日付が変わる前には出ようと言っていたのに、結局、閉店ぎりぎりまで居座ってしまった。響はちゃっかり明日の用意を持参して家を出ていた。もちろん、そのまま桜子のアパートに泊まることにした。
「嫁入り前ですもの、こんな時間に一人で歩いて帰れないわ」と言って、すいちゃんはさっさとタクシーに乗り込んだ。桜子はとくに何も言わないまま、アパートに向かって徒歩二十五分の道を歩き出した。
人気のない、さみしい冬の歩道。桜子は酔っているわりに歩調がはやい。いつだって早歩きなのだ。今は上機嫌で小泉今日子の『木枯しに抱かれて』をうたっている。響はこれまで何度か桜子と一緒にカラオケにいったが、必ず二回は歌う十八番中の十八番だった。
「あ、うたってて思い出したけど、わたし、昔はアルフィーのおっかけだったの」
九〇年代生まれの響には、なんの関連性があるのかさっぱりわからなかった。そもそもアルフィーが具体的にどんなものなのかもよくしらない。
「なんかさ、一時期ソーシャルディスタンスって言葉があったじゃない? あの頃は暇だったから、毎週のようにヒトカラいって、一人で『星空のソーシャルディスタンス』ってうたって笑ってたわ」
桜子はそう言うと、やっぱり一人で笑っている。何がそんなに面白いのか、響にはもちろんさっぱりわからない。
「あ、そういえば、もう一つ思い出したけど」桜子は言う。「さっき、駅伝の話したでしょ? 駅伝の選手だったって。あ、明日、朝ごはんは食べる?」
「起きてすぐ出ると思うので、いらないです」
「じゃあね、ヤマザキのナイススティック、あれあるから、あれ食べなさいね。で、それでね、駅伝」
桜子はふいに立ち止まって、夜空を見上げた。曇っていて、星ひとつ見えない。わきの道路を、空車のタクシーが猛スピードで、駅のほうへ向かっていく。
「リカちゃんがさ、全国大会出たのよ、なんて言ったけど、あれは間違いでね。全国大会の補欠だったってだけ。そのメンバーを決める記録会でね、わたし、なんだか朝から気分が悪くて、棄権しちゃったの」
再び歩き出す。さっきよりさらに歩調ははやくなる。
「監督に、棄権したいですって言ったら、ものすごく叱られて。ほら、昔はスパルタ教育上等って感じじゃない? 水も飲んじゃダメってやつ。まあ、わたしはこっそり飲んでたけど。で、監督に『別に熱があるわけでもなし、ケガしてるわけでもなし。ただ気分がのらないってだけでこんな大事な記録会を棄権したら、お前、この先の人生で何も成し遂げられないぞ、凡人以下の人生で終わるぞ』なんて、まあ脅しよね。そんなことを言われてさ」
そこで桜子はふふふと笑う。
「あ、別にそれでもいっかあって、あのときのわたしは思っちゃったの。こんなにつらいのに走らなきゃいけない人生なんて、わたしはいらないってね。で、そのあとすごく大きな実業団からの誘いもあったんだけど、断っちゃった」
「え! そうなんですか」
「うん。だって、実業団に入ったら、病気になっても走らなきゃいけないし、ずっとずっとキツい練習もしなきゃいけない。走るのは、ただ楽しいからやってただけ。楽しくないなら、やりたくないもの。わたしはそういう人間なの。だから……あ、にゃんだ!」
道路を一匹、猫が横切った。その目がにぶく光っていた。
「つらいことはしたくない、しんどいことはしたくない、ただ、楽しく生きていたいって思ってたら、ここにたどりついていたの。他人から見たら、努力できない怠け者同然かもしれないけど、これがわたしなの。だから、何か大きな決断をしたわけじゃないのよ」
