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 一年目の秋までに結婚相手を見つけて、冬のボーナスが支給された直後に退職願を出す、というのが桜子の会社員生活における最大の目標だった。しかし、彼氏どころか男性の知り合い一人つくれないまま、あっという間に二年目となった。そのあいだ、桜子の身辺に起こった変化といえば、会社の制服が9号から13号になったことぐらいだけ。

 そんなふうに桜子の私生活はおだやかすぎるぐらいおだやかだったが、会社ではさまざまなことがめまぐるしく起こった。町田のいびりに耐えかねた滝沢が強く言い返してその場で口論となり、一課の課長が仲裁に入って、最終的に滝沢が反省文を書かされることになったり、その後、毎朝滝沢の机に一課の社員全員の湯呑を置かれるいやがらせがはじまったり、取引先から預かった広報用の商品写真数十点を速水が紛失し、損害賠償級の失態になる寸前に、町田が速水のデスク下に落ちているのを発見(そのあたりは三人で千回は探したはずなのに)したり、桜子が駅前の立ち飲み屋に一人で入りびたり、よその会社の男たちをナンパしていると噂が流れたり(その直前、立ち飲み屋で偶然町田とばったり会っていた)、そんなことが起きるたびに、三人ですずめのように身を寄せあい、なぐさめあった。

 いつだったか、速水が二人のいる給湯室まで駆け込んでくるなり、大泣きしたこともあった。会議までにそろえていたはずの資料を用意できず、課長に激しく𠮟責されたという。資料は滝沢と桜子で昨日までに準備して、速水に直接手渡した。速水は以前みたいなことがないように、デスクの引き出しに入れたあと、自分でとりつけた南京錠をしっかりかけていた。しかし、朝出社したら、全て忽然と消えていたという。

 そのとき、滝沢と桜子は年末でもないのに給湯室の掃除を命じられていた。滝沢が冷蔵庫掃除の手をとめて、深くため息をついた。

「昨日、めずらしく閣下が少し残業したのよね。日吉も覚えてるでしょ」

「そうだっけ?」とエプロンでぬれた手を拭きつつ、桜子は答える。「いつも通り、定時で帰ったような……」

「いや、わたしたちより遅く帰ったよ。それは間違いない。わたしが帰るときに『お疲れさまです』って言ったら、わざとらしいため息つかれたもん。きっとそのあとに……」

「いや、多分閣下じゃない」と速水が鼻声で言った。「営業の男たちの誰かに決まってる。わたしが𠮟られてる間、にやにやしてたし。でも、もう誰でもいいよ。どうせわたしのまわりは敵ばかり。次にまたミスったら、しばらく雑用係させるぞって課長に前から言われてたの。これから三カ月、会議に出席禁止だって」

 速水はまたうつむき泣きだした。その姿を見ていたら、桜子も涙が出てきそうになった。今まで、どんな嫌な目にあっても、へっちゃらそうにしていたのに。そんな彼女が、子供みたいに取り乱している。

 速水は町田からだけでなく、営業担当の男性社員たちからのいやがらせにもずっと耐えてきた。速水はその持ち前の能力と努力で、一年目から営業成績を着々と伸ばし、今や若手社員の中では断トツのトップだった。が、それとともに、男たちの妬み嫉みの感情も高まっていくのは必然だった。「お前さ、もっと女らしくしろよ」「嫁の貰い手に困るぞ」「お前は体を使って営業できるからいいな」などといった、このところ世間で問題視されるようになった、いわゆるセクハラ発言を彼らは当たり前のようにし、ときには横から仕事を奪ったり、誰かと不倫しているとか妊娠中絶をしたことがあるなどと、事実無根のホラ話を取引先の担当者に吹き込んだりもした。ただのヒラの一般職でしかない町田のやることなど、しょせんはただのいびり。かすり傷にもならない。しかし、男たちは速水を本気で蹴落とそうとしていた。そしてそんな速水を、助ける者は一人もいない。滝沢も自分も、あまりに無力だった。

「はあ、でも、わたしがんばる」

 しばらく泣いたあと、速水はそう言って、顔をあげた。まだ頰は濡れ、鼻は真っ赤だったが、いつもの速水の目つき――サバンナで、仲間とはぐれてたった一匹で生き抜く孤独なガゼルみたいな――だった。

