし、プロポーズもされなくてもいいし、とにかく、一人で楽しく生きていきたいって、そんなことを自分の夢にしてもいいんじゃないかって、最近、ときどき思うの。バカみたい? そうだよね。でもさ、わたしの周りにはそんな人はいなくって。なんか、一人で生きてる人、たいしたキャリアを持たない人は、さみしい人、負けた人みたいな感じがするじゃない? だけど、わたしはそうじゃなくて、それでも楽しく生きてる人になりたいし、もしかしたらこの先、同じように考える女の人も現れるかもしれない。そういう人の、いい見本にもなりたいなって。それが、はじめてできた、わたしの夢かもしれない」
少し前から、子供みたいな静かな寝息が聞こえていた。自分がただ虚空に向かってしゃべっていることには、だいぶ前から気づいていた。それでも、自分の気持ちを口に出したのは、この夜がはじめてだった。