しばらく、桜子は無言になった。響のことなど忘れてしまったように、早歩きでどんどん先へ進む。そのうち、また何かうたいだした。誰のなんという歌かわからない自分が、響はもどかしかった。
二週間後の土曜の午後、桜子とすいちゃんと三人で、ぶっちーのダンス発表会を見に新宿のライブハウスへ向かった。本当はリカちゃんも参加する予定だったが、一緒に住んでいるお母さんの体調が思わしくないようで、急遽こられなくなってしまった。
発表会は三つの教室が合同で主催する規模の大きなもので、観客は七十人近くいた。ぶっちーの出番はトリ前、同じ教室のベテランメンバー三人と一緒に、プリンスの曲で踊るらしい。
ところが、ぶっちーは出てこなかった。
トリ前に出てきたのは、三人グループだった。確かに曲はプリンスだった。素人目で見ても、ダンスはとても格好良かった。が、フォーメーションが妙だった気がした。
ひょっとしたら出番はトリだったのかもしれないと思ったが、そのあとに出てきたのは、十代のヒップホップダンスのグループだった。
「どうしたのかしら、ぶっちー」最後のグループのダンスが終わったあと、すいちゃんが言った。「LINEも来てないわ」
「ちょっと、メッセージ送ってみるわね」と桜子が答える。
が、表彰式などを経て会場を出る頃になっても、ぶっちーからは何の返信もなかった。そのあとはあらかじめ決めていた通り、すいちゃんいきつけのタイ料理屋にいって晩ごはんを食べ、それから明日の朝用のおにぎりを買うために、桜子と響の二人で佐藤さんのおにぎり屋へ寄ることにした。
店のすぐ手前まできたところで、桜子が「あら?」と首をかしげた。「暗くてよくわからないけど、あの前にとまってるの、ぶっちーの車じゃないかしら」
そう言ってすぐ、店の前に駐車されたワンボックスカーの助手席から、ジャージ姿の女の子が飛び出してきた。なんだか怒っているような様子で、おにぎり屋の中に入っていく。
それからすぐ、ぶっちーも運転席から出てきた。しかし呼び止める間もなく、店の中に入っていった。
響と桜子は顔を見合わせた。そしてそろって二人のあとを追って駆け出した。
店内に入ると、おにぎりの陳列棚の前で、女の子が指をさしていた。「これとこれ!」
「ど、どれ?」と盆を持ったぶっちーが聞く。
「だから、これとこれ!」ずいぶんとつんけんした口調だ。
「どれ? たらこ?」
「違う! これとこれ!」
「えっとえっと、わわわわかった」そう言って、ぶっちーはツナマヨおにぎりを盆にのせた。
「違うよ!」と女の子は金切り声をあげる。「これとこれって言ってるじゃん! 目ついてるの?」
なんという言い草だろうか。響と桜子は再び顔を見合わせた。
「でも、もうお盆にのせちゃったし……」
「しらないよ! これとこれね! もういく」
そう言うと、女の子は桜子と響を面倒そうによけながら、店の外に出ていった。
ぶっちーは小さな声で「わかんないよ、どれ?」などとぶつぶつ言いながら、陳列棚の前を行ったり来たりしている。ひどく動揺しているようだ。桜子が近づいて「娘さんがさしてたの、たらこマヨと鮭マヨじゃない?」と教えてやると、ぶっちーは「ああ、すみません」と頭を下げた。
「たらこマヨと、鮭マヨ……えーっと、どれかしら?」
「ねえ、大丈夫? ぶっちー」
ぶっちーは驚いたように顔を上げた。そこではじめて気づいたように「桜子さん!」と言った。
「ねえ、あなた大丈夫? かなりお疲れの様子だけど。ちょっと、それ貸してくれる?」
桜子はさりげなくぶっちーの盆を受け取ると、たらこマヨと鮭マヨのおにぎりを一個ずつのせた。
「ほかには? 何人分買う必要があるの?」
「ええっと……パパと……ええっと」