「まだがんばる。お前なんかクビだって言われるまで、負けない。絶対誰よりも出世して、あいつら全員こきつかってやる」

 そうなのだ。速水はいつもそうだ。その目の光はあまりにまぶしくて、思わず桜子は顔を伏せた。

「本っ当に、この会社ってろくでもない」滝沢がそう言って数枚ティッシュを抜き、速水に渡した。「さっさと辞めなきゃ、本当」

「わたしはまだ辞められない。絶対、絶対に」鼻をかみながら、決意をあらためたようにさらに強い口調で速水は言う。「でも、わたしがこの先どれだけ偉くなっても、若い社員をいじめるようなことだけはしたくない。そうなったら、終わりだよ」

「ほんとにそうだね」と桜子は言った。「わたしも将来もしお局になったとしても、閣下みたいな新人いびりは絶対しないようにしよう」

「ええ?」と滝沢が大げさに驚いてみせる。「あんた、寿退社あきらめたの?」

「そうみたいね」と速水。「自ら未来のお局宣言するとはね。あきれるわ」

「違う違う、わたしは半年以内に寿退社するもん」

「じゃあ、今日からおやつ抜きね」と速水は腕を組む。「だって、今にもそのスカートはちきれそうだよ」

「いや、正直言うと、もうはちきれてる」

 桜子は制服のベストを少しもちあげて、すでに壊れているスカートのファスナーを二人に見せた。滝沢と速水は顔を見合わせ、同時にぶーっと噴き出した。桜子はしばらくふくれっ面を作っていたが、結局、耐えきれずに一緒になって笑いだしてしまった。

 相変わらず速水の口は悪く、滝沢は滝沢で地元の恋人の話ばかりするのがときどき面倒くさいけれど、でも、同期が二人も同じ部署にいてくれてよかったと桜子は昨日も思ったし、今も思う。二人がいなかったら、こんな地獄みたいな会社、とても耐えられない。

 だから、はやく辞めなきゃ。いつまでも三人一緒にいられるわけじゃない。笑い涙をぬぐいながら、やっぱり毎日思っていることを、桜子はまた思う。

 

 しかし、結局何事も起こらないまま入社二年目も過ぎ、あっけなく三年目に突入した。その春、滝沢が隣の二課に異動になり、代わりに高卒の新入社員が二名入ってきて、桜子はようやく最底辺から抜け出した。

 仕事も雑用ばかりではなく、営業補佐業務が多くなっていった。自分は速水のようなバイタリティやガッツもないし、滝沢のように華もなければ愛想もよくない。英語も話せないし、なんの資格もない。社会で必要とされる能力など、何一つ持っていないと桜子はずっと思っていた。が、どうやら人より事務処理がはやく、しかも的確らしい。営業担当の男性社員たちからもよく頼りにされるようになり、少しずつ、働くということが楽しくなっていった。

 三人の関係は三年目も相変わらずで、土日のどちらかは必ず集まって、同僚たちの悪口を言い合ったり、あるいは互いを冗談交じりにののしり合ったりした(『日吉さ、制服のサイズ15号はまずいよ、女を捨ててるよ』『速水こそ、その紫のアイシャドウ、病人みたいだよ』『滝沢ってさ、いつも歯に口紅つけてるよね』)。

その夏にははじめて三人一緒に休暇をとり、滝沢の故郷・松本まで遊びにいった。キャンプをして、温泉に入り、槍ヶ岳にものぼり、まるで小学生に戻ったみたいに毎日目いっぱい遊んだ。滝沢の生家は計八部屋もある大きな家で、昔は親戚も一緒に住んでいたらしいが、今は両親と父方の祖父母の四人暮らしだという。父親はプロレスラーみたいな巨人で、母親は地味な雰囲気のおとなしい人だった。滝沢はどちらにも全く似ていなかった。

