しかし、桜子からのSOSは思いのほかすぐにやってきた。六月最後の土曜、十一時すぎまで惰眠をむさぼっていると、LINE電話が鳴った。
「ひーちゃん!」その叫びは、今まで聞いたことがないぐらい、せっぱつまっていた。「助けて! 起き上がれないの!」
なんでも、昼食の支度をしている途中に腰に激痛が走り、そのまま身動きがとれなくなってしまったという。響はベッドから飛び起き、自転車をかっ飛ばして桜子宅へ向かった。
インターホンを押した響を出迎えたのは、まったく知らない女性だった。
「いらっしゃい」
しかしその声を聞いて、響は心臓が止まりそうになった。上下黒のスウェット姿で、すっぴんの顔に髪をお団子にした目の前の女性は、速水だった。会社で見る姿とはまるで違った。速水はすぐに部屋の中に引っ込んだ。響は驚きとショックとよくわからない感情で、その場に立ったまま身動きできなかった。すると「ひ、ひーちゃん」と自分をよぶか細い声が聞こえ、我に返る。
靴を脱ぎ、部屋に上がった。桜子は布団の上にあおむけになっていた。ひざの下にクッションをしいている。
「し、湿布、買ってきてくれた?」
「あ、はい」
「腰に、貼ってくれる?」
響は慌てて桜子のそばによった。桜子の体を横向きにさせるとチュニックをまくりあげ、言われた通りに腰に湿布を貼ってやる。そうしながら、速水の姿を横目でちらちらうかがった。座椅子に座り、我関せずといった様子で韓国ドラマを見ている。
思っていたより、元気そうだ。というより、会社にいたときから病的な見た目だったから、あまり変わったように見えないだけかもしれない。
「昼ごはんの支度をしてたらさあ」と桜子が半泣き声で話し出す。「ツナマヨおにぎりとなめこのみそ汁を作ってたんだけどお、あ、お出汁お出汁と思って下の棚を開けようと腰をかがめたら、ぎっくりよ、もう。やんなっちゃう」
「病院、いきます?」
「ううん、しばらく安静にしてたら治ると思う。五年前ぐらいに一度やってるの。それよりひーちゃん、昼ごはんの支度の続き、やってくれる? この人になにか食べさせなきゃ」
「いい、いらない」と速水がぶっきらぼうに言った。画面の中でいちゃつく若い韓国人男女の姿にくぎ付けになったままで。
「ダメよ」と桜子。「台所とっちらかったままだし、わたしはお腹ぺこぺこだし、ひーちゃん、お願いよ」
響は仕方なく台所に立った。ステンレス台には銀のボウルと、中途半端に開けられたツナ缶があった。炊飯器を見ると、すでにご飯は炊きあがっているようだ。
それから、背中越しに桜子の指示を受けながらのおにぎり作りがはじまった。ツナは油をしっかり切り(親の仇をとるつもりでしっかり切って。でないと油でべちゃべちゃおにぎりになっちゃうから)、マヨネーズ、醬油、顆粒だし、それから少しの砂糖(ツナとマヨは一対一、それがわたしの黄金比よ)を入れて混ぜる。炊飯器をあけると、炊きたてのご飯は味がついているのかほんのり茶色だった。このところおにぎりは佐藤さんのところばかりで、自分で握るなんて何年ぶりかわからず、最初は米の熱さに苦労したが、何とか六つ、こしらえた。
そのあたりで面倒くさくなったのか「あとはひーちゃんの好きなようにやって」と言って桜子は寝てしまった。だから、なめこのみそ汁はいつも家でやっている通りの手順で、とくに量りもせず適当に仕上げた。冷蔵庫を見ると卵がたくさんあったので、ついでに卵焼きも作ることにした。速水を気遣うのは不本意だったが、病人には甘い味付けのほうがいいような気がして、以前すいちゃんに教えてもらった、みりんとだし汁が一対一のしっかりと甘いだし巻きにした。
「できましたよ」
桜子はいびきをかいて寝ていた。少し痛みがやわらいだのか、「いててて」と言いつつも、自力で起き上がることができた。響は布団をたたんでやり、それからちゃぶ台を部屋の真ん中に寄せて配膳した。その間、速水は何もしなかった。
三人で卓を囲み、そろって「いただきます」をする。速水も手をあわせて、ちゃんと「いただきます」と発声していた。その声は、猫の足音よりも小さかったが。もし言わなかったら皿をさげてやろう、と響はひそかに思っていた。
海苔は巻かずに、別皿に添えた。速水がぎこちない手つきでおにぎりに巻くのを、なぜか桜子と二人、固唾をのんで見守る。彼女のために、二つだけ少し小さく握った。
速水は子供みたいに小さな両手でおにぎりを持ち、頰張った。ぱりっと海苔の小気味いい音が鳴る。しばらく無表情で咀嚼したあと、ぽつりと言った。
「あ、おいしい」
