黒木が先に帰宅したことがわかっていたので、響は家へは寄らず、しばらくカフェで時間をつぶしてから佐藤さんのおにぎり屋へ向かった。最近、桜子たちと飲みにいくために家を出る際、「一緒に見たい映画がある」などと言ってひきとめてくることがあるからだ。ときには人が変わったようにべたべたと甘えてくることもあった。
おにぎり屋への夜道を歩きながら、思わず顔をしかめる。甘えてくるときの黒木の声、手つき、すべてが――
不快。
「別れよ」
夜空には、穴を穿って金を流し込んだような、くっきりとした丸い月。その月に話しかけるみたいに、一人、つぶやいた。
「うん、別れよ、別れよ」
繰り返していたらなんだか楽しくなってきて、スキップまでしてしまいそうだった。が、周囲を歩く人の目が気になって、さすがに控えた。
――あの月が満ちるまでに、別れ……いやそれはいくらなんでも急すぎる、下手したら明日だ。そうだ、その次の満月までには――
「あ! ひーちゃん!」
そのときぶっちーが、おにぎり屋の脇からひょっこり出てきて、こちらに手を振った。ぶっちーが週末の夜に家を脱出できるかどうかは五分五分だが、今日はうまくいったようだ。響は手を振り返しながら、駆けよった。
おにぎり屋のカウンターには、桜子とリカちゃんがいた。すいちゃんからはすでにグループLINEに欠席の連絡が入っていた。元保護犬のロッキーの体調が思わしくないらしい。
見たところ、リカちゃんはいつも通りの様子だな、と思ってすぐ、心の中で首をふる。なぜなら、競馬で勝ったときにしか飲まない日本酒を飲んでいるからだ。つまり、いつもよりずっと上機嫌ということだ。
「いやいや、お二人さん、いらっしゃいいらっしゃい」
リカちゃんはぴょんぴょんと飛びはねながらぶっちーと響を手招きした。響はまた自分の考えを内心で否定する。いつもよりずっと、なんて生易しいレベルじゃない。いつもの百倍の、ぶりぶりの上機嫌だ。
「今日はわたしが払うから、お二人は好きなものを食べて飲んで」
「そんな、いいわよ」とぶっちー。「わたしたち、お香典もまだ渡してないんだし」
「そんなのいらない!」とリカちゃんは頭の上で大きく手をふった。それから隣の椅子においてあった明るいオレンジのバッグを取ってかかげた。「これ、見て」
「あ!」と響は声をあげた。「バーキン!」
「あら、さすが! お目が高い」とリカちゃん。「うちの母の遺品。大昔にいったハワイで、三十年使ったら一日で100円ぐらいですよ、とか言われて買ったの。でもそのあとすぐ病気になったから、全然使ってなくてぴっかぴか。メルカリであぶく銭よ、あぶく銭。だから今日は日ごろの感謝を込めて、みんなにごちそうさせて」
「そんな、悪いわ」
「ぶっちー、やめなさい」と桜子。「じゃないとこのやりとり、来世まで続けることになるわよ」
「確かにそうね。じゃあ、ごちそうになります。佐藤さん、いつものー」
「あ、わたしもいつものお願いします」
間もなく、ぶっちーのぬか漬けとハイボール、響のこんぶとたらこのおにぎりがやってきた。佐藤さんがみそ汁の入ったお椀を差し出しながら「ひーちゃんのビールはおにぎりのあと、卵焼きと一緒でいいね?」と聞いた。
「あ、はい」
「今日は、ひーちゃんの好きなあさりのみそ汁だからね」
「わあ、うれしい!」わくわくしながら、椀のふたをあける。大ぶりのあさりが三つ、入っていた。しかも赤だしだ。
そのとき、ちんちんと音がした。桜子が箸でグラスをたたいたのだ。
「さっそくで恐縮ですが、ご注目ください。こちらのリカ様より、お話があります」
リカちゃんは咳ばらいをして、居住まいを正した。
「皆様、このたびはいろいろご心配をおかけいたしましましまして……あれ、おかけいたまし? おかけおかけ……まあ、いいわ、とにかく心配させて、ごめんちゃい。数日前に無事、母を荼毘に付しました」そこまで言って、コップに残った日本酒をカッと飲み干す。「みんなに内緒にしてたのはね、別に何もなくてね、ただ単にもう疲れ切っちゃって、めんどうで……」
そこから、約二十年にも渡るリカちゃんの長い長い介護苦労話がはじまった。相変わらず主語と述語と時系列がぐちゃぐちゃのリカちゃん話法だったが、桜子の通訳のおかげでなんとか理解できた。
リカちゃんは浦和生まれの浦和育ちで、父親は元市議会議員、母親は専業主婦、きょうだいは兄が三人いる。家族とはあまり折り合いがよくなく、成人して家を出て以降、ほとんどよりつかなくなっていたが、リカちゃんが三十九歳のときに母親が脳梗塞で倒れたのをきっかけに、実家に戻った。
母親は片側に少し麻痺が残り、日常的なサポートが必須だった。父親も兄三人も、独身の娘であるリカちゃんが面倒を見て当然という態度だったようだ。リカちゃんはそれまで勤めていた旅行会社を辞めざるをえなかった。月に半分以上は、海外出張があったからだった。
「それでもう、ぜーんぶがね、ふっと消えちゃった」とリカちゃんは言った。「とっても楽しかったのに。アフリカにだっていったのよ。お客さんにも好評でね、ほら、わたしって誰とでもすぐ仲良くなれるから。え? 何をやってたって、ツアコンよ、ツアコン。添乗員さん。いろんな出会いがあって、友達もたくさんいてさ、お金なんて好きに使ってた。いきなりでっかい冷蔵庫買ったりして、ハハハ。本当はずっとバリバリやりたかったけど、母の世話と同時じゃとても無理。今みたいな九時五時じゃないとさ。でも、ありがたいよね。派遣から直雇用にしてくれたし、ずっとクビにしないでくれてるし」