 地元で家業を手伝いながら、消防士採用試験の勉強中であるらしい滝沢の婚約者には、結局会えずじまいだった。挨拶ぐらいはできると思っていたので、桜子はがっかりした。なんとなく、滝沢は家族の前で彼の話題を出してほしくないように見えた。速水が食事の場で何度か彼の名前を口にしたが、滝沢はさりげなく話題を変えていた。そんなとき、滝沢の両親も、どことなく気まずそうな顔をしていた。

「ねえ、日吉さ、どう思う? マー君のこと」

 最後の晩、二階の一番広い部屋に敷いてもらった布団に大の字になって、速水が聞いた。滝沢は風呂に入っていた。

「どう思うって、何が?」

 桜子は窓際のこたつテーブルの前で、滝沢のおばあちゃん手製の野沢菜とビールで一人晩酌をしていた。野沢菜はこれまで食べた漬物の中で一番しょっぱくて、あてに最高だった。

「わたしさ、前から思ってたんだけど」と速水は言う。「滝沢のいうマー君って、この世に存在しないんじゃないかな」

 爪楊枝に刺した野沢菜を口元にもっていった姿勢のまま、桜子は固まった。言っていることがよくわからなかった。

「……滝沢は幽霊と付き合ってるってこと?」

「日吉、相変わらず頭のネジとんでるわね」

 速水があきれ顔で言った。二十五歳にもなってかわいいクマちゃん柄のパジャマを着ている速水のほうが、よっぽどとんでいるネジの数が多いと桜子は思ったが、口をつぐんでいた。

「マー君なんて男は、はじめからいなかったってことよ、でっちあげってこと。……何その顔。まだ意味がわからないの? 要するにね、わたしたちの前で見栄を張って、恋人がいるふりをしてただけなの。実際はそんなものはじめからいなかったのよ」

「でも、なんのために……」

「だから見栄よ」と速水。「あの子さ、ちょっと虚言癖があるんだよね。わたしの推察では、大学時代に芸能活動してたってのも、噓だね。あと、多分だけど顔も整形してると思う」

「えー!」と桜子は思わず声をあげた。

「だって。昔の写真見せてくれないじゃない。それに、お父さんもお母さんも一重まぶただったよ」

「うーん」

「あと、これはあんたに言おうか迷ってたんだけどさ、一課にいたとき、町田の仕業にみせかけて……」そこまで言ったところで、速水の右の眉毛がぴくっと動いた。「あ、戻ってきた」

 とんとんとん、と階段をのぼってくる足音が桜子にも聞こえた。まもなく引き戸が開いて、頭をバスタオルで包んだ滝沢が姿を現した。

「あずきバー食べるひとー?」

「はーい」と桜子は元気よく返事した。滝沢が「速水は?」と聞く。

「いらない」

「あら、いると思って三つ持ってきちゃった。ちょっと下においてくるね」

「あ、わたしが二人ぶ……」

「ダメ!」と速水と滝沢が同時に発した。

「日吉は食いすぎだよ。今日、ご飯三膳もおかわりしたでしょ」と速水。「滝沢、いいよ、わたしがやっぱり食べる」

「ちぇ」と子供みたいに舌打ちをしつつ、桜子は滝沢からあずきバーを受け取った。そのとき、ちらっと彼女の瞼を盗み見てみた。整形しているかどうかなんて、もちろんわかりっこない。

「あ!」と滝沢が声をあげた。「生ダラやってるよ。テレビつけて」

 速水と滝沢は布団の上に寝転がって、あずきバーをかじりながらテレビを見はじめた。二人そろってまったく同じ体勢なので、姉妹みたいだった。桜子はこたつテーブルにひじをついて、窓の向こうに意味もなく視線を向ける。田んぼと山がどこまでも広がっているはずだが、闇にぬりつぶされて何も見えない。

 さっき、速水が言いかけたこと。自分も同じことを、ずっと思っていた。あのとき、速水がなくした資料。あのとき、流れた変な噂。もしかして、滝沢によるものかもしれない、と。

「あ、わたし昔、あの人にナンパされたことある」滝沢があずきバーでテレビを指して言った。「あの右端の人」

「へえー。なんか、息が臭そうな男」

 速水の言葉に、きゃはははと滝沢は明るく笑う。桜子はあずきバーにかじりついた。まだ歯が折れそうなほどかたかった。

 

(つづく)