「でしょう!」と桜子が、出会ってから今までで一番のドヤっぷりで言った。「これね、マヨネーズにおだしまぜたり、ご飯にもほんのり味をつけたり、いろいろ工夫してるの。わたしオリジナルのレシピなんだから。コンビニのやつよりずっといいでしょ。ちょっとはわたしを見直した?」
ふん、と速水は鼻で笑う。それだけで、もう何も言わなかった。
響もおにぎりに海苔を巻き、一口食べてみる。醬油の香ばしさをまとったご飯と、こっくり濃厚なツナマヨが絶妙なコンビネーションを発揮している。正直、こんなにおいしいツナマヨおにぎりは食べたことがないと思った。が、これ以上、桜子を調子づかせるのもなんだか悔しいので、「なかなかいいですね」と言うにとどめた。
「何よ、二人ともそっけないわね」とふくれ面で言いながら、桜子もおにぎりを頰張る。一口でほぼ半分だ。「……あ! おこげのところに当たったわ! うーん、うまい!」
それ以降は、とくに会話はなかった。テレビからは韓国ドラマが流れっぱなしだった。若い女性がすすり泣きながら恋人らしき男性に何かを強く訴えている声をBGMに、三人で黙々と食べ進める。
速水は途中から少し苦しそうだったものの、なんとか残さず食べきった。響は何度か「無理しないでください」と声をかけそうになったが、ぎりぎりで思いとどまった。皿を下げるとき、「ごちそうさまでした」を言わなかった速水を見て、気遣いなどしなくてよかったと心から思った。
洗い物を済ませたらすぐに帰るつもりだった。が、「ひーちゃん、お茶」と桜子が昔の頑固おやじみたいに言うので、仕方なく三人分お茶を淹れた。お茶請けに、戸棚の中に見つけた十万石まんじゅうを勝手に出した。「めざといわね」と桜子がにらみつけてくる。
その頃には、韓国ドラマは終わっていた。速水はリモコンを操作してテレビを消すと、唐突に言った。
「あんた、ぎっくり腰になってよかったね。おめでとう」
「は? なんでよ」桜子は十万石まんじゅうをぺろっと一口で飲み込んだ。「あんたね、人の不幸を喜ぶなんて、罰が当たるわよ。あ、もう当たってるか。ご愁傷様です」
「不治の病におかされた人間にそんな無慈悲なことを言うなんて、あんたもろくな死に方しないよ。あのさ、有休をもうすぐ使い切っちゃうって、この間言ってたじゃない。でもまだ契約日数残ってるんでしょ? 疾病休暇とれれば、休み延長できるじゃない」
「あ!」
「頭使いなさいよ、頭」と速水は言って、自分の頭頂部のお団子のあたりを指さした。
「まあ、あんたにしては、いいアイディアね」と桜子は言う。「週明け、さっそく手続きしてやるわ。いつもみてくれてる整形外科の先生なら、力になってくれるはず。人事のハゲちゃびんの怒り心頭の顔が、目に浮かぶようね」
「怒り心頭なのは、ハゲちゃびんだけじゃないですよ」響は言った。「桜子さんが休みはじめた途端、法人二課全体がぐちゃぐちゃになっちゃって、大変だって聞きました」
アハハハ! と桜子は高笑いしながら、速水の分の十万石まんじゅうを奪って口に放り込んだ。「なんですって! 最高じゃない。『庶務なんて中学生でもやれる仕事』なんて言ったやつはどこのどいつよ。人の不幸で菓子がうまい、うますぎるわ!」
「新しい庶務をよその部署から二人異動させたらしいんですけど、桜子さんが一日で片づけてた仕事が、二人がかりでやっても三日かかるそうで。桜子さんが管理してた取引先のデータは更新されないし、メール問い合わせも全無視状態だし、コピー用紙すらどこにあるかよくわからないしで、日ごと混乱が増していって、しかもハゲちゃびんのパワハラもひどいしで、結局、新しい庶務さんのうち一人は退職、一人は来週から休職だそうです」
ガハハハハ! と桜子は首をそらして、さらに豪快な笑い声をあげる。「今日はお赤飯炊こうかしら。あんたも食べてく?」
「いらない」と速水。「ていうかのどちんこまで全開にして大笑いしないでくれる? おばさんののどちんこほど見たくないものはないわ」
「本当、あの会社って愚か者しかいないわね」と桜子は速水をまるっきり無視して言った。「忙しいけど週三日は出てあげるってこっちが言ってるんだから、そのときに素直に受け入れていればいいものをさ。わたしもそれを恩に着て、普段一日でやってた仕事を半日で仕上げてあげたのに。ただの雑用係のおばさんのわがままなんか聞けるかよ、なんてなめくさった態度とってるから、そんなことになるのよ。本当にあの会社の人たちの浅はかさといったらないわ。わたしのお腹の中の大腸菌たちですらせせら笑ってるわ。あーいい気分。ひーちゃん、冷蔵庫に、川越プリンあるからもってきてくれる?」