母親の脳梗塞から約十年後、父親が糖尿病を悪化させた末に両脚を切断した。二人とも施設に入るのを断固拒否したので、リカちゃんが一人で見るしかなかった。
「兄たちは、もう、ぜーんぜんこない。LINEも無視。ひどいもんだよ。それなのに、正月にお雑煮つくらせたり、おせちつくらせたりさ。あいつらみんな、嫁に捨てられてるの。クズばっか。お父さんのおむつ替えようとするとね、いやーな顔していなくなるんだよ。あー思い出したらむかついてきた、本当。デスノートってあるじゃん、アニメのさ、あれがあったらいいのにって、何度思ったかわからないよ。あったら一行目にまずね、ケンジロウって書くね。長男ね。長男なのに、ジロウなの。変でしょ。もうね、死んだって許さない。あ、佐藤さん、これ同じやつ、もう一杯」枡とコップを高々と持ち上げる。「まあとにかく、いろいろあったけど、父も一昨年亡くなって、母もようやくいってくれて、わたしの苦労も一区切りってわけ」
「本当に、よくがんばった」リカちゃんが話しはじめた直後から、ぐずぐず洟をすすっていたぶっちーが言う。「ずっと大変だったろうに、いつも明るくふるまってて。リカちゃんほど立派な人はいないわ」
「本当よ」と桜子。「たった一人で両親を介護するなんて、偉業よ、偉業。浦和市は表彰すべきだわ。リカちゃんはタフ、すごい。本当に、心から尊敬します」
「タフなんじゃなくて、にぶいだけ」とリカちゃんは笑う。「でもね、みんながいてくれたおかげ。こうしてわいわいおしゃべりしたり、お酒飲んだり、そういうのがあったから、わたし、死なずに済んだの。一人だったら、どうなっていたかわからない」
なんとなく、みんな口をつぐんだ。心地いいような、でもどことなくこわいような沈黙が、しばし漂う。
「とにかく、これからが人生本番ね」桜子がことさら明るく言った。「今が一番若い日、なんて言葉もあるけど、それでも還暦まであっという間よ。体が動くうちに、やりたいことはなんでもやらなきゃ」
「それそれ」とリカちゃん。「それでね、みんなにちょっとご相談、というかご提案があって」
そう言うと、再びバーキンを膝にのせ、乱暴に腕をつっこんだ。中から取り出したのは、札束だった。
「ひえっ」とぶっちーが悲鳴をあげた。「何それ、偽札?」
「そんなわけないじゃない」リカちゃんは真顔で言った。「これね、韓国のお金。昨日、スーツケースあけたら突然出てきて、びっくりよ。あの人、しょっちゅう韓国いってたの。え? ああ、違う違う、お母さんじゃなくて、お父さん。そうなの。向こうで何してたんだかって感じだけど。ねえ、これさ、日本円でいくらぐらいかな」
リカちゃんが札束を響のほうへぽいっと放り投げる。響は戸惑いつつも受け取った。ほとんどが一万ウォンで、数枚、千ウォン札がまざっている。
「今のレートがよくわからないですけど……ざっと十万円はありそうに思えます」
「じ、十万!」と声をあげたリカちゃんを「しーっ」と桜子が制した。
「誰が聞いてるかわからないんだから、大きな声を出さない! ていうか、こんな大金、持ち出しちゃダメじゃない。しかも高級ブランドバッグに、輪ゴムいっこでまとめただけで」
「えー、大丈夫よ。誰もいないって」
「ダメダメ。帰り、胸に抱えていきなさい、ひったくりにあわないように。あー心配だわ」
「まあまあ、それはそうとして、せっかくだからこのあぶく銭持って、韓国で豪遊しない? 向こうでのご飯とか遊び代はおごるわ。これだけあれば、円安なんて怖くない!」そう威勢よく言って、リカちゃんはこぶしをふりあげる。「どう? 来月あたり、金曜から休みとって、二泊三日で」
「いくに決まってる!」と桜子。「すいちゃんも絶対につれていきましょう。あの人、韓国にくわしいから」
「わたしもいくわ。新学期でたぶん猛烈に忙しいけど、離婚してでもいくわ」
「ひーちゃんは?」
まるで夏休み直前の子供のような目が六つ、こちらをじっと見つめる。
「……えっと、調整が必要だけど、たぶん、大丈夫です」
と答えたが、四月の週末は親戚の法事や取引先のイベントなどがあり、ほぼ全滅であることはすでにわかっていた。けれど、この場を興覚めさせたくなくて、ついそんなふうに言ってしまった。
それから響以外の三人は、韓国グルメや観光スポットについてやいのやいのと盛り上がりはじめた。そして閉店ぎりぎりまで居座ったあと、リカちゃんのおごりで会計を済ませ、店を出た。
いつもだったら、三人とは店の前でお別れだ。ぶっちーは裏の家へ。桜子とリカちゃんは駅方面へ。響のマンションは駅とは反対のほうにある。
ところが、なぜかリカちゃんが「ちょっと、ちょっとね」などと言いながら、響についてくるのだった。どこへいくのかたずねてもニコニコして「ちょっと、ちょっとね」などと言うばかりだった。桜子に指示された通り、母親のバーキン(しかも近くでよく見たら、オーストリッチだった)をぎゅっと胸に抱えながら。