そのとき、店の引き戸が開き、見覚えのある大男が姿を現した。ぶっちーの夫だ。
「おい!」とぶっちーの夫は怒鳴った。「ヒナタが、ラケットがないって泣いてるぞ!」
「あ!」とぶっちーが声をあげた。「ミカちゃんママの車に入れっぱなしにしてきちゃった」
「いい加減にしろよ!」さっきよりもさらに大きな声で夫は怒鳴る。「何回目だよ! こないだも忘れてきただろう。なんなんだよ、もうボケがはじまってるんじゃないの?」
「えーっと、えーっとどうしよう」とぶっちーはまた陳列棚の前を行ったり来たりしはじめた。「えーっとミカちゃんママに電話して、えーっと、あら、スマホがない、スマホどこ? ねえわたしのスマホしらない?」
「しるわけないだろ! バカじゃないのか!」
この人はなんでいちいち怒鳴るのか。響はぶっちーの夫の赤ら顔を見ながら思う。少し酒臭い。すでに飲んでいるのかもしれない。
「ぶっちー、スマホは車の中じゃない?」と桜子がやさしくささやく。それから、ぶっちーの夫のほうに向きなおった。「ご主人、わたしたちが責任をもって一緒に忘れ物をとりにいくので、そんなに怒鳴らないであげてくださる? ね?」
さすがのぶっちーの夫も、バツが悪そうに口をつぐんだ。それから桜子が適当におにぎりを選んでレジにもっていく。レジ係のアニちゃんはいつもの二倍のはやさで会計と袋詰めをしてくれた。それをぶっちーの夫に渡し、そのあと三人で車に乗り込んだ。
ぶっちーのスマホは案の定、運転席のホルダーにさしてあった。ぶっちーにロックを解除させると、助手席に座った桜子がかわりにLINE電話をかけた。すでにミカちゃんママらしき人から「ラケット忘れてる」とLINEのメッセージがきていたので、折り返せばいいだけだった。そして電話がつながると、これからラケットをとりにいく旨を可能な限り余計な説明を省いて、相手に伝えた。
「さすがに運転をかわるわけにはいかないけど、平気?」と運転席に座って真っ青な顔をしているぶっちーに、桜子が聞く。「ミカちゃんのおうちはわかるわね?」
「うん、平気」とぶっちーはうなずいた。案外しっかりした声だった。少し落ち着きを取り戻したようだ。
「安全運転でいきましょう」と後部座席から響も声をかけた。
やがて、ぶっちーは車を出した。ミカちゃんの家にはすぐについた。歩いても十分もかからない場所だった。
「何よ! こんなに近いのに、あんなに怒鳴る必要ある?」
桜子が言った。もっともだと響も思った。
ぶっちーが車を降りてミカちゃん宅の門扉のインターホンを押すと、すぐに大きなラケットバッグを持ったミカちゃんパパが出てきた。ミカちゃんパパはその爪の垢を100グラムほどいただいてぶっちーの夫の酒にふりかけたいぐらいのさわやかな笑顔をうかべて、何度もぺこぺこ頭をさげるぶっちーをやさしくはげましていた。ぶっちーは半泣きの顔で戻ってくると、後部座席のドアをあけてラケットを響の横に置き、それから運転席側にまわって車に乗り込んだ。
そして、すぐには車を出さず、腹の底の底からため息をついて、ハンドルに顔をふせた。
「もういや」とかすれた声でつぶやく。「今日は失敗ばっかり」
なんでも、次女のテニスの試合を明日の日曜だと思い込んでいたらしいのだ。というか、手帳にもそう記入し、数日前に再度次女に確認もしたはずなのに、今朝になって「土曜って言ったもん、ママが間違えてる」と主張してきたのだという。
「いつもだったらそんなこと言えないけど、今朝はね、思わず『大事な発表会だから、どうしてもいきたい』って言ったの、夫と娘に。今日はとてもお客さんの多い発表会で、何か月も準備してきたからって。でも、そんなこと言わなきゃよかったよ」