「なんであんたんち、埼玉銘菓ばっかりあるの? 休日は県内観光しかすることないの? もっとましな趣味作ったら?」
「ひーちゃん、この人の分はもってこなくていいから」
「いらないわ。昼から甘いもの二種類も食べるごうつくばりと一緒にしないで」
はいはい、と響は心の中で答えながら、立ち上がる。冷蔵庫の中に、いろんな味の川越プリンが全部で九つもあった。桜子が「わたしいものやつー」というので、川越いも味と自分用に小江戸レトロ味を取り出し、スプーンと一緒にもっていく。
別添えのカラメルはまだかけずに、まずはそのまま一口食べてみた。しっかりかためのプリンはたまご感に満ち満ちていて、まさに自分好みの味だった。やはりプリンはかために限る。小江戸レトロ味はまだ冷蔵庫に一つあった。あとでこっそり持ち帰ろうと思いながら、満を持してカラメルをそそいでいると、「あ、そうだ、ひーちゃん」と桜子が言った。
「誰から聞いたの? その話」
「え?」
「だから、今の話、誰に聞いたの?」
「えっと……」
「法人二課に親しい人なんていなかったでしょ? 今野さんとも仲悪そうだったし」
「あの……」
「彼氏でしょ」速水が言った。
響は当然、わが耳を疑った。聞き間違いか、それとも言い間違いか。
「え? 彼氏?」と桜子。
「そうよ。黒木でしょ」
「え?」と桜子が眉を顰める。「その人とはもう別れてるでしょ。ていうかなんで、速水が知ってるの?」
「黒木は新卒から三年、わたしが本社の営業にいたときに面倒見たのよ。彼女がクレ管に異動してくるときも、わざわざ何度も電話してきて、いろいろ教えてくれたわよ。お母さんがどこぞの偉い人で、本人もエリート意識が高くてMARCH卒以下の人とは口も利かないとか、四十過ぎて独身でいる女性のことは常に小バカにしてるとか、取引先に出向くときは、いつも下着がすけるブラウスを着てるとか、なんとかかんとか」
わけがわからなくて、響はただ口をぱくぱくさせていた。飲み込めない、と思った。昔、台湾旅行にいったときに食堂で出された臭豆腐ぐらい、話が臭すぎて飲み込めなかった。速水が黒木と旧知の仲だったということも、黒木が速水にわけのわからない話を吹き込んでいたことも。異動が決まったときの、黒木の言葉が脳裏をよぎる――困ったことがあったら、いつでも連絡してくれていいから。な?
「何それ」と桜子。「あんた、そんなの真に受けたの?」
「わたしはそんな間抜けじゃないわ」と速水。「黒木は新卒の頃から、二枚舌の遣い手として有名な男だったからね」
そう言ったあと、速水は咳払いして、それから響を正面から見据えた。「で? あなた最近、黒木とよりを戻したんでしょ? 正気なの?」
あ、とそのときに響は気づいた。ずっとこの人の目は何かに似ていると思っていたが、やっと今、わかった。何年か前にいったお台場のマダム・タッソー東京で見た蠟人形の目に似ている、ああそうだ、本当にそっくりだ、この心の感じられない、冷たい目つき。
……いつも、わたしはそうだ、と響は思う。自分にとって面倒な何かが現れたときに、まっすぐ向き合おうとせず、全力で顔をそむけてやりすごそうとする――最近、黒木に指摘された、自分の大きな欠点。
「……よりは、戻してはないです」半分減った川越プリンに視線を落として、響は言った。「ただ、彼が今、いろいろなトラブルに見舞われて困ってるって言うから、ときどき話を聞いているというか」
「一課の庶務の子に裏切られたってやつね? こっちは合意の上で付き合ってるつもりだったのに、セクハラで訴えられたとかなんとか」
「はい……それです」
「一昨日、黒木が電話をかけてきて言ってたわ。恋人のあなたが全然助けになってくれない、本気で苦しんでいるのに、話も聞いてくれないって」
響はうつむいた。「恋人では……もうないんですけど。まあ、彼は戻りたいようではあります」
「あなたは、黒木になんて言ってるの? そのトラブルについて」
「特に何も」
そう言いつつ、どうして自分は速水にこんな話をしているのかと脳裏に疑念がよぎる。が、ここ数日、心の底に水カビのようにこびりついてとれない何かを吐き出す、いい機会かもしれないと思った。
