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 木の板に、カットされたパンがのっている。バケット、いちじくのライ麦パン、クリームチーズがサンドされたベーグル。この持ち手のついた木の板は、パンをのせるためだけに存在するのだろうか。ほかに用途はあるのだろうか。普段、家族の食事のときにも使っているのだろうか。あるいはわざわざ今日のためだけに、買ってきたのだろうか。
「どうしたの? パン、食べたいの?」
「え」
「ずっと見てるから」そう言って、美咲は感じのいい笑顔を向ける。
「えっと、このい……」
「あ、ごめん、バターがないね」
 そう言うと、美咲はさっと立ってキッチンへむかった。「おまたせ~」と言いながら出してきたのは、個包装されたホイップバターだった。
 こんなもの、ホテルの朝食でしか見たことがない。どこかのホテルからがめてきたのだろうか。
「どうしたの?」と美咲。「まだ何か気になる?」
 このバターは盗品ですか、とはさすがに聞けない。響は「大丈夫。パン、いただくね」と笑顔を作った。
 バターの包みをぺりぺりとはがしながら、テーブルを見渡す。生ハムの盛り合わせ、ゴルゴンゾーラのペンネ、蒸し野菜とソース三種、トリッパのトマト煮込み。さっき美咲に「これはトリッパのトマト煮込み」と説明されたとき、思わず「トリッパ!?」と声をあげてしまった。牛の胃袋をわざわざ買ってきて調理しようなんて、きっと自分は一生思わない、などと考えていると、美咲がやっぱりとても感じのいい笑顔を向けて「大丈夫、全部、ウーバーだから」と言った。「わたし、凝った手製の料理をふるまうような嫁嫁しい女じゃないから、安心して」とも。
 嫁嫁しい。すごい言葉だな、やっぱりと響は思い返す。すると、目の前で美咲がふふふと笑った。
「裕也から聞いてたけど、響ちゃんってやっぱりお嬢様って感じ」
「え? ど、どこが?」
「なんていうのかな、超マイペースなところ」
 彼女が何を言わんとしているのか、よくわからない。とりあえず、バケットを口に入れた。なぜか味がしない。ゴムをかんでいるようだ。
 美咲とその夫の洋平は、ともに黒木の大学時代のインカレサークルの仲間で、去年のはじめに茨城県守谷市にある中古マンションを購入した。以来、幾度となく二人で遊びにくるよう誘われていて、面倒くさがりの黒木はのらくらとかわしていたのだが、一年も過ぎていよいよ断り切れなくなり、新年早々二人で電車をのりつぎ県境をまたいで、ここまでやってきた。
 ほかに一組の男女と女性一人が呼ばれていて、それぞれ紹介もされたが、誰が誰でどんな関係者なのか、響は三秒で忘れた。
「これだけあれこれ金がかかるとさ、子供なんて本当、育てる気にならないよな、世の中のほとんどの人にとってはさ。子育てっていうのは、もはや金持ちの特権だよ、今の時代。自分の家を持って、子供を授かって、家族みんなで楽しく暮らすっていう当たり前の幸せは、特権階級だけにしか許されない。厳しい時代だよな」
 やたらと大きなダイニングテーブル上の会話をずっと支配しているのは、洋平だった。釣りが趣味だという彼の顔は黒光りして、まるで大きなかりんとうみたいだと響は思う。美咲と洋平はともに二十代で別の相手と結婚している。子供もそれぞれ一人ずつもうけたが、ちょうど同じタイミングで、どちらも子供を引き取って離婚した。勤務地がともに丸の内近辺で、ときどきランチや飲みにいったりする仲だった二人は、互いにシングルでいるより、結婚して助け合ったほうが経済的合理性が高かろうという意見で一致し、当時はまだあった女性の再婚禁止期間があけてすぐ再婚した。二人とも外資系企業勤めで、世帯年収は二千万以上になる。洋平の連れ子は来年に年長さん、美咲の連れ子は年中さん。今週末はすぐ近くにある美咲の実家にお泊りらしい。
 二人で目いっぱい働いて目いっぱい稼ぎ、家事は基本外注、東京郊外のお買い得中古物件を手に入れ、子供をのびのびと育てる――それが二人の選んだ“合理性らしい”。