ぶっちーは顔をあげた。けれどすぐにまた、ふせた。
「夫、なんて言ったと思う? 『娘の大事な試合を、おばさんのタコ踊りのために台無しにするのか』だってさ」
響も桜子も、何も言えなかった。いや、何か言おうと思えば何でも言えた――クソ男、クソ旦那、呼吸する生ごみ、ご飯の味付け濃くしてじわじわ命を削ろう――悪口なんて無限に思いつく。でも、二人とも黙っていた。
「おばさんのタコ踊り。そうだよね。娘は今、テニスに人生をかけてるけど、わたしのダンスはただの趣味だもん。しかも何の役にもたたない、ただのおばさんの趣味」
ぶっちーは一つ息をはく。それからまた顔をあげ、車を出した。私道から県道に出ると、そのまま家とは反対のほうへ走り出した。
道はすいていた。ときどきトラックが追い抜いていくぐらいだった。シャッターのおりた店や無人のガソリンスタンドが、窓の向こうを流れていく。三人とも口をつぐんでいた。音楽もなく、車内にはエンジンの音だけが響いていた。
あてどなく走って十分ほど、赤信号で止まったとき、ぶっちーがふいに「きーめた!」と言った。
「実はね、わたし、へそくりためてるの」
「へ?」と桜子が声を上げた。「なによ、やにわに」
「ほら、まあなんだかんだ、うちって大手だし、給料いいじゃない? だから長年こつこつ隠し口座にプールしてるの。高三の長女は来年大学行って、高二の次女はたぶん、どうせテニスなんかで身は立てられないし、勉強もできないからすぐ就職。ていうことは、長女の大学費用を払い終わるあと五年頑張れば、わたしは自由の身ってことでしょ?」
「で、何を決めたんですか?」と響は聞いた。
「離婚に決まってるじゃない」と言ったのは、桜子だった。「そうよね?」
「うーん、それはまあ、どっちでも」とぶっちーは言葉を濁した。「別にわたしは再婚したいわけじゃないし。もうね、男なんて、まーっぴらごめん。イケメンの韓流スターとだって結婚したくない」
「ほんとー?」と桜子が笑う。「ぶっちーの好きなさ、あの、なんとかチャンなんとかさんでも?」
「チ・チャンウクね。彼のプロポーズでもお断りよ」
元気よく言って、青信号を走り抜ける。
「もうさ、どれだけお荷物扱いされても会社にしがみつきつづけてさ、これからもこつこつお金ためる。それでいつか、家族と別れて一人になりたい。そしてね、何歳になってもいいから、ダンス教室を自分で開きたいの。好きなことを自由にやりたいわ」
ぶっちーはサイドウインドウを開けた。新鮮でつめたい風が入り込んでくる。もう三月。けれど夜はまだまだぎりぎり、冬の匂いがしている。
「娘が結婚して孫が生まれたりしたって、面倒なんて見てやんないんだから。あんなわがまま娘。父親の影響ばっかりうけて、わたしのことを見下してさ。そもそもうちの夫って、ずっと無職も同然で、わたしが長年食わせてやってたのよ? やんなっちゃう。ねえ、わたしが自由の身になったら、もっと遊んでもらわなきゃ困るから、桜子さん、長生きしてね」
「ちょっと」と桜子。「まだ長生きなんていう年じゃないわよ」
「あら失礼」
二人が声をそろえて少女のように笑う。桜子もサイドウインドウを開けた。やがて、佐藤さんのおにぎり屋が見えてきた。もう店の前ののぼりは片づけられている。そのとき、リカちゃんの声が響の心の中でこだまする――金、健康、友達、この三つがないと楽しみ半減だから。この三つの確保だけは、今のうちから頑張るのよ――自分にそれができるだろうか、そんなことを考えつつ、また夜風の甘いにおいをかいだ。