「彼がこのところいろいろあって困ってるみたいで、だからここ数カ月、ときどき話を聞いてあげてるんです。それだけです。なんだか無下にすることもできなくて……。それで一昨日、ひょっとしたら速水さんに電話する前かもしれないです。どうしても会って話したいって言われたから、久しぶりに会ったんです。で、まあ黙って話を聞いてたら、突然、彼に言われたんですよ。お前はちっとも他人と向き合おうとしない。これまで生きてきて、一度もちゃんと向き合ったことがないだろうって。だから、お前は誰からも真剣に愛されないし、求められない。誰からも嫌われないかわりに、誰の一番にもなれない。誰にとっても、会社にとってもそうだって。優先順位は五番以下。わびしい人生だなって」
速水は何も言わなかった。ただまっすぐ、例の蠟人形みたいな目で見据えてくるだけだった。
「本当に、彼の言う通りかもしれないって、なんだかひさびさに心にずしんときたんですよ。確かに、他人と向き合うことを避け続けてきたのが、わたしの人生だなあって」
そこまで言ったあと、ちらっと桜子のほうを横目で盗み見た。右手の親指のささくれをめくっていた。
「昔、母にも似たようなことを言われたんです。面倒なこと、困難なことをあなたはいつも避けるけど、そんな態度じゃほしいものは何ひとつ手に入らないよって。夢の一つもかなわない人生でいいのって」
またちらちらっと、桜子を見る。今度は左手の親指のささくれをめくりはじめた。
「確かに、二人の言う通りなんですよ。わたしの人生って、何にも手に入らない人生といえば、その通りだし、大事な人からの信頼も得られず……」
そのとき、ぶーっと破裂音がした。速水の笑い声だと、すぐにはわからなかった。
「あんたたちって、本当にそっくり!」そう言って、速水はまたぶーっと噴き出す。「もう同じ! 双子よ、双子」
そう言って笑いながら、響と桜子を交互に指さした。桜子は目を丸くして言葉もなく驚いているようだった。自分も同じ顔をしていることは、鏡を見なくても明らかだった。
速水はくすくすと笑い続けていた。笑うと蠟人形の目が消えて、目じりにたくさんしわができて、眠たいときの猫みたいだと思った。「あーおっかしい。この人もさ、若い頃、わたしがいろいろ悩んであれやこれや話しても、いっつもしらーん顔してるの。面倒くさい話は聞きたくない、知りたくもないって態度丸出しで、口にするのはいつも、どうでもいい食べ物の話ばっかり。こいつ、彼氏できないだろうなって、結婚もできないだろうなっていつも思ってた」
「ま! なんて失礼千万!」
「だから結婚決まったときは、天地がひっくり返ったかと思うぐらい驚いたね。一年もたたず別れてたけど」
「三年持ちました!」
「わたしはあんたに、悩みを聞いてほしいってこれまで何度も思ったけど、ちっともまともに聞いてくれないから、何十年も前にあきらめたわ。おばさんになった今でも変わらないんだから。わたしが病気のことを愚痴ろうものなら、途端に目がうつろになって、耳が犬みたいにぱたんと閉じちゃうんだもん」
「そんなわけないじゃない。犬じゃないんだから」
「だって、あんたたちの人生で、あんたのことだけを熱心に求めてくれた人はいる? ただの一度でも、一瞬でも、あなたが一番だ、誰よりも必要だって言ってもらえたことはある? 男からでもいいし友達からでもいいし、会社とか何かの組織でもいいから」
しーんと静まり返る。桜子は唇を尖らせて、何か言いたげにもぐもぐしているが、何も言わなかった。自分も同じ顔をしているだろう、と響はまた思った。
「ないでしょうとも。だって、あんたたちは、何に対しても全力で向き合わないし、誰も愛さないんだから。ま、でもいいんじゃない? 例えば、お前は俺の一番の女だって好きな男に言ってもらえても、その愛がほんの数日で消えてしまったら、意味はないわけだし」
再び沈黙が、部屋を静かに横切っていく。今度のは、少し長い。響はうつむきながら、二人の顔を交互に見た。今、彼女たちは何を思っているのだろう。同じことを、思い出しているのかもしれない。
「わたしはさ、あんたたちと違って、なんでも全力投球だから、いろんなものを手に入れることができたけど、失うことも多い人生だったわね。で、結局こんな病気までして、看取ってくれる家族もなくお陀仏よ。若いときはさ、正直内心でこの人のことをバカにしてたわけ。夢も目標も何もない、ただ生きてるだけの怠け者ってさ。でも、こうなってみれば、あんたたちの生き方もそれはそれで悪くないと思えるわ。運が良ければ、こうして同士と巡り合えるわけだし。一生、仲良くしていなさいよ」
そう言ったあと、速水はまたくすくす笑い出した。やっぱり似ている、と思った。子供の頃に飼っていた三毛猫のリンダが、眠たいときの顔に。