「俺らが考えるのは常に合理性だから」と洋平は言って、ワインを口にふくんだ。「サラリーマンの身分で新築タワマンなんか買っちゃだめ。中古でもいい物件はいくらでもあるんだからさ、うちみたいに。それに、資産もないのに子供を私立やインターなんかにいかせちゃいけない。うちは小学校までは公立って決めてるからね。子育てだってさ、どっちがどれだけ負担するかとか、ワンオペがどうとかで夫婦がもめるなんてばかばかしいよ。働くのが得意なら働いて、その分金を使って家事や子育てを誰かに任せればいいし、働くのが嫌なら節約して家事も子育ても自力でやればいい。それだけのことなのにさ。なんだかみんな変な見栄や常識にとらわれて、いらない苦労をしてるよね」
 食事がはじまって以来、何度“合理”という単語を耳にしたかわからない。すでに脳内でゲシュタルト崩壊をおこしかけている気がする。
「だから黒木たちもさ、さっさと結婚したほうがいいって」洋平は言って、正面の黒木に向けてグラスをかかげた。「お前たちは子供を持てる特権階級なんだから。もったいないよ、だらだらと同棲し続けるなんて。DINKsなんてダメダメ、五十前には飽きるから、絶対。黒木も日系だけど大手入って管理職にもついてるし、響さんは、さらに実家がとてもお太いわけだし。パワーカップルってやつだよ。それを最大限活用しなきゃ」
 実家がお太い。そんな表現ははじめて聞いた。響はやわらかく煮込まれたトリッパを飲み込みながら、思わず目をむきそうになった。
「家庭っていいよ。子供の成長って幸せそのものだよ。それを得られるっていうのは、何度も言うけど、もう貴族の特権だから」
 夜が更けるにつれ、外は雪が降りだしていた。二人のマンションから駅までは、徒歩で二十分近くもかかる。
「一日往復四十分も歩けば、いい運動になるの。最近は通勤がジムがわり」デザートを食べているとき、美咲が言った。「天気が悪ければ、タクっちゃえばいいし」
 しかし帰る段になってタクシーアプリを使って配車をこころみたが、なぜだかちっとも捕まらなかった。もう一組の夫婦は雪が降り出してすぐ、帰った。一人で来ていた女性は、そのまま泊まっていくという。
 二人きりになった途端、黒木は無言になった。これまで数回、彼の友達の集まりに二人で参加したことがあるが、帰り道にはよくその家の悪口を言っていた。「趣味の悪いインテリアだったな」とか「片づけているように見せてたけど、掃除が雑だな」などと辛らつに話す彼が、響は案外、嫌じゃなかった。響も大抵、同じことを思っていたから。
 けれどその晩の黒木は、石のようにむっつりと黙り込んでいるのだった。機嫌を損ねているわけではなさそうだった。何か考え込んでいるような顔で、ぬかるんだ道でもたつく響を振り返ることなく、どんどん先にいってしまう。
 左手には常磐自動車道がはしっていて、右手は静まり返った住宅街。道の先はほの暗く、自分たち以外、誰もいなかった。響はふと立ち止まって、少しずつ遠くなっていく彼の黒いコートの背中を見つめた。もし、彼と結婚することになったら――そうしたら、その結婚生活の中で、何度もこの景色、この背中を思い出すんじゃないだろうかとなぜか思った。ずっと今日のことを忘れないんじゃないだろうか。なぜだか強く、そう思った。

 ところが、翌週月曜の昼、リフレッシュルームのいつもの席に桜子をみつけた瞬間、今週末に起こったあれやこれやすべてのことが、いとも簡単にどこかに吹き飛んだ。
 普段の桜子だったら、そうでなかったかもしれない。しかし、今日の桜子は特別なのだ。
「あれ? 明日じゃないんですか?」響は桜子の正面の席に座りながら聞いた。
「明日はわたし、ちょっと用事があって、有休とってるの」そう言って、桜子はカップ麺のふたの上にのせてあった液体スープの袋をどけ、ふたをぺりぺりと開ける。それから箸で少し麺をほぐしたあと、液体スープをそそぎ、さらに箸でまぜ、最後に小さな海苔を二枚、ちょこんとのせた。
 日清麺職人は、手順がちょっと面倒なのだ。響はつい面倒で液体スープを先入れしたくなるが、桜子は抜かりない。
「いただきます」いつもより元気よく手をあわせると、桜子はまずおにぎり(今日は自分で握った塩むすびのようだ)を頬張った。それからすかさずスープをすすり、麺でおいかける。そしてうっとりと目をとじて、ゆっくり咀嚼していく。
「ん~最高! やっぱりおにぎりには麺職人の醤油が一番合うわ。味噌も捨てがたいけどね」
 おにぎりとカップ麺の組み合わせ。それが桜子にとっての最上の昼ごはんなのだ。が、いわゆる“重ね食べ”は控えるようかかりつけの医者から以前に注意されたので、今は月に一度、第三火曜の昼のみにおさえているらしい。
 先月の第三火曜の昼、あまりにもおいしそうに食べているのを見て感動した響は、一月は同じ日に同じ組み合わせのお昼を自分も食べようと、すでに何日か前に日清麺職人を買っておいたのだ。しかも醤油と味噌の二種類。桜子が醤油なら味噌、味噌なら醤油にしようと思って。
 しかし、一日前倒しになっていたとは。きちんと先週のうちに確認しておくべきだった。会社員としてあるまじきミス。己の手落ちを悔みながら、響は手提げからアルミホイルにつつんだサンドイッチを取り出した。
「あら、お手製のサンドイッチ? 珍しいわね」
「週末、友達の家で集まりがあって、あまったハムとかパンとかたっくさんもらったので、作りました」
「へえ、なんの集まり?」
「……覚えてません」
 ははは、と桜子は笑う。「変なの」
 そのあとすぐ、リカちゃんとぶっちーがそろってやってきたので、隣のテーブルをくっつけて四人席にした。すいちゃんは、今日は遅番らしい。
「あら、桜子さん、佐藤さんのところのおにぎりなら、わたしが買ってくるのに」
 ぶっちーがエコバッグから大きなクロワッサンを取り出しながら言う。ぶっちーは佐藤さんのおにぎり屋の真裏に住んでいる。そして、彼女の夫は米屋のせがれで、佐藤さんのところの出入り業者でもある。しかし、ぶっちー自身は無類のパン好きで、おにぎりは見るだけでもはやうんざりらしい。
「いいのよ、自分で選びたいし、近いから」桜子は言った。「ところで最近、調子はどう?」
「はあ、ぜんぜんダメ」そう言って、ぶっちーはトレードマークの丸いお団子がのった頭を抱える。「ついていけない。この会社にいて、こんなにつらい思いをするのは、はじめてかもしれない」
 ぶっちーは桜子の仲間たちの中で唯一の正社員で、年はみんなより少し若い。桜子とはぶっちーが新入社員のときからの付き合いらしい。高卒入社して以来三十余年、ずっとさいたま支社管轄内で働いている。十数年前の産休明け以降、長らく総務部所属だったが、去年、料金グループに異動になった。
「そんなに業務、大変なんですか?」響は聞いた。
「ほら、あれよ」と桜子。「新システムってやつ」
「ああ、あれね、大変みたいねえ」カスタマーセンター所属のリカちゃんが言う。「電話受付の派遣の人たちも、ずいぶん苦労してるみたいよ」
「それそれ」とすいちゃん。「うちの部署も同じ。もうわたしはちんぷんかんぷん」
 社内の需要者情報を管理・運用するシステムは、ながらく自社で開発した独自のものが使用されてきた。が、テレワークのさらなる推進も見据え、去年、外注したクラウド型のネットワークシステムへと入れ替わったのだ。法人営業部にいる桜子や響にはあまり関係のない話だが、需要者とダイレクトにかかわりのある業務につくぶっちーには大問題だ。
「ほら、うちは地元の主婦が多くて、うちらと同じぐらいじゃない?」とリカちゃんが言う。「この年になるとさ、なにがなにやら、どこをクリックしていいやらでさ、とにかく大変なんだって」
 リカちゃんの世界には主語と述語という概念がない。響も最近、ようやく理解できるようになってきた。要するに、リカちゃんが庶務として所属するカスタマーセンターでオペレーター業に従事する派遣社員は、主に中高年層の女性で占められていて、彼女たちは新システムの操作に苦心しがち……ということが言いたいようだ。
「先週なんて、ログインできないってだけで帰っちゃった人がいたんだから」
「えー!」と桜子が声をあげた。「ログインぐらい、いくらなんでもできるでしょ。パスワードがロックされたとか?」
「わかんないけど、何回やっても入れないって、怒って帰っちゃった」
「あら、その人、どうなるの?」
「派遣だから、もうだめよ」
「いろんな人がいるのねえ」
「でも、気持ちわかる」とぶっちー。「使ってるシステムは一つじゃなくて、いくつかあってね。あっちは一か月でパスワードの期限が切れるけど、こっちは三か月とか、で、あっちは前々回と同じパスワードを使えるけど、こっちは毎回変えなきゃダメ、とか、そんなのばっかり。どっちがどっちかわかんなくなって、もうパニックよ。派遣さんならそれで困ってても誰かが助けてくれるけど、わたしは社員だし、そんなくだらないことで躓いていられない。最近、周りの目が冷たいっていうか、使えないおばさんだなって思われてるのがよくわかるの」
 そう言いつつも、ぶっちーはクロワッサンをちぎっては口に放り込む。ぶっちーはいつもとてもおいしそうなパンを買ってくる。
「五十を過ぎて、なんだか急に理解力とか記憶力とか、落ちてきた感じがする。二人はどうだった?」
 そのぶっちーの言葉に、リカちゃんは「同じよ」と返したが、桜子は無反応だった。
「更年期よ、更年期」とリカちゃん。「わたしも同じ。急に頭がまわらなくなったり、ぼーっとしたりさ。わかる、わかるわ」
「最近、家族にも怒られてばっかりなの」とぶっちー。「今朝もそう。制服のスカートのほつれを直してって娘に頼まれてたのに、すっかり忘れてて、『学校にいけない』って泣かれちゃって」
「そんなの!」と桜子が声をあげた。「自分で直させなさいよ」
「でも、受験生だし、わたしがやってあげなきゃいけない。それなのに、もう、わたしったら」
 はあ、とまたぶっちーは深くため息をつく。赤ぶちの眼鏡のレンズが白く曇った。
「まあまあ、元気出して、これ食べてよ」桜子がチュニックのポケットからピンク色の個包装の菓子を三つ出し、それぞれに配った。
「あら!」とリカちゃん。「バームロールのあまおう苺だって。限定品なの? おいしそう。わたしからも、これどうぞ」
 リカちゃんがブラックムーンを配り、ぶっちーも眼鏡を拭きながら歌舞伎揚を配る。響も用意しておいた個包装のポッキーを三人に渡した。
「まあ! 普通のポッキーって、なんだか逆に新鮮ね」と桜子が言った。「いちごとかアーモンドのやつはよくもらうけど」
「普通のやつが、シンプルで一番好きなんです」
「あ、そうだ、ひーちゃんに聞きたいことがあったの」とぶっちーがさっそくバームロールを口に放り込みながら言った。「……あ、これおいしい。忘れないよう、袋とっておこ。そうそう、ひーちゃんのまわりにさ、ダンスに興味のある子、いない?」
 ぶっちーはジャズダンス歴十五年のベテランダンサーなのだ。はじめてリフレッシュルームで一緒になった日にも、通っている教室に見学にこないかと誘われたが、響は即答で断った。
 運動はどちらかというと得意なほうだ。しかし、ダンスだけは別だった。壊滅的なまでにリズム感に欠けているのだ。中学の体育での創作ダンスの授業は、もはや記憶の中でトラウマ化している。
「うーん、ちょっといないですね」
「そっかあ。実はね、わたし今度、うちの教室の初心者体験会の講師をやってみることになったの。来月に第一回目を開催するんだけど、知ってる人が一人でもいてくれると、助かるなーって」
「何それ」とリカちゃん。「なんでわたしたちを誘ってくれないの?」
「興味ないでしょ」
「あるよ!」と桜子とリカちゃんがそろって声を上げた。
「えー」とぶっちーは困ったような顔で、下がった眼鏡を持ち上げる。「一度もやってみたいって、言ったことないじゃない」
「ぶっちーが誘ってくれないから。ねえ、桜子さん。誘ってくれてたら、とっくにやってるよね」
「そうよ。それとも、おばさんはダメなの? 若い子限定?」
「そんなことない」とぶっちー。「むしろ、おばさん層にきてもらいたいの」
「じゃあ、みんなでいこうよ、すいちゃんも誘ってさ」
 桜子がそう言い、それから二人で、やれ当日は何を着ていこう、やれ体験会の前にみんなでランチを食べにいこう、やれそのあとはサウナにいってビールを飲みたいなどと盛り上がりはじめた。響は自作のちっともおいしくないサンドイッチ(生ハムは塩気が強すぎ、パンはかみちぎりにくすぎ)をもそもそ食べつつ、静観を決め込んでいた。休みの日に桜子たちと集まってランチにいったり、サウナにいったりはしてみたい、とっても。しかし、ダンスだけは無理だ、どうしても――中三の春、創作ダンスの授業でのグループ発表のとき、一人だけリズムのずれた盆踊りを披露して、哀れな笑い者になった記憶が脳裏によみがえる。
 絶対に、死んでもするもんか。

 

